限界
──ああ、そうだ。胸元で握っていた両手を下腹部辺りに下ろす。
話していなかったとはいえ、ノアがアリーシャの前で王子らしく、王族らしく振舞ったことなどあっただろうか。
ゆっくりと歩き出し、ノアの隣に少し距離を開けて静かに腰掛ける。まだ彼の顔を見ることはできていないが、突然の行動に息を呑んでいるのは伝わってきた。
出会ったときから、今この瞬間まで。アリーシャの前に、隣にいるのは。
ずっと、ノア・フォン・モルガンという一人の男性だったはずだ。
ノアがまっすぐに見てくれるように、アリーシャも彼をまっすぐ見つめる。
「……これからも、ノアとお呼びしてもいいですか?」
その瞬間、花が咲いたような、満悦らしい笑みを浮かべたノアは、アリーシャの身体を引き寄せた。
「ああ、ああ! もちろんだ! ありがとう、アリーシャ!」
太陽を連想させる、あたたかな匂いに包まれる。外で干していた洗濯物を仕舞うとき、この匂いが好きでつい抱きしめてしまうこともあった。元の世界から離れてまだ間もないと言うのに、懐かしい──ではなく。
どうして、抱きしめられているのか。ノアは王子だ。誰かに見られでもすれば、大変な騒ぎになるはず。冷静沈着だと思っていたが、大胆なことをする一面もあるとは。
それにしても、これはどのような行動を取るべきなのか。引き離すのが得策だろうが、それは悲しませることになる。かと言って、さすがにノアの背に手を回すわけにはいかず。アリーシャの手は行き場を失ったまま。
その間にも、抱きしめる力が強くなっていく。喜びはひしひしと伝わってくるが、苦しい。正直、そろそろ限界だ。
「あ、あの、ノア、苦しいです……!」
「……っ、すまない。喜びを抑えきれなかった」
慌てて身体を離すと、ノアは口元を右手で隠しながら頬を赤らめる。引き離していれば、このような彼は見られなかっただろう。
「はあ……何たる有様だ」
子どもか、とがくりと項垂れるノアの落ち込みが激しい。
何と声をかけるべきか。元の世界では友人と呼べる者はおらず、人との関わりもほとんどなかったため、どんな言葉がいいのかわからない。驚きはしたものの、抱きしめられたことは嫌ではなかったが、これを伝えたところで何か変わるだろうか。
わからない。本当に不甲斐ない。ノアは、アリーシャには過分なほどの嬉しい言葉をかけてくれたというのに。
「……落ち込んでいる場合ではなかった。アリーシャ、相談があるんだ」
顔を上げたノアは、姿勢を正してアリーシャを見る。気持ちを切り替え、同じく姿勢を正す。
「負傷した兵士達を、魔法で治癒してもらえないだろうか」
「え?」
「もちろん、無理にとは言わない。時間はかかるが、治る怪我だ。それに、人数もいる」
「それは、大丈夫です。その、任せていただけるのですか?」
もちろんだ、とノアは力強く頷いた。
任せてもらえるのなら、精一杯頑張るつもりだ。大した力ではないが、この世界では魔法がないと聞いている。尚更、こんなときに使わずにどうする。
けれど、問題が一つ浮上した。
「魔法を、何と説明すればいいでしょうか」
そのまま説明をするとなると、アリーシャが異なる世界からやってきたことも話す必要があるだろう。
それは別に構わないが、ノアのように信じてくれるかどうか。
「隠すことなく、魔法だと言えばいい。異なる世界から来ていることも。ああ、その事情までは説明しなくていいからな」
「ですが……信じて、もらえますかね」
「実際にその力を目にし、どのようなものかを知れば、誰だって信じる。この世界に、魔法はないからな」
ノアは立ち上がり、アリーシャへ手を差し出す。
「それに、何があっても俺がついている。行こう、アリーシャ」
宿屋に入る前は、この手を取ることを躊躇してしまったが、今は。
おずおずと手を出し、そっとノアの手に触れる。手は優しく包まれ、アリーシャはゆっくりと立ち上がった。
信じてもらえるのかと不安だった心は、繋がれた手のぬくもりがそっと溶かしていく。
