第25話
「彼女の左目に埋まっているのは、『悪魔の瞳』と呼ばれる代物だ。他にも似たような物があるから、我々はこれらをまとめて『悪魔の神器』と括っているのだが――『悪魔の神器』は、身に着けた人間を『悪魔』へと変容させる、恐ろしい呪具なのだよ」
悠々と語る教皇の背後に控えた男たちは、ローリエが現れた時と変わらない視線で、兄妹を見下ろしている。侮蔑を隠そうともしない眼差しは、彼らの蛮行に気付いているはずの老人からもたしなめられず、ただ二人へ注がれるばかりだ。
「生まれついての『悪魔』ではないから、片目のうちであれば、我らにも救うすべはあった。手間はかかるが、浄化の儀式を行えば、『悪魔の神器』を身体から外すこともできた。しかし……その子は、既に両目が染まってしまっている。これではもう、人間には戻せない」
青年の息が詰まる。右の掌を沿わせたミオの頬は、雨に打たれた彼より冷たい。虚ろな視線が、一瞬、ローリエの瞳と交わったかのようにも見えた。
「妹は、この、義眼のせいで……?」
返答はない。無言の肯定が、彼の理性の首根を掴み、跡形も残さずに打ち壊さんとする。鈴を転がすような声だったミオの喉から、荒れ果てた何かが発される。長らく会えない間、ローリエが聞きたいと切望していた彼女の言葉は、もはや誰にも届かなくなっていた。
「だから、『悪魔』の処刑を頼みたいのだ」
柔和な態度を崩さない彼は、真っ青な顔で俯く彼に、銀の短剣を握らせた。皺だらけの乾いた掌が、雨と汗で濡れている青年の右手をとり、これ以上なく優しく包む。ローリエの左手は、ミオの背に回されたまま震えている。
「わたしも心苦しい! ローリエ、そなたはいつも教会に尽くしてくれているというのに、謂れなき告発で苦労をさせてきた」
片膝をついた老人は、彼の右手を段々と強く握りしめながら、熱っぽく語り続けている。常ならば数百、数千の聴衆の前で行われる演説は、稲光が水と共に大地に降るこの夜に、絶望の淵へ追い詰められた青年ただ一人に向けて行われていた。
「この仕事をやり遂げてくれた暁には、司教という立場を与えよう。さすれば、下賤な輩はおのずと消える」
ローリエの頭の中には、不思議とパイプオルガンの旋律が流れていた。自分が引き起こした妹の惨劇と、確かに幸せだった家での日々に、目の前の光景と演説がないまぜになって吐き気がする。浅くなった呼吸が、彼の思考の調律をさらに狂わせていく。
「それに――彼女を、これ以上苦しませたくはないだろう?」
青年は、左腕で支えている彼女を、いま一度見つめた。ミオは、もはや元の暮らしには戻れない。身体の表面の傷が癒えようとも、潰された声帯は治らないし、踏み荒らされた尊厳にも、永く苦しむことになるだろう。加えて、翠眼になった身で生き長らえさせれば、彼女の一生を迫害の歴史に捧げることになる。愛する妹には少しでも長く、幸せに生きて欲しいと願っていたローリエのささやかな祈りは、今や、最も残酷な夢物語と成り果てていた。
青年の心の器から溢れた感情が、大粒の雫となって次々に落ちる。震えながら、能う限りに優しく床へ横たえた妹の心臓は、まだ微かに動いている。讃美歌が頭の中で鳴り響き、息が荒れる。ローリエの瞳から流された涙が、ミオの顔を汚す赤の表面を滑った。
――俺の、たった一人の妹。
華奢な腰元に跨り、両手で短剣の柄を握りしめる。滲んでは明瞭になり、間もなく滲んでいく視界でも、彼女のブロンドは美しかった。
放っておいても止まってしまうだろう心臓の真上に、景色が映りこむほど研がれた切っ先をつける。柔肌のキャンバスに、新しく赤い雫が浮かぶ。しかし、身体の表面に張り巡らされた毛細血管を傷つけた彼は、そこで動けなくなってしまった。ひゅうひゅうと鳴る風の音は、窓の外からではなく、ローリエの喉から発されている。彼の頭の中には、彼女と積み重ねてきた幸福な日々が駆け巡っていた。
