夢の異世界生活が始まったので死ぬまでハッピーに無双する

晴間あお

夢の異世界生活が始まったので死ぬまでハッピーに無双する

 朝、素敵な夢から目覚めたら、家を出る時間だった。

「は?」

 スマートフォンを二度見するがやはり数字は変わらない。

 時計は正確。世界は現実。

 おれは数秒かけてその事実を受け入れて、

「はあああああああああああ!?」

 と、心の中で叫びながら飛び起きた。

 ここからは早回しだ。

 速攻で制服に着替えてあれやこれや40秒で支度してダイニングに駆け込む。

「どうして起こしてくれなかったんだよ!」

 と口走ってみたが想定していた相手は不在で姉貴がひとりだらしない格好で朝ごはんを食べていた。

「うっさいなあ。お父様とお母様ならとっくにお仕事に行きましたわよ」

 姉貴がこちらの意図を汲み取ってご丁寧にふざけた説明をしてくださった。

 よく考えてみれば当然だった。

 世の中はすでにそういう時間だ。

「そういう姉貴はずいぶんとのんびりじゃないか」

「そりゃまあ、今日は二限からだからね」

「ちくしょう!」

 無意味なやり取りに時間を費やしたことを後悔する暇もなく玄関に向かう。

 背後から「朝ごはんはー?」と聞こえたがもちろん無視。

 靴を履いて玄関を出て自転車に飛び乗り高校へGO!

 寝ぼけた体と頭を置き去りにするかのごとく自転車をこいでこいでこぎまくりいつもの通学路をいつもとは違う猛スピードで駆け抜ける。

 その勇姿を鼓舞するかのように心臓がドクドクと景気のいいリズムを刻んだ。

 やがて交差点に差し掛かりおれは勢いよく左折する。

 自転車は左側通行。

 左から左への円運動はシームレスに行われ再び直線運動へと移行する。

 はずだった。

 その手前。

 曲がっている途中で、右斜め後ろあたりから衝撃が伝わった。

 それから髪の毛一本ほどの時間差でやってくる、全身への強烈な一撃。

 体が重力を振り切って跳躍し、置いてけぼりを食らった内臓が沈み込む。

 そういえば、遠心力のせいで思ったよりも膨らんだカーブになってしまったな。

 急がば回れというが、その回り方にも十分に注意せねばならぬぞよ。

 スローモーションの景色の中、ボケた思考が走り去っていった。

 ねじれながら暗転していく視界のすみに、宙を舞うひしゃげた自転車と、大型トラックが一瞬、見えた気がした。

 あ、これは……。

 もしかして、死

 おれの頭が展開していく。

「ねえ、話聞いてる?」

「え?」

 おれはギルドの片隅のテーブルに座っていた。

 対面にいるのは一緒にパーティーを組んでいるスミレ。

 窓からは朝の清々しい光が降り注いでいる。

 辺境の町でありながらバランディアの朝のギルドは、いつものように冒険者たちで賑わっていた。

「ごめん、聞いてなかった」とおれは素直に言った。

 するとスミレは身を乗り出して、おれの顔をまじまじと見た。

 アニメのように整ったスミレの顔が、高解像度でアップになる。

 はっきり言って、スミレは超かわいい。

 この子を独占していると思うと、優越感を感じてしまうほどに。

「別に体調が悪いわけじゃなさそうね」

 そう言いながらスミレは席に座り直した。

 しなやかで清楚な、品のある仕草で。

 ただその表情は、少し不満そうでもあり、頬を染めているようにも見えた。

 スミレは何かを隠すように、窓の外に目をやった。

「で、なんの話だっけ?」おれは場を仕切り直すように言った。

「え? ああ」我に返ったスミレが話し出す。「今回はどのクエストを受けるかって話だよ。ユウマくんのおかげで中難易度のクエストは順調、というか余裕でこなせているから、そろそろ高難易度の部類に手を出してみてもいいんじゃないかって思うんだけど」

「そうだな」とおれはわざとらしくふんぞり返って言った。「まあ、おれの手にかかれば魔王軍の幹部クラスでも楽勝だろうから、どんなクエストでもかかってこいって感じだけどな」

