六、まれびと②


 朝もやの中、わたしは重たい木桶を運んでいた。


 てんびん棒が肩に食い込む。

 木桶の中身はだ。

 樹液から食糧や燃料を精製したあとに残る赤茶けた廃液のことを、液かすと言う。


 早朝、まだ誰も目を覚まさないうちに液かすを集めて捨てるのが、あの頃のわたしの仕事だった。

 木桶の中身をこぼさないように慎重に階段を降りる。


 液捨て場は、大人が三、四人集まれば満員になってしまう小さな足場だ。

 村の最下層に位置しており、ここよりも低い場所に建物はない。

 見上げれば、折り重なった箱家や板張りの通路が頭上を覆っている。


 滅多に人の寄り付かない液捨て場が、わたしは好きだった。

 この村では数少ない一人きりになれる場所だから。


 けれどその日、液捨て場には先客がいた。


 すらりと長い手足に、金色の髪。

 後ろ姿でも見間違えるはずがない。


 彼だ。


 手すりに両手を置いて、彼は下界を見つめていた。


「こ、こんにちは……」

 恐る恐るわたしは声をかけた。

 直後、おはようと言うべきだったと気づき、ほっぺたが熱くなった。


 彼はゆっくりとふり返ると、じっとわたしを見つめた。

 彼の瞳は春の新芽のように鮮やかな緑色だった。


 わたしは慌てて視線を落とす。

 彼をまっすぐに見つめ返したら、まぶしさのあまり目がつぶれてしまいそうな気がした。

 重たいてんびん棒を運んで、わたしのおでこには汗の粒が浮かんでいた。

 そんな自分の顔を、彼にまじまじと見られたくなかった。


 恥ずかしさを誤魔化すために、足元を見つめたままわたしは訊いた。

 自然と早口になってしまう。

「どうして、こんな場所にいるの? 介添えのおば様たちはどうしたの? 一人で出歩くことをアメノ様はお許しになったの?」


 彼はまだ床に伏せっていたはすだ。

 意識が戻ったという話すら聞いていない。


 返事はなかった。


「もしかして……目を覚ましたばかりなの?」


 あり得ない話ではなかった。

 彼が村に来てから、すでに七日が経とうとしている。

 はじめの二、三日は、みんな緊迫感を持って仕事に当たっていた。

 世話係の女衆も、寝ずの番の男衆も、いつ彼が目を覚ましてもいいように待ち構えていた。


 けれど今朝は、たまたま見張りの人たちの気が緩んでいたのかも。


 わたしは視線を上げる。

「ねえ、そうなんでしょう? あなたは、ついさっき意識が戻ったばかりなんでしょう?」


 わたしは木桶をおろした。たぷんと中身が揺れた。


「体の具合は大丈夫? 痛いところとか、ない? この場所までよく降りてこられたね。縄ばしごは怖くなかった?」


 彼は少し困ったように微笑んだ。

 しかし、わたしの質問には答えない。


「そっか……」

 わたしはようやく気がついた。

「あなた、わたしの言葉が分からないのね?」


 大昔、人間の言葉は一つではなかったという。

 言葉が通じないせいで誤解が生まれて、殺し合いをしていた。

 そんな伝承を聞いたことがある。


 村の外からやってきた彼は、わたしたちとは違う言葉を使っていたのかも。

 きっと、そうに違いない。


 自分の発見にちょっぴり得意になって、わたしは胸を張った。

「はじめまして。わたしの名前はカガミと言います」


 自分を指差しながら、わたしは繰り返した。

「カガミ、それがわたしの名前なの。名前って、分かる?」


「か……が……み……?」

 彼の声は低く、夜のように豊かだった。


「そう、それが名前。わたしの名前。わたし、あなたを助けたんだよ?」


 村を包んでいたもやが少しずつ薄まっていた。

 景色が輪郭を取り戻していく。


 頭上に連なる建物は、まるでからくり細工のように精巧で複雑だ。

 眼下には世界樹の幹が下界に向かって伸びていて、はるか彼方の根もとは乳白色の霧に隠されている。

 霧は地平線まで広がっている。


 その地平線が、朱色に染まりつつあった。


「ねえ、あなたの名前は?」

 朝日に照らされて、金色の毛先がきらめいた。

 口調や仕草から質問の意味が分かったのだろう。


 彼は自分を指差した。

「サル」


 そして指先を、昇ったばかりの太陽に向けて繰り返した。

「サル」


 村に光が射そうとしていた。

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