七、まれびと③
彼の生まれ故郷では、太陽のことを「サル」と呼ぶらしい。
彼の両親は、息子を太陽と名付けたのだ。
「すてきな人たちだね、あなたのお母さんとお父さんは」
「いいや、私の生まれた場所ではありふれた名前だった」
村はずれの階段に、二人並んで座っていた。
サルは、村の男衆と同じ服を身にまとっている。
遠くでは、竿に並んだ洗濯物が白くたなびいている。
おだやかな陽光の下で村人が午後の休憩を取っていた。
「ありふれた、どこにでもいる人間になるのが嫌だった。だから私は生まれた場所を飛び出したんだ。自分にふさわしい居場所を見つけたくて」
「どうして、ありふれた人間になるのがイヤだったの?」
「君は嫌ではないの?」
わたしたちの足もとには小さな紫色の花が咲いていた。
床板の隙間に生えたコケが、いつしか黒い泥になって、他の植物の土壌になるのだ。
二羽の蝶がもつれあうように舞っていた。
「わたしには、よくわからないよ」
脳裏に浮かんだのはウヅメの姿だ。
アメノ様に選ばれて、幼なじみは特別な地位を手に入れた。
ありふれた人ではなくなった。
けれど、自分が語り女になりたいかと訊かれたら、わたしは答えに詰まる。
「そうか、わからないか」
サルは微笑んだ。
「やはり私は、あまりにも遠くまで来てしまったようだ」
「ねえ、サル。あなたは一体どこから来たの?」
何度も訊いた質問だ。
「遠い場所」
いつもと同じ答え。
「それ以上の説明はできない。説明しようにも、説明するための言葉がこの村にはない」
サルは驚くほど物覚えがよく、わたしたちの言葉をあっという間に会得してしまった。
村人と同じ服を着て、同じものを食べて、一刻も早く村の一員になろうとしているみたいだった。
それでも、鮮やかな緑色の瞳と金色の髪は、頑固な大人たちを遠ざけるには充分だった。
「あっ、サルのお兄ちゃん、見つけたあ!」
「カガミお姉ちゃんも一緒だあ!」
四、五人の子供たちが渡し板を駆け寄ってくる。
サルをすぐに受け入れたのは子供たちだった。
子供たちはサルを取り囲むと、彼の体にしがみついた。
「あのね、とうりょう様がお兄ちゃんを呼んでいるの!」
「もうすぐ休憩は終わりだから持ち場に戻りなさいって、言っていたよ」
「あっ、ずるい! それはあたしがお兄ちゃんに言うはずだったのにぃ」
子供たちに囲まれてサルはしあわせそうに笑った。
一人が彼の背中によじ上り、金色の髪をくしゃくしゃにする。
サルはされるがままになっていた。
子供の歩幅にあわせて、ゆっくりと村の中心部に向かう。
「この村の子供たちは、ほんとうに元気だね」
「サルの生まれた場所では違ったの?」
「うん。私の生まれた場所では、子供はこんなふうに笑わない。遊びよりも勉強のほうが大切だと教えられる。大人はすべて悪人だと言い聞かされる」
「なんだか息苦しい場所だね」
「だから私は旅立った」
サルは手を伸ばし、わたしの頭をなでた。
「君たちに出会うためにね」
サルにとって、当時のわたしは他の子供と同じだったのだろう。
わたしは体も心も幼くて、一方、サルは大人だった。
よく懐いた女の子の一人でしかなかったはずだ。
けれど、わたしにとってサルはすでに特別な存在だった。
髪に触れられただけで心臓が止りそうになり、うまく喋れなくなってしまうのだった。
「君の名前はカガミと言ったね」
「……う、うん」
「君の名前には、どういう意味があるのかな」
サルは太陽という意味だという。
「わからない。カガミは昔からある名前だから、深い意味はないのかも。……サル、あなたの名前みたいに、すてきな意味じゃないよ、きっと」
「そんなことを言ってはいけない。どんな親も願いを込めて子供の名前を決める。この世界にすてきじゃない名前はないんだよ」
「でも聞いたことがないよ。カガミって名前の意味なんて」
「それなら訊いてみるといい。どんな気持ちでカガミという名前に決めたのか。君のお父さんに訊いてごらん」
わたしは立ち止まった。
「お父さんはいないの」
サルは、ハッとふり返ると、わずかに表情を固くした。
「わたしのお父さんは、トビウオ漁のときに死んでしまったの。大きなトビウオに体当たりされて、足場から突き落とされたの」
「それは……。すまない、悪いことを訊いた」
「いいんだよ、サル。この村ではよくあることなの。……だから、そんな顔をしないで」
サルの顔から気まずさが消え、かわりに険しい表情になった。
背中に乗った子供が「早く行こうよぉ」と金髪を引っ張る。
サルは動こうとしなかった。
「よくあることなのか?」
怒ったような言い方だった。
「そうやって人が亡くなるのは、よくあることなのか」
「う、うん……」
いつになく厳しいサルの口調に、わたしは肩をすぼめる。
どうしてサルは、こんな声を出すのだろう。
わたし、何かまずいことを言ってしまったのかな。
「……そうか」
短く言うと、それきりサルは黙りこくった。
口を閉じたまま、村の移設工事に戻っていった。
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