第39話 揺蕩う

 夢を見ていた。

 揺蕩たゆた木偶でくの夢だ。


 風松かぜまつ楓子ふうこの真実は、結局何も分からないままだった。夜明よあけと語り合ったことがすべてだったのかもしれないし、夜明が隠していた部分もあるのかもしれない。


 何にせよ、人形、夜明はもうどこにもいない。燃えてしまった。


 三ン蛇さんじゃはまを彷徨って、もう死んでしまうと思った。死んでしまっても仕方がないと思った。あの社にいたふたりの女が人間だろうが、そうでなかろうが、殺してしまったという事実から目を背けることはできない。自分の身を守り逃げるだけならば、何もあそこまでする必要はなかったと──


(……悔いは、ないんだけどね)


 ──そう笑えるほどに道を外れた。愉快ですらあった。ひとりの女の死から始まって、遺された人形を相棒にここまで疾ってきた。ゴールテープはどこにある? まだ走り続けなくてはならないのか? それならば、それでいい。楽しかった。成すべきことを成し遂げた。


(夜明さん)


 もう顔も思い出せない。薄情な話だ。あんなにずっと一緒にいたのに、結局木偶は木偶、ヒトはヒト、違う存在でしかないというのなら。


憲造けんぞう


 声がする。


「憲造。起きろ」


 ずっと聞きたかった声だ。


「憲造」


 三ン蛇さんじゃはままで迎えに来てくれたのが、インチキ霊能者と生真面目警察官だったのは心底意外で可笑しかった。いつも小洒落た格好をしている錆殻さびがら光臣みつおみは窶れてヨレヨレだったし、響野の生存を確認した小燕こつばめ向葵あおいの目から涙が滴ったのを目撃した瞬間には「見なかったことにしよう」と秒で心に決めた。あのふたりは、の外側から響野を迎えにきてくれたのだ。

 虚構をぶち破るきっかけを作ったのは誰だろう。夜明だろうか。それとも風松楓子? もしかしたら、響野の全然知らない関係者がまだどこかに潜んでいるのかもしれない。それならそれで構わない。この事件はもう間もなく終わる。


「憲造」

「……おじいちゃん」


 逢坂おうさか一威かずいが、眉を下げてこちらを見詰めている。


 響野の意識が安定した途端、刑事たちによる取り調べが始まった。話せる範囲のことはすべて話した。社を焼いたことについては伏せておいた。どうやら自分でも知らないあいだに「焼いた」「燃やした」と口走っていたらしいが、小燕刑事が「意識が混濁していたようだから、悪い夢でも見ていたのかもしれない」と横からすべてを有耶無耶にしてくれた。正直かなりありがたかった。ありがたいといえば錆殻光臣にも礼を言わねばならないのだが、響野の意識が戻るのを待たずに彼はまたタレント業に戻ってしまったらしい。個人的に礼を言うためには前回のようにテレビ局の前で待ち伏せをする必要がありそうだが、


「まあ〜……体力全回復するまではそこまでしなくてもいいんじゃない?」

「そっすね。俺もそう思うす。別にめちゃくちゃ光臣さんに会いたいわけじゃないし……」

「うはは。正直だ」


 取り調べがひと段落し、車椅子に乗ってラウンジに向かったら市岡いちおかヒサシがいた。待っていてくれたらしい。


「あれ? 逢坂さんは?」

「ああ……なんか別件で取り調べ」

「別件?」

「……その」


 と、一瞬言い淀んだ響野は、


「俺を探すのに、……昔のツテを使ったでしょ。あの人」

「あー」


 ヤクザ、と呟くヒサシの口を響野は大慌てで塞ぐ。


「言わない! 言っちゃダメ!」

「んぐぐ。いやぁ、でも、逢坂さんが昔そういう……ヒトだったっていうのは別に、そんなびっくりするようなことじゃないんじゃないの?」

「だからまずいんすよ。今はほら、喫茶店のマスターとして大人しく過ごしているからアレだけど……あの人アレすからね? 横断歩道のない道路を斜めに突っ切っただけで捕まる身分ですからね?」

「えっそこまでなの?」


 自動販売機で買ってきた温かいココアを響野に手渡しながら、ヒサシはぐるりと目を回して見せる。


「めちゃくちゃ警戒されてんじゃ〜ん」

「そうすよ。あの店だってその……今ここでは言えない色々が……」

「まあ、みんな事情はあるってことで」

「……ヒサシくんはほんと、なんか全部さらっと流しますよね」

「俺ぇ? まあ、俺はほら俺が色々の塊みたいな部分があるからさぁ」


 小さく笑ったヒサシは肩を竦め、


「それで、結局のところどこまで覚えてるの? 響野くんはさ」


 問いかけに、響野は力なく首を横に振る。

 覚えている、覚えていない、それ以前の問題だ。


「これ見てくださいよ、ヒサシくん」

「おー?」


 差し出された両手首。身を乗り出したヒサシは先ほどとはまた違う動きでぐるりと目を回し、


「『祝』と『禍』!」

「そうそれ」


 ふた文字が、響野の手首の内側にくっきりと刻まれている。


「えー何これ! 刺青? 嘘でしょ?」

「嘘だったらいいんすけどね……洗っても消えないし、これはもう、こういうものとして受け入れるしか……」

「えー……ええー……」


 眉を下げてなんともいえない表情を浮かべるヒサシにも、そして響野にも、理解はできているのだ。ただなんとなく、口に出すのが憚られるだけで。


 これは、夜明の置き土産だ。


 長い時間をともにした、同じ惨劇を駆け抜けた、揺蕩う木偶が人間の体に最後に遺していったふた文字。

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