不思議と、心が軽くなっていた。
* * *
臨時詰所には、怪我人が数多くいた。
致命傷を負っている者はおらず、ノアが言っていたとおり、時間はかかるが治る怪我で済んでいる。しかし、全快するには時間がかかるだろう。
そのような怪我を負っていても、ノアが姿を現せば場の空気は一変した。誰もが彼の無事を喜び、そのあとは隣に立っているアリーシャに関心を寄せる。
その目に怯えてしまっていると、背中を支えるように優しく手が添えられた。
「彼女は、アリーシャ・メイ・ホワイト。致命傷を負って死にかけていたところを、彼女に救われた」
辺りは騒々しくなる。隣にいる者と顔を合わせ、何度もアリーシャへ視線を向けられた。
本当だとしても、どうやって。信じられない。口を揃えてそう言うものの、最後に行きつくのは皆同じ。
それではまるで、おとぎ話の聖女ではないか。
やがて、懐疑的な目がアリーシャに向けられた。その目が怖く、はく、と口を開けたとき、小さくも優しい声で「大丈夫だ」と励ます言葉が耳に届く。
アリーシャは息を吸うと頷き、前をしっかりと見据えた。
「わ、わたしは、別の世界からやってきた、魔女と呼ばれる者です。今から、魔法と呼ばれる力で、皆さんの傷を治します」
別の世界から来たとは何か。魔女とは。魔法とは。再び騒がしくなるものの、それらに気を取られまいと深呼吸をして両手を前に出す。
人数もいるとは聞いていたが、想像以上に多い。できるだろうかと不安はあるが、致命傷を負っていたノアを何とか救えたのだ。今回も、ここにいる者達の傷を治してみせる。
今、治癒魔法を使えるのは自分だけだから。すう、と息を吸い、魔力を込める。
「彼の者達の傷を癒す優しき雨よ、ここに降り注げ!」
淡い光が床を走り出した。光は傷ついた者達を囲むようにして円を描くと、頭上に雲のようなものが広がり、そこから、ぽたり、ぽたりと水滴が落ち始める。水滴は次第に雨となり、光の円の中で静かに降り注ぐ。
「な、何だこれは!?」
「こんなところで雨か!? いや、でも、濡れてないぞ?」
「おい、見ろ! 雨が当たったところから傷が塞がっていく!」
この雨は、衣服や身体を濡らすことなく、雫が触れた部分の傷を癒すもの。人数が多いため時間はかかるが、雨はゆっくりと傷を癒していく。
(絶対に、皆さんの傷を治してみせます。それまでは、倒れられない)
魔力量だけは、家族の誰よりも多かった。だけど、それだけ。肝心な攻撃魔法は一切扱えず、治癒や防御魔法も必要とされない。ただただ魔力を持て余していた、そんな日々。
こうして役に立つ日が来たことは嬉しいものの、その反面、厳しくもあった。
致命傷を負ったノアの傷を癒し、巨人の攻撃を防ぐために防御魔法を展開し続け、今は大人数の怪我人の治癒。
どれも通常よりも魔力の消費が激しい。そのため、視野が
だからと、倒れるつもりはない。ここにいる全員の傷を治すと決めたのだ。唇を噛み締め、必死に魔力を込め続ける。
「すごい、打撲も綺麗になくなっている! これが、まほうとやらの力か?」
「見ろ、折れていた骨が元に戻った!」
「本当に、おとぎ話の聖女様じゃないか!」
ぼんやりとする意識の中で、これまでとは違う、歓喜のような声が聞こえてきた。傷は癒えただろうか。もう、全員大丈夫だろうか。
アリーシャの足の力が抜け、がくりと膝から崩れ落ちる。床に倒れる寸前、力強い腕が身体を受け止めてくれた。
「アリーシャ! しっかりしろ!」
ノア。声を出そうにも、意識がもう保てそうにない。魔法も魔力が途切れたため、光の円も雨も消えていく。
治癒できただろうか。他にも怪我をしている者はいないだろうか。
訊きたいことがあるのに。アリーシャの名を呼ぶノアの声が遠くなっていく。声にならない声でノアの名を口にし、アリーシャは意識を手放した。
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