第40話 犬
「
純喫茶カズイは今日も粛々と、営業している。
カウンター席には客がふたり。
右端に腰を下ろしているのは弁護士の
カウンターの中からコーヒーカップを差し出すマスター──逢坂の問いかけに、弁護士と民俗学者はどちらともなく顔を見合わせる。
「例の、手首の話ですよね」
先に口を開いたのは、市岡稟市だった。逢坂は大きく首を縦に振る。
「あのふた文字は……孫が、憲造が連れ歩いていた人形の目玉に刻まれていた文字と同じだろう」
「じゃけど、目玉そのものは
煙草に火を点け、紫煙を吐きながら鹿野迷宮が言う。その通りだ。響野憲造から一対のグラスアイを託された刑事・
元の姿に戻ったといった方が正しいだろうか。
「結局あの……人形はいったい、何だったんだ」
「
迷宮が尋ね、逢坂が頷く。市岡稟市は無言で煙草に火を点けている。
「あれは──」
「迷宮さん」
「稟市くん。言わんでええことと、言うた方がええことの違いぐらいはおれにも分かるよ。ほいでね、あの人形の正体はね、少なくとも憲造くんと逢坂さんは知っといた方がええことなんよ」
「……それは、そう、ですね」
くちびるを引き結んだ稟市の肩を軽く叩いた迷宮が、
「あの人形はね、『梦葵娃娃社』が販売しとる、スタンダードタイプの『
「……は?」
短い沈黙の後、逢坂はそう声を上げた。稟市もまた、信じ難いとでも言いたげな表情で迷宮を見詰めている。
「な……そんなこたぁ俺だって分かってるよ、迷宮さん」
「分かっとるならええ思うよ、おれは」
「いや、でも、迷宮さん……その結論はあまりにあんまり……」
言い募る稟市を横目で見遣った迷宮は、
「それなら、ふたりはどがいな結論が欲しいん?」
「ええ……」
「綺麗な人形じゃったじゃないの」
「それはまあ」
「孫も気に入っていた」
「そがいなこと。それで終わり。深く考えん方がええってことよ、ただでさえ
吸い終えた煙草を灰皿に押し込み、手元のコーヒーカップの中身をひと息に飲み干した迷宮が「ほいじゃあね」とカウンター席から飛び降りた。
「午後の講義があるけえ。行くわ」
「大学のセンセイも大変だな」
「憲造くんが退院したら、また娘とお祝いに来るけえ。稟市くんも、またね」
「はあ……はい」
飄然とした足取りで店を出て行く迷宮の後ろ姿を見送り、
「ただの人形か」
と呟いたのは逢坂だった。
「まあ、……綺麗な人形でしたよね」
「俺には化け物や妖怪のことは何も分からないが……稟市、おまえは今の、迷宮さんの結論で納得したか?」
問い掛けに、市岡稟市は眉を下げて笑った。
「綺麗な
「そうか」
「響野くんは、きっと、大丈夫なんじゃないですかね? なんとなくですけど」
「なんとなくか。まったく、どいつもこいつもいい加減な……」
どこか遠くを見ながら、逢坂はそう呟いて黙った。
波音が聞こえてくるような沈黙が落ちる。
「今日は、他にお客さんは来ないんですか?」
稟市の問いに、そうだな、と逢坂は心ここに在らずといった様子で応じる。何もかもが終わった。終わるまでは酷く賑やかだった。市岡兄弟、鹿野父娘、錆殻光臣に小燕向葵といった変わり種まで顔を出した。その中心には常に逢坂の孫である響野憲造の姿があり──その響野はこの先の人生を、不可思議な
逢坂は、理由を知りたがっていた。そして稟市も迷宮も、答えを知っていながら口にしなかった。逢坂の業を──響野憲造は背負ったのだ。偶然ではない。彼は、選ばれてしまった。
稟市には、逢坂の気持ちがどことなく理解できるような気がした。近しい人間を
響野が歩いた、果てのない海辺のことを考える。
人は皆、いつか永遠の海辺に辿り着くのだろうか。
人だけではない。木偶であっても、同じように。
了
揺蕩う木偶と疾る犬 大塚 @bnnnnnz
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