深愛の海底
甘灯
深愛の海底
『その命いらないなら、私にくださいませんか?』
ぞっとするほど浮世離れした美貌を持った男は
『……意味が分からない』
円は警戒を滲ませながら、男が差し出された手をじっと見た。
「だって貴女、今から死ぬつもりなのでしょう?」
「っ…」
男に図星を指されて、屋上の縁に立っていた円はたじろいだ。
ーーまさに男の言う通りだった。
円は進行性の乳がんと診断されて、他臓器の転移も見つかり数週間の余命宣告を受けた。 それを同居している婚約者に告げたら、あっさりと別れを切り出されて、アパートから追い出された。 円は家族がいない。小さい時に父親が死んでから母親に育児放棄されて、気づいたら施設で暮らしていた。親がいないから、施設育ちだからと言う理由だけで同級生に見下されて、友達といえる存在もいない。
円は屋上の
ー…この世界にはこんなにたくさんの人がいるのに、誰も私のことを見てくれない。
ー…自分の死を悲しんでくれる人は、誰一人いない。
円は完全に独りぼっちだということを実感して、生きる意味を失った。
(もう、どうでもいいや)
そう思っていた時に、その男から声を掛けられたのだ。
「円さん」
優しく自分の名前を呼ぶ声に、円はゆっくりと
「ああ、やっと起きましたか。もう死んだかと思いましたよ」
男は寄せていた顔をゆっくりと離すと、胡散臭い笑みを浮かべながら
この男はいつも笑っている。ポーカーフェイスと言うやつだ。
心の内が全く見えない。
それが気に食わないのに超絶イケメンなのがさらにムカつく。
「…死んでなくって……悪かったね」
円は不機嫌な顔をしたまま、横向きになって毛布をかぶりなおした。
「おや、二度寝ですか?」
「そう!あなたのせいで最悪な目覚めだったから寝直すの!」
円は目を固く閉じたまま、男に言い放った。
「…そうですか。せっかく朝食を用意したのに…残念ですが、片付けるしかないですね」
男は露骨にため息をつくと、テーブルに置いた料理を下げ始めた。“カチャカチャ”と虚しく響く食器の音に、円は居たたまれなくなって飛び起きる。
「あ~~~!!もう!!」
円は寝起きのぼさぼさ髪のまま、乱暴に椅子に座った。
「おや、二度寝はもういいんですか?」
男はわざと驚いた顔をした。
「…ご飯よそってよ」
円はぷいっとそっぽを向きながらボソッと言った。
「はいはい」
男はぶっきらぼうな円の態度にそっと微笑んだ。円はせっかく作ってくれた料理を無駄するなんてことは絶対しない。
「今日は円さんの好きな『落し卵のお味噌汁』を用意しましたからね」
男は味噌汁を木製のお椀によそった。
「!!」
円は目を輝かせて、熱い視線でエプロン姿の男の背中を見つめる。視線に気づいて男が振り返ると、円は慌ててぷぃ!とそっぽを向く。男は『ふっ』と笑みを深めた。そして円の前に湯気の立つお椀をそっと置いた。
「……ん?」
円がいつまで経っても食べ始めないことに、男は不思議になって首を傾げた。いつもなら無言で出された食事を食べるのに、一向に食べる様子がない。
「…食欲ないですか?もしかして体調が…」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは食べないの?」
男は円の言葉に“初めて”本当に驚いた顔をした。
「…ああ、そうですね。一緒に食べましょうか」
円は『一緒に食べたい』と思ったのだろう。円は言葉足らずで不器用なところがある。そんな彼女のことを微笑ましく思いながら、男は自分の分の食事を用意し始めた。その間に、円は電気ケトルのお湯を急須に注いで二人分のお茶を用意した。
男は席について、自分の分のお茶が用意されていることに気づいた。
「円さん、ありがとう」
男は微笑む。
「別に…いつも、あ、あなたが用意してくれるし、たまには。そ…それと」
その後の言葉がうまく出てこなくって、円は結局何も言えずに静かに俯いた。
男は円が何を言おうとしたのか、ちゃんとわかっている。その後に続く言葉は『ありがとう』に違いない。言うのが照れくさいのか、お礼を言い慣れていないせいなのか。円は自分の気持ちを言葉にするのが、お世辞にも上手いとは言えない。
「はい。では、揃ったので『いただきます』しましようか」
男は手を合わせて『いただきます』と言った。円は手を合わせることはしなかったが『いただきます』と消え入りそうな声で返した。
(どうして…この人は“私と暮らす”なんて、言ったんだろう)
円が差し伸べられた手を取った時、男は「死ぬまでの間、一緒に暮らしてほしい」と告げた。 男女が一緒に暮らすことの意味を円はすぐに理解した。だが同棲していた婚約者にアパートを追い出されて、行く宛のなかった円には好都合だった。 その夜、男は円に指1本触れてはこなかった。『すぐ死ぬ女と後腐れもなく共に過ごす』という前提の提案だと思ったのに、男が誘うことはなかった。
(どうして?それ以外に“私”に価値なんかないのに…)
婚約者だって元は『客』だった男だ。お金はある。だから店を辞めさせて円をアパートに住まわせてくれた。愛してくれてたと思ったのに、結局はただの都合のいい女でしかなかった。悲しかったが、自分には男を引き止めさせるような魅力がないのだから、それは仕方がない。
(むしろ、私のこと…汚いと思ってるのかな)