――ただ、笑って欲しかっただけなのに。
短剣を握る彼の手元は、皮肉にも、神に祈る手指の形とほとんど同じだった。悪魔を斃した勇者を神格化し、崇め讃えるために建てられた聖殿で、ローリエは、最愛を処さねばならない。
不意に、彼の手へ、何か冷たいものが触れる。見下ろすと、そこには、爪が剥がされたミオの掌が添えられていた。傷だらけの彼女の頬には、場違いなほどに穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ロ、イ」
おかえり。
彼女だけが使う愛称と、唇の形のみで語りかけられた彼の手を、氷のような両手が覆う。折り重なった祈りの形は、蝋燭の火を照り返す刃を、肉の中へと埋め込ませていく。それは、伝えるすべと権利のほとんどを奪われた彼女による、精一杯の意思表示だった。
ローリエの視界では、もう、全ての景色が水の膜に溶けてしまっていた。妹の最期の甘えが、愚かな兄のために使われたことが堪らなく悔しくて、哀しかった。
「――愛しているよ、ミオ」
泣き濡れた歪な笑顔を捧げた彼は、小さな心臓に銀を刺した。患部を覆う外套が、流れ出した血液を吸って重くなる。手の甲に血管が浮かび上がるほど強く、短剣の柄を握りしめていたローリエの手から、ミオの指が滑り落ちる。あらかじめ壊されていた彼女の身体は、たった一突きの裂傷で、呆気なく魂を手放した。
リズムの遅い拍手が、静まり返った大聖堂に響き渡る。
「よくやってくれたね。我が兄弟」
蜂蜜よりも甘ったるい声が、場に居合わせた全員の耳に届く。
「そなたは聡明だ。反逆者として断罪するには惜しいほど……。しかしね、鎖が少し、足りないんだ」
分かってくれるね、と言葉を継ぎ足しながら、教皇は銀の短剣を奪い取る。すかさず傍へ寄ったブランシュが、血の滴る凶器を、老人から恭しく譲り受けた。
「そこでだ。司教となるローリエには、この『悪魔の瞳』の管理を、その身をもって全うしてもらおうと思う」
軽く左手を掲げた老人の合図に従って、黙っているばかりだった司教たちが、ローリエを捕らえて床に縫い付ける。長身の彼といえども、複数人の男たちが相手では、あっという間に身動きが取れなくなってしまった。
「な、にを……」
「義眼を埋めこむなら、今ある眼は邪魔だろう?」
擦り切れた精神でなけなしの抵抗を試みても、四肢の一本も自由が利かない。倒された時に床へ打ち付けた頭蓋が揺れて、焦点がぶれる。
「そう不安がらずとも、すぐに終わるよ」
悪魔を刺し、司祭に明け渡された短剣が、今度はローリエの左目を抉った。長い黒髪を靴裏で踏みつけたブランシュには、修道士の絶叫がまるで聞こえていないようだった。白髪の男が耳の裏に吹き付けてきた百合の香水が、鉄の臭いと混ざって気持ち悪い。過ぎた痛覚を受け止めきれなくなった彼の五感は、首を落とされた鶏のように勝手な動きをしていた。
眼球は、視神経を数本巻き込みながら抜き取られた。ローリエは、強引に空にされた眼窩を、鏡で確かめることすら許されていない。激痛に悶える彼の新たな左目として、外套に身体を包まれている女の骸から、色のくすんだ「悪魔の瞳」が移された。
「何、難しいことはない。遺物の力を使わなければいいだけだ。従順でいてくれるのであれば、時々は浄化も施そう。そうすれば、より長く『人間』でいられるからね」
逆さまに覗き込んでくるブランシュと教皇は、どちらも人好きのする微笑みをたたえている。砂浜を削った波が海原へ戻るように、事を終えた権力者たちが立ち去った教会には、いずれ悪魔が芽吹く種を植え付けられた男と、一人分の遺体だけが残された。
――ああ、そうか。俺は、飼い殺しにされるのか。
こと切れた悪魔に縋り、獣の呻き声とも聞き紛う青年の嗚咽は、夜通し続いた。
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