「そうやって調子に乗らないの。魔王軍関係のクエストにふたりだけで挑むなんて聞いたことがない。受けるんだったらせめてあとふたりは仲間にしないと。ユウマくんだって無敵ってわけじゃないんだから」

「わかってるよ。魔王に挑むパーティーは4人ってね。それくらいの常識はわきまえているさ」

 と、その時だった。

 ギルドの受付カウンターがにわかに騒がしくなった。

 異変を察知して受付に注意を向けると、ギルドの受付嬢と町の監視員の会話が聞こえた。

「なんですって? それは確かですか?」

「ああ、間違いない。いますぐ緊急クエストを発令するんだ!」

「わ、わかりました」

 そう言うと受付嬢は、ギルドに集まっている冒険者たちに向けて大きな声を発した。

「冒険者のみなさん、緊急クエストです! たったいま、ダークドラゴンの姿が観測されました。進路から考えてどうやらこの町を襲おうと向かってきているようです。緊急クエストに参加してくださる冒険者のみなさんは、城壁外で待機し、ダークドラゴンを迎え撃ってください!」

 それを聞いた冒険者たちが、慌てた様子で次々と声を上げた。

「ダークドラゴンだって!?」

「なぜ深淵地帯の魔物がこんなところに!?」

「ただでさえ超がつく高難易度クエストじゃねーか! それを何の準備もなしにやれってか?」

「そもそもダークドラゴンに出くわしたら逃げるのが定石だろ!?」

「でもそれじゃあ、この町はどうすんだよ!?」

 なかば冷静さを欠いた言動が湧き起こった。

 そしてそれは無理もない話だった。

 歴戦の冒険者ほどダークドラゴンの強さを熟知している。

 だからこそこの反応。

 冒険者として生き残り、培ってきた知識や本能が、こう告げているのが見てとれた。

 逃げろ、と。

 だからおれは、立ち上がった。

「次に受けるクエストが決まったな」

「えっと……、それはつまり?」おれの発言を受けてスミレは不安げに言った。

「それはもちろん」とおれは笑って答える。「ちょっとダークドラゴンを倒しに」

 はぁー、とスミレはため息をつき、呆れた顔をした。「まあ、ユウマくんならそう言うと思ったよ」

 そう言ってスミレも立ち上がった。

 おれとスミレは信頼を確かめるように見つめ合い、やがておれは先陣を切って言った。

「それじゃあ、行こうか」

 おれとスミレはバランディアを囲む城壁の外に出て、監視員がダークドラゴンの姿を観測したという方角へと走った。

 町に被害が及ばないように、できるだけ離れて迎撃するためだ。

 走っているうちに、平原の青空を背景にしてまっすぐこちらに向かってくる黒い飛翔体が見えてきた。

 ダークドラゴンだ。

 あっという間に大きくなっていくその姿に、ものすごいスピードで飛んできているのがわかった。

 おれたちはその時点で、その場に足を止めた。

「ここで食い止めよう。スミレ、作戦通りに!」

「任せて!」

 おれは剣を抜き、空に向かって飛んだ。

 跳んだんじゃない。飛んだんだ。

 剣士でありながら自由に空を飛ぶことができる、魔法も物理も無視した飛行スキル。

 それは、おれが女神から与えられた12のチート能力のひとつだった。

 おれはダークドラゴンが飛翔する高度をこえてさらに上空へと飛び、頃合いを見て空中に停止した。

 今度は大地を背景にして、ダークドラゴンの漆黒の体が迫ってくるのが見えた。

 地上にはスミレ、上空にはおれが、ダークドラゴンの進行ルートを挟み込んで待ち構える。

 そしてとうとう、まるで遠近法を無視したような巨体が、おれたちのいる場所までたどり着いた。

 町にしか用はないといったふうに、猛スピードでおれたちのあいだを通り過ぎようとするダークドラゴン。

 しかしその行手に、美しくも力強い、氷の花火が咲き誇った。

 ダークドラゴンの巨体にも負けない、広範囲の氷魔法。

 地上にいるスミレの魔法が、炸裂した瞬間だった。

 その威力と輝きに、さすがのダークドラゴンも怯み、進行を止めた。

 思わぬ攻撃にダークドラゴンは興奮し、その場で羽ばたきながら魔法の出どころを特定しようと魔力を探知して、地上を睨みつける。

 その瞳はひとりの少女、つまりはスミレの姿を捉えたのだろう。

 ダークドラゴンが空中にいながら、攻撃態勢に入るのがわかった。

 その背びれが紫電のように光り始め、大地を飲み込むかのように大きく口が開かれる。

 触れるものの命のすべてを灰に変えるという、漆黒の光線。

 それがいまダークドラゴンの口腔から、地上にいるスミレに向けて解き放たれようとしていた。

「だけど、それは遅すぎる」

 すでに急降下をしていたおれは、一閃、ダークドラゴンの首を切り落としていた。

 12のチート能力のひとつ、絶対切断。

 おれに切れないものは、この世に存在しない。

 それにダークドラゴンとて、自分よりはるか上空に魔力を持たない人間が浮かんでいるなんて、思いもよらなかったことだろう。

 だからこれは、不可避の切断だ。

 急降下したおれは、そのままスミレのいる地上へと難なく着地した。

 少し遅れて自由落下していたダークドラゴンの巨体が地面を揺らし、続いて切断された首がどさりと落ちてきた。

 ダークドラゴン討伐クエスト、クリア。

 おれは剣を鞘に収め、駆け寄ってきたスミレとハイタッチした。

「やりやがったな、おまえら!」

 バランディアのギルドに戻ったおれたちは、冒険者たちから手荒い祝福を受けた。

「まさかあのダークドラゴンを瞬殺とはな!」

「見損なったぜ、ユウマ!」

「それを言うなら『見直したぜ』だ、バカ!」

「スミレもすごかったぞ。あんな大きな氷花火は見たことがねえ!」

「ああ、ふたりの連携プレイに乾杯!」

 ギルドはどんちゃん騒ぎになった。

 最初こそおれとスミレは「ありがとう」と応じていたが、冒険者たちの騒ぎはしだいに主役を抜きにした盛大な飲み会へと発展した。

 そこでお酒が飲めるわけでもないおれたちはギルドをあとにし、近くの落ち着けるベンチに移動することにした。

 ベンチに腰を下ろす頃にはちょうど日が暮れ始め、町はきれいな茜色に染まっていた。

「冒険者たちの相手をするほうが、ダークドラゴン討伐よりも疲れるよ」とおれはぐったりとして言った。

「それは言えてるかもね、ユウマくんにとっては」とスミレは隣で苦笑した。

「でも、今日は悪かったな。スミレをおとりにするようなことをして」

「そんなことぜんぜん構わないよ。だってわたし、ユウマくんのこと信じてるから。それに……」

「それに?」

 スミレの目は泳ぎ、もじもじしていた。

 頬が染まっているのは、夕日のせいだけじゃないとわかった。

 やがてスミレは思い切ったように、早口で言った。

「それにわたし、ユウマくんのことが

 その瞬間、おれ以外のすべてが停止した。

「は?」

 すべてが停止した。

 すべてと言ったらすべてだ。

 町を歩く人も、空を飛ぶ鳥も、もちろんすぐ隣にいるスミレも。

 時間停止の魔法?

 いや、そんなはずはない。

 時間を操るのは不可能とされているし、仮にできたとしても膨大な魔力が必要なはずだ。

 その魔力をおれが見過ごすなんてありえない。

 それに敵の気配もまったく感じない。

 じゃあ、これはいったい、なんなんだ?

 おれは瞬きもせずに口を開けたまま固まっているスミレの顔の前で、手をひらひらとしてみた。

 当たり前のように、何の反応もなかった。

「そんなことをしても無駄ですよ」

 突然、泡が立ったように声が聞こえた。

 いつの間にか、すぐそこに小さな少女が立っていた。

 少女?

 いや、違う。

 おれの頭が展開していく。

 その少女は、ただの少女じゃない。

 その少女は――。

「なーんだ、誰かと思えば女神様じゃないですか」とおれは納得して言った。「いきなり現れるからびっくりしましたよ。こんなことまでして、何かあったんですか?」

「わたしが女神様、ですか」と女神様はあたりを見回した。「なるほど、そういうことですか。自分が見たいものの整合性を保つために新たな解釈を加える。フロイトに出てきそうな話ですね。とても興味深い。ですが、いまはそのような考察をしている暇はありません」

「どうしたんですか、女神様。今日は少し様子がおかしいですよ?」

「千葉優馬さん、わたしは女神ではありません。そして初めまして、千葉優馬さん。わたしの名前は、井上真里と申します」

「はい?」

 ノイズのようなものが、駆け巡った気がした。

 いや、違う。

 おれの頭が展開していく。

 この少女は――。

「ああ、マリィと言ったんですね。女神マリィ、初めまして。双子のお姉さんから話は聞いていましたが、本当に瓜二つですね。お姉さんは元気にしていますか?」

 と、おれは言った。

 おれの頭が展開していく。

 しかしマリィは――。

「どうやら、このまま話すのは難しそうですね」と淡々と言った。

 そしてマリィは手を振り下ろして空中にメニューを開き、何か操作をした。

 その瞬間だった。

 おれとマリィはまっしろな立方体の部屋にいた。

 出入りをするためのドアはどこにも見当たらず、天井に埋め込まれた無数のLEDライトが、潔癖とも言える部屋全体を満遍なく照らしている。その中央にはこれまたまっしろなテーブルとイスが二脚、向かい合って座れるように用意されていた。マリィはテーブルの向こう側に立っていた。しかしその姿は少女ではなく、30代前半と思われる大人の女性で、医者か科学者といった感じの白衣を着ていた。

 そういうおれは、高校の制服を着ている。

 高校の制服?

 何を言っているんだ、おれは?

 その疑問に答えるかのように、頭の中に何かが侵入してくる、ような気がした。

 覚めるような、冷めるような、頭。

 おれの頭が展開していくストーリーがぼろぼろと崩れ落ちて、まるで閃いたかのように突きつけられる、ほのかな事実。

 この立方体の世界は、実写だった。

 これまで見ていた世界がアニメの作画だったことに、いまになっておれは気がついた。

「改めまして、わたしの名前は、井上真里と申します」とマリィ、ではなく、井上さんが言った。「どうぞ、お座りください。千葉優馬さん」

「いったい、何が……?」

「千葉優馬さんの夢に干渉して、こちらで用意した夢を見せています。できれば使いたくなかったのですが、現実をわかっていただくためにはこうするしかなさそうでしたので」

 そう言って井上さんは、身振りで席につくように促した。

 おれは重力に従って舞い落ちるように目の前のイスに座った。

 おれの頭が展開されていく。

「こうした干渉は長時間したくありません。ですので大変申し訳ありませんが、重要な点に絞ってお話しします」井上さんは対面の席に座って続けた。「千葉優馬さん、わたしたちはあなたにある実験に参加していただきたいのです。と言っても現状、すでに実験は開始されているのですが。何しろ実験を始めなければ、こうして会話すらできない状態ですので。ああ、ちなみにご家族からの承諾は、もちろんすでに取ってあります」

「それは……、どういうことですか?」

 おれは絞り出すようにして言った。

 気持ち悪い、何か、気持ち悪い、何か。

 SNSでうっかりネタバレを食らってしまうような、予感めいたものが、混乱と絡み合っていた。

「千葉優馬さん、あなたは今朝、交通事故に遭われました。それは覚えていますか?」

「交通事故? そんな覚えは……」

 ないと言いたかった。

 けれど井上さんの言葉が引き金になったのか、ふいに記憶が蘇った。

 いまの自分にはまるで夢のような、それでいて現実だとわかってしまう、記憶、体験、実感。

「その事故によって千葉優馬さん、あなたはあと数時間で死亡します」と井上さんがあっさりと言った。

「は?」

 にわかには信じがたい事実、だとは言えないことがなぜかわかってしまう。

 そのくせになぜかおれは、異様に落ち着いた気分になってきていた。

 おれの頭が展開されていく。

 何かに誘導されるかのように。

「おれが、死ぬ?」

「はい。医師によれば長くても持ってあと半日だそうです。もう目覚めることはなく、意識を失ったままお亡くなりになります。そこでわたしたちは、あなたにある装置の実験を行うことにしました。『終末期の最期に自由な夢を』、という目標で開発が進められている<ドリームウェーバー>という装置です。その目標が示す通り、この装置を使えば、その人が見たいと思う夢を自由に見られるようになります。ここまで話せばもうおわかりですね。はい、その通りです、千葉優馬さん。わたしたちは現在、あなたにこの装置を使用しています。あなたが見ているこの世界は、あなたが作り出した夢です。現実のあなたはいま、病院の集中治療室で眠っていて、あなたの意識だけが、こうして夢を見ています」

「それが本当なら、まさに夢の装置ですね」おれは半笑いで言った。「でもそんなにいいものならこうなる前に使ってくれたらよかったのに。おれだったら喜んで実験に参加しますよ」

「そういうわけにはいきません。明晰夢を見るというのはリスクのある行為だからです。夢と現実の区別がつかなくなる恐れがあるし、脳が本来必要とする睡眠の機能を妨げてしまう。ですので<ドリームウェーバー>の使用は、終末期患者の方だけを対象にしたサービスとなる予定です。そのため実験も、このような形に」

「なるほどねえ。それで『終末期の最期に自由な夢を』、ですか」

 やはりおれは笑っていた。

 嬉し涙のように笑顔が溢れた。

 意外にも冷静で、意外にも狂乱している。

 それがわかるくらいには、夢が明滅していた。

 おれの頭が展開されていく。

 そんなおれに向けて、井上さんは書類とボールペンを差し出した。

「この実験に関する説明文書と同意書です。内容をお読みになって承諾していただけるのなら、ご署名を」

 おれはボールペンを手に取り、たずねた。「念の為にもう一度聞くけど、おれがあと数時間で死ぬっていうのは、本当なんですか?」

「はい。残念ながら」

「そっか」

 おれは説明文書なんて一文字たりとも読まずに、同意書にサインした。

「よろしいのですね?」と井上さんが言った。

「だってそうでしょう」とおれは答える。「何もない暗闇のなかで死んでいくくらいなら、夢のなかでやりたい放題したいに決まってる」

「わかりました。わたしたちはあなたの意思を尊重します」井上さんが書類を受け取ると、書類はどこかに転送されるかのように消えた。「これで正式に、千葉優馬さんは実験に参加することになりました。他に何か質問等はありますか?」

「じゃあ、ひとつだけ」

「なんでしょう」

「どうして半日も経ってから現れたんです? こういうのって、一番最初にすべきことじゃないんですか?」

「ほう」そう言い放った一瞬だけ、井上さんの目が丸くなった気がした。「そうですか、半日も経っていましたか。ですが千葉優馬さん、現実の世界では装置を作動してからまだ3分と経っていません。これでもわたしはすぐに駆けつけたんですよ、現実時間においては」

「それは、朗報ですね」とおれは頭を巡らせて言った。

「そう、かもしれませんね」と井上さんは不思議な間を取って言った。

 それでは、よい夢を。

 そう言い残して、井上さんは消えた。

 そして景色が、一瞬で書き換えられる。

 おれの頭が展開していく。

 、ユウマくんのことが……」と言い淀むスミレがいた。空を飛ぶ鳥がいた。町を歩く人がいた。

 おれはバランディアに戻ってきていた。

「……って。ユウマくん、大丈夫?」

 スミレが緊張と不安の入り混じった表情で、おれの顔を伺ってきた。

 だからおれは、スミレを抱き寄せてキスをした。

 初めてのキスなのに、ひどくうまくいった。

 スミレは驚いたようだったが、あっさりとおれを受け入れた。

 知らないはずのやわらかくて甘い感触が、唇から全身に行き渡った。

 気持ちいい。

 とても、気持ちいい。

 気持ちよすぎて、逝ってしまいそうになるほど。

「大丈夫だよ、スミレ」と、おれは唇を離して言った。

「だ、大丈夫って、ななな何が?」とスミレが顔を真っ赤にして言う。「それに、これって……、これって、つまり……」

「ああ。そういうことだよ、スミレ」

 そう言っておれが微笑むと、スミレは嬉しそうに涙を浮かべ、我慢できないといった様子で抱きついてきた。

 おれはスミレのぬくもりに包まれながら、その頭を撫でた。

 死ぬほどハッピーな気持ちだ。

 死ぬまでハッピーな気持ちだろう。

 そして死ぬまでハッピーなこの冒険は、始まったばかりだった。

 長いとは言えないだろうが、濃縮した夢の時間が待っている。

 楽しくなってきたな。

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