第28話 三ン蛇浜③
寒い。
意識を取り戻した瞬間、そんな風に思った。
頭を殴られたりしたわけではなさそうだ。くん、と鼻を鳴らすと、嗅いだことのない匂いがした。薬を使われたのか。
「──ない」
「──嘘、そんな、はずは──」
冷たい床に転がされている。両腕を背中に回されて、縄か何かで縛られている。両足首も同様で、僅かにしか体を動かすことができない。
女たちの声がする。
「──姉さまが持ち出した──あの目──」
「──半世紀も──あの女──」
目。
大当たりだ。
「おい、記者。
スーツを着ていた方の女の声がする。目を覚ましていることに気付いたらしい。
ガシャン、という乱暴な音とともに、冷たい座敷牢の中に夜明が投げ込まれる。キャストドールをそんな風に乱暴に扱ってはいけないのに、怪我をしてしまう──などと考える響野の髪をスーツの女が鷲掴みにし、
「この、人形の、目玉をどこにやった?」
「……知らねー」
口の端を歪めて応じた、次の瞬間床に叩き付けられたのは響野の頭だった。姉さま、乱暴は、と和服を着ている方の女が平たい声で形だけの制止をしている。
縦瞳孔の目。髪を鷲掴みにする際に僅かに触れた手の異様な冷たさ。
ああ、人間ではない。
確証はなかったが、そう思った。
この女たちは、蛇だ。
「響野さま」
和服姿の女が口を開く。
「ふざけている場合ではないのです。
「生、命、線って何すか。あの目の裏っ側に、『祝』と『禍』って書いてあったの、俺も見たすよ」
「……」
くちびるをきゅっと引き結び、女は黙る。そのまま口の中で舌打ちをする音が、座敷牢の中に響き渡る。
「姉さま」
「燃やしちまうか」
この人形ごと──とスーツの女が言った。夜明。ウィッグと服を剥ぎ取られ、両目を抉られた夜明が、響野の目の前に転がっている。
(──あん?)
これ以上もないほどの命の危機だというのに、響野は不意に、気付いてしまった。
だが、気付いたことを女たちに悟られるわけにはいかなかった。
「きょうだい?」
クルマの中で発したのと同じ問いを、再び舌に乗せる。血の味がする。頭を叩き付けられた際、口の中を切ったのだろう。どうでもいい。
和服の女が目を細め、いかにも嫌そうに首を振る。
「楓子姉さまと? ええ、ええ、そうですよ。彼の方はわたくしたち三姉妹のいちばん上の姉──姉でありながら、その役目を放り出して逐電した女──」
「逐電? 俺は……放逐されたって聞いた、けど……」
「ベラベラ良く喋るな」
スーツの女が再び響野の頭を掴む。勢いを付けて床に叩き付けられ、目の前に派手に星が散る。
死ぬかもしれないと思う。
「全然……似てるけど、似てねえ……年齢が……」
「年齢? そんな、瑣末なこと!」
和服の女が笑った。
「見た目の年齢なんてどうにでもなるわ。だってわたくしたちは、
「神……」
神様。響野憲造は無神論者だ。というか、神がいてもいなくても、どっちでもいい。信仰心を持っていない。市岡ヒサシや錆殻光臣と関わるあいだに、神だとか、悪魔だとか、妖怪だとか、空飛ぶ生首だとか、そういったこの世のものではないものに遭遇し続けながら生きてきた。だから──そう、信じてやってもいい。今目の前にいるふたりの女がばけものだというのなら。
だが、神を、名乗るとは。
「……ひひ」
「何が、おかしいのです」
「ひっひひ……神、神さま、神さま、神さま……」
目が充血しているのが分かる。目尻から涙が溢れる。神さま、と発声する度に口の端から血が滴った。スーツの女が不気味なものを見るような目で見下ろしているのが分かる。
「冗談だろ、クソ、ばけもの」
「おまえっ……!!」
スーツの女の革靴が目の前に迫る。
──ブラックアウト。
再びの覚醒。
座敷牢は真っ暗で、和服の女も、スーツの女もいなくなっていた。後ろ手に縛り上げられ、両足の自由を奪われた格好は相変わらずで、鼻と口の周りで血が固まっているのが分かった。目の周りが妙に痛むのは殴られ蹴られしたことで無意識に涙が溢れたせいだろう。泣いた覚えはなかった。
夜明は、相変わらず目の前に転がっていた。
「夜明さん……俺らもしかしてクソやべえんじゃないかな……」
語りかける声が掠れすぎていて、自分でも可笑しかった。素っ裸で、目も髪も奪われて放置されている夜明が気の毒だった。気の毒──と思えるほどに、響野憲造は夜明という人形に人格を見出していた。入れ込んでいた。夜明のことが好きだった。
「夜明さん、ごめんね……」
もぞもぞと体を動かし、床を這い、夜明に近付く。うつ伏せに横たわったままの夜明の体を顎でひっくり返し、その平たい腹をじっと見詰める。POP人形店で夜明の腹の中を見せてもらった際、胸パーツと腹パーツの裏側に『禍』と『祝』の文字を発見することができた。薄暗い座敷牢の中で断言するのは難しいが、響野をここに連れ込んだあの女たちが夜明の体内に残された文字に気付いた可能性は低い。気付いていれば──夜明は五体満足の状態でここに転がっていたりしないだろう。
「楓子さんがキャストドールを使うって発想がなかったんか、あいつらには……?」
社務所を埋め尽くさんばかりに置かれていた日本人形やこけしたちの姿を思い出しながら、響野はひとり呟く。だが、夜明が装着していた目のことは知っていた。つまり? どういうことだ?
「もともとは目じゃなかった……? ただの蜻蛉玉を、楓子さんがドールアイってことにして隠した……?」
何のために?
体が痛い。寒い。今にも意識が飛びそうになる。だが、今眠ってはいけない。スーツの方の女が言っていたじゃないか。「燃やしちまうか」と。
燃やす。
風松の人間がふたり、焼死していることを思い出す。
火。
燃やし尽くすのが、この、
「海から来た……蛇なのに……?」
いや、海から来たから余計に、火を厭うのか。
自分たちであれば絶対に耐えられない方法で、始末を付ける。
(考えろ、考えろ、まだ何かヒントがあるはずだ)
空洞の目をした夜明の傍に体を横たえ、これまでに起きた事件を並べ直す。
最初は半年前。人形愛好家として有名だった
次に起きたのが時藤家に纏わる奇怪な事件。人形に呪われているという時藤叶子──風松楓子の妹の孫、
(あの時、光臣さんが、塩を、撒いて、)
その前段があったはずだ──思い出せ──。
(音……)
ザザ、という音がした。飴色の扉の中から、何かが擦れるような音が。
それで光臣は、なんと言った?
(おい、出てくるなよ──……)
あの時、部屋の中には本当に時藤叶子がいたのか?
間違いなく人間が閉じこもっていたのか?
──錆殻光臣は、気付いていたのか?
「っぐ、ゲホッ……!」
寒さに震えて咳き込むと、口の中から大量の血がどっと溢れるのが分かった。相変わらず今にもくたばりそうな状況ではあったが、頭だけは冴えていた。
時藤あずさは娘のために『祝』と『禍』を寄越せと迫った。錆殻光臣は飴色の扉の中にいるものに「餌をやるな」と言った。そうして塩を巻いて、「出てくるな」と念を押した。
「夜明さん、俺ちょっと分かってきたかもしれない……」
だが、謎解きを済ませる前に死ぬかもしれない。
そんな予感がする。
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