第36話
「ありがとう。あなたのおかげで、助かったわ」
夕暮れの足音が聞こえる空の下、魔獣の背から降りたアスターは、ドラゴンらしく硬い頬を撫でた。嬉しげに左目を細めた彼は、一度少女に顔を寄せてから、横たえられたローリエへと視線を移す。落石の合間を縫い、一瞬の気の緩みさえ許されない道中でも、彼は意識を取り戻さなかった。冷たい手指を温めるには、降り注ぐ陽光では足りない。認めざるを得ない現実が忍び寄っている気配を、少女は確かに感じている。
主たちの帰還に気が付き、足取りも軽く近寄ってきた二頭の馬が、晴天に不似合いな重い空気に、顔を見合わせた。彼らに力なく微笑みかけたアスターは、ローリエの枕元へと座りこむ。眼帯のない、前髪を払った彼の相貌を正面から見るのは、ほとんど初めてだった。
――指輪も、義眼も、万能じゃない。そんなことは、分かっているけれど……まだ、受け入れたくない。
後頭部からの出血で固まった長い髪は、後ろ姿で彼だと分かる、大切な印だった。考え事をする時に、決まって無精ひげを撫でる仕草も、ローリエの手癖として覚えている。まだ温かい首筋に、アスターは、望みをかけていたかった。
「……どうしたの? おじさまの荷物に、何かあるの?」
好きにさせているドラゴンが、彼の上着と、馬が背負った荷物のそれぞれに鼻先を近づけては、不思議そうに小首を傾げている。傍目には特に違和感がない、それらの場所に共通しているのは、内側にポケットがあるという点だけだった。
「ちょっとだけ、失礼しますね」
ローリエの上着を捲り、魔獣がしきりに嗅いでいた場所を探ってみる。指先に触れた、硬く小さな品を取り上げてみれば、複数の宝石が寄り集まった一片が、アスターの掌に収まっていた。
「どの原石も、光ってる……。ああ、魔力が籠っているから、気になったのかな」
ダイヤモンドが核となった鉱石には、ルビーやエメラルド、サファイヤといった、希少な天然資源が集合していた。
――あれほど豊かな鉱脈は、きっと、世界のどこにもないんだわ。
だからこそ、ラディチェはあらぬ罪を着せられてまで、帝国に侵略されたのだ。今となっては、少女の手元にある欠片だけが、その存在を証明する唯一の証拠品となっている。
物思いに耽るアスターをよそに、ドラゴンは、馬の荷を嘴で崩しにかかっていた。慌ててそれをたしなめ、彼の反応を見ながら、右手で漁った鞄の底には、何やら硬い感触があった。左手に避難させた原石よりも滑らかな小物を、他の荷物で傷つけないように取り出してみると、青い花弁が姿を現した。
――これって、おじさまが採りに行った、枯れない菖蒲の一部じゃない?
青が強く表れたウッドオパールは、ローリエがノワに賭けを持ちかけ、そして見事に勝利を収めた、どんな怪我や病も治すという曰く付きの代物だ。婦人に明け渡されたとばかり思っていたが、どうやら、大人たちの間では、別な形で取引が落ち着いていたらしい。花形の鉱石の大半はノワに、一部だけはローリエにと、わざわざ割られた跡があった。
「……どんな怪我も、治す……」
呟いたアスターの瞳へ、みるみるうちに生気が宿っていく。少女の両手には、魔力のこもった原石と、治癒の伝承が残る花の一部が、片方ずつに握られている。
――この魔力を、花弁に移すことができたら。
転ぶようにローリエの腰元へと座ったアスターは、二つの宝石を傷口にあてがった。震える手を叱咤して、触れ合わせた鉱石が、切に望む結果をもたらしてくれるよう、祈る。旅を共にしてきた二頭と、始まりと終わりにいてくれた一体が見守る中で、少女はきつく瞼を閉じていた。
――お願い。お願い、お願い!
瞼越しに眼球へ届いた光は、西日ではなかった。アスターが包みこんだ二つの鉱石から発される、放射状の七色の光が、その光の正体だったのだ。驚きに目を見開いた彼女は、脇腹の傷口が修復されていく様子をしかと捉えた。明るさが弱まり始めた二つの原石を、次は頭部に添えてみると、再び煌めきが増していく。神の所業とも見紛う治療は、一部始終を楽師が目撃していたのなら、ハープの音色に合わせた詩が編まれるだろうものだった。
今度こそ、光が沈黙する。アスターの手の中にあった、魔力と魔法をそれぞれに宿した石たちが、砂のように形を崩して、指の合間をすり抜けていく。息を呑み、彼を見下ろすアスターの膝元で、睫毛が震える。橙色に染まりつつある世界で、少女から伸びる長い影と重なったローリエは、緑色の瞳で瞬いた。
「……アスター?」
柔らかく、低い声が、不安でいっぱいだった彼女の胸を満たしていく。あっという間に潤んでしまった、少女の大きな両目から、安堵の涙が滑り落ちる。次から次へと湧き出てきて、本人の意思では、到底止められそうもない。少しだけ驚いたらしい彼は、すぐに口角を緩ませて、とびきり優しい微笑みを彼女に捧げた。
「ローリエ、おじさまぁ……っ!」
彼の腕に迎え入れられたアスターは、初めて、男の名前を呼んだ。それは、彼女が彼を、大切な家族の一員として愛おしく思ったことの証明だった。
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