十四、再び、運命の夜


 夜風を切って、わたしは走った。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた吊り橋を、脇目もふらずに駆け抜ける。


 ──知らせなくちゃ、あのひとに。


 きらめく髪と、新芽のような緑の瞳を思い浮かべた。

 彼を殺すなんて絶対に許さない。

 サルはわたしが守るんだ。

 一刻も早く、アメノ様の計略を伝えなければ。


 社殿から離れるにつれて、木製の設備が減っていく。

 カナモノ製の通路を走るとカンカンと高い足音が鳴った。

 風車が低いうなり声を上げて回っている。

 歯車のカチャカチャと噛み合う音が響いている。


 今のサルは小さな箱家には住んでいない。

 壁も柱もカナモノでできた頑丈な家を村はずれに建てて、そこで暮らしている。


「サル、サル! 大変だよ!」

 硬い扉を、わたしは何度も叩いた。

「いったい何事かな。そんなに血相を変えて──」

「サルっ!」

 現れた男の胸に、わたしは飛び込んだ。


 ほっそりとした見た目からは想像できないほど、サルの胸板は分厚かった。

 耳を押し付けると彼の鼓動が聞こえた。

 この心臓が止まるところを想像すると、恐ろしくてたまらなかった。

 どういうわけか涙が溢れた。


 サルの胸の顔を埋めて、わたしはぼろぼろと泣いた。

「ずいぶん取り乱しているね、カガミ」

「大丈夫、わたしは大丈夫だよ」

「とても大丈夫には見えないよ」

 子供をあやすような声。

「何があったのか私に話してごらん。さあ、そこに座って。何か暖かい飲み物を作るから……」

「イヤだ」

 ごつごつした胸におでこを押し付ける。

「イヤ。もう少しだけ、このまま……」


 サルはゆっくりと息を吐いた。

「参ったな、これは」


 壊れやすいものに触るような手つきで、サルはわたしの肩に腕を回した。

 もう一方の手で、わたしの頭をそっと撫でた。


   ◇


 やかんのお湯が沸くころには、わたしは落ち着いて話せるようになっていた。

 サルは濃いお茶を煎じると、木の椀に入れて差し出した。


 二人がけの腰掛けに並んで座る。

「慌てずに飲むんだよ、やけどしてしまうから」

「ありがとう。驚かせてごめんなさい」


 サルはわたしの顔を覗き込んだ。

「それで、いったい何があったのかな?」


 間近で見る彼の瞳は、暖炉の光を反射して不思議な色に輝いていた。

 吸い込まれるように、わたしは彼を見つめ返した。

「あのね、アメノ様がね──」


 そして、わたしは洗いざらい話してしまった。

 社殿に大人たちが集まっていたこと。

 アメノ様がサルを殺そうとしていること。

 サルが死ぬかもしれない。

 考えるだけで息が苦しくなった。


「まさか」

 彼は穏やかに笑った。

「アメノ様がそんなことを考えるとは思えない。あの人は語り女だ。人殺しなんて罪深いことをするとは、とても……」

「でも、ほんとうなの。わたしは聞いてしまったの」

 緑色の瞳を、わたしはじっと見つめ返した。


 取り乱しそうになる気持ちを、ぐっとこらえる。

 サルの襟もとを掴んで、早く逃げてと叫びたい。

 だけど、わたしが冷静さを失えば、サルはきっと信じてくれない。


 木酢灯の光が、音もなく揺れている。


 やがて、サルはゆっくりと口を開いた。

「ほんとうなんだね」


 わたしは静かにうなずいた。

「うん、ほんとう。聞き違いでも見間違いでもないよ」


 鼻がつんとして、また涙ぐみそうになる。


 彼は微笑んだ。

「平気だ、カガミ。私は死なない」


 本当はサルだって怖いはずだ。

 自分の命が狙われていると知って、平然としていられるわけがない。

 彼が微笑んだのは、わたしを安心させるためだった。


 わたしのための笑顔だった。


 サルの息がわたしの顔にかかる。お茶の香りがした。

「正直なところ、まだ信じられないけれど……。でも、警戒は怠らないようにしておこう。むしろ私が驚いたのは君の反応のほうだよ。カガミ、君がそんなに取り乱すとは思わなかった」

「だって、わたしは──」

 気づくとサルの顔に手を伸ばし、彼のほっぺたに触れていた。


「あなたが好きなの。たぶん、初めて会ったときから、あなたを好きになってしまったの」


 何度も心の中で練習した台詞は、いざ口にしてみると笑ってしまうほど陳腐だった。

 幻滅されただろうか?

 サルは村を発展させるという崇高な目的のために生きている。

 比べてわたしは、ただ、サルが好きなだけ。

 それだけの理由で、彼に付き従ってきた。


 彼は笑いも怒りもしなかった。

「何度目かな、君に命を助けられるのは」

 彼の指が、わたしの髪に触れる。

「君のことは、妹のような存在だと思っていた。君が、私に対して特別な感情を抱いていることは知っていたよ。だけど、それはたとえば兄に向けるような感情だと思っていた」


 彼はわたしからお茶の椀を取り上げると、近くの机に置いた。

「たぶん、私も怖かったんだ。だから君を妹のような存在だと思い込もうとした。だって、とても信じられなかったから」

「信じられなかったって、何を?」


「君が、私と同じ気持ちだということを」


 目頭が熱くなって視界がぼやけた。

 嫌な涙ではなかった。

「カガミ、君がいてくれてよかった。ありがとう」


 涙を流れるに任せたまま、わたしはサルとくちびるを重ねた。

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