円は色んな男を相手にして生計を立てていた。そんな女は汚いと言ってくる男は少なからず居た。しかしこの男には名前以外のことは何も教えてない。 男女の関係が一切なく、男が“単純に一緒に暮らしたい”と言った理由が円には分からなかった。 円は男が愛想つかすような態度をあえてしていた。男の前で甘える演技なんか、仕事で慣れている。しかし円はこの男に対しては、わざわざ嫌われるような真逆の行動を取っていた。それは男への警戒心からの行動ではあったが、男を試していた節があった。
ー…自分の『どんな姿でも側にいたい』と、男が思ってくれることを円はどこか期待をしていたのだ。
「……ねえ」
ベッドに横たわった円が、側の椅子に座っている男に声をかけた。
「どうしました?」
男はりんごの皮を剥きながら尋ねる。
「私…水族館に行きたい」
円が男に具体的に何かをねだったことは、一週間一緒に過ごしてきたなかで一度もなかった。自分に心を開いてくれたのか?と思うほど、最近の円はありのままの自分の姿を見せることが多くなっていった。 少し幼さが残る話し方。素っ気なく振舞っているが本当はとても甘えん坊。男はそんな円のすべてをとても愛おしく思っていた。
ー…彼女の願いならなんだって叶えてやりたかった。
円に残されている時間は極僅かだ。少し前、一緒に食卓を囲んだ時の元気さは今の円にはもうない。ベッドで横になることが日に日に多くなっていった。 ー…これが円の最後の願いになるかもしれない。
「……そうですね」
男は果物ナイフをサイドテーブルに置き、ふきんで手を拭う。そして皮がうさぎの耳をしたリンゴを、円に見える位置に置いた。母親にリンゴを剥いてもらった記憶がなかった円は、そのうさぎのリンゴを見て、とても嬉しそうな顔をした。 そんな愛おしい彼女の姿に、男は無性に涙がこみ上げてきた。
円の喜んだ顔を自分はあと何回見ることができるのだろうか。なんとかこの悲しみの感情を呑み込んで、男はいつものように優しい眼差しで微笑む。
「なら明日にでも水族館に行きましょうか」
男の言葉を聞いた途端、円は「うん!」と嬉しそうに頷いた。
◇ ◇ ◇
虚空を見上げる少女。身体は骨が浮き彫りになるほどやせ細っており、服は薄汚れていて、何日もお風呂に入っていない肌は垢で黒ずんでいた。 カップ麺の容器やペットボトルなど、多くのゴミに囲まれて悪臭の漂うような劣悪な環境下の中に、彼女はいた。
『ねぇ、天使さん…私を早く天国のお父さんのところに連れて行って』
少女は幾度も涙を流して、目は赤く腫れていた。何度も袖で涙を拭った目元、涙の跡を残した頬は彼女本来の白い肌を
『…どうして?』
“天使”が少女に尋ねた。
『ここは地獄だから…』
少女は生気のない虚ろな瞳で、何度も何度も『ここは地獄』だと言った。
『地獄はもっと……いや…そうだな。…確かに君にとってここは地獄かな』
天使は「地獄はもっと酷いところだ」と言おうとしたが、それを口に出せなかった。地獄なんて、人の苦痛なんて、人それぞれ感じ方がまるで違う。彼女がこの状況を地獄というのなら、そうなのだろう。
『うん…だから天使さん。…早く、私を天国に連れて行ってよ』
『……そうしてあげたいけど。君の寿命は…まだまだ先なんだよ』
天使は申し訳なさそうに告げた。
『この地獄がまだまだ続くの?』
少女は俯いてしまい、両膝を抱えた。
『い、いや。君が寿命を迎える時は…きっと君は自分の人生を“幸福”だったと感じるはずだ』
天使は慌てて取り繕う。
『…なんでそう思うの?』
少女は
『私は天使だから分かるんだよ。だからもっと生きてごらん』
天使の言葉に、少女は納得いかない顔をした。
『天使が言うんだから。…ほら!信じるものは救われる、だ』
天使はそう言って微笑む。
『…うん、わかった…』
少女は急に眠くなったのか、うつらうつらしながら答えた。
『君は、とてもいい子だね』
天使は少女の頭を優しく撫でた。
◇ ◇ ◇
円はゆっくりと瞼を押し上げた。辺りは街灯の明かりのみで暗い。水族館前のベンチで、男に膝枕されている状態で円は横になっていた。
「ごめん…寝すぎちゃった」
円は弱々しい声で謝った。
入場前で体調を崩し、円はすぐ治るからと言ってベンチで休むことにした。しかし気づいたら水族館は閉館していた。
「終わっちゃったか…」
円が残念そうに呟いた。
「……大丈夫。少し目を閉じてごらん」
男はすこし寂しそうに微笑んだ。
「…うん」
円は言われたまま、静かに目を閉じた。
気づいたら、円は海底に1人
穏やかに波立つ海面が太陽の屈折した光でキラキラときらめいて見える。濁りのない透き通った水。海面近くを銀色の小魚の群れが泳いでいる。ゆっくりと視線を下げると、海底には鮮やかなサンゴ礁があり、その周りを色とりどりの熱帯魚が優雅に泳いでいた。 これは夢だな、と円は思った。いや、もしかしたら自分はもう死んでしまったのかもしれない。病に蝕まれた身体の痛みが今は全くないのだ。
「よかった…これで…やっと」
円は心の底からこの苦しみから解放されたことに安堵して、涙を流した。
「円…」
不意に名を呼ばれて、円は振り返る。
「…
円が初めて男の名前を口にした。聖はいつものように白いシャツと黒いズボン姿で微笑んでいる。ただ1つ違うのは、その背中には純白の羽根が生えて見えた。だがそれは両方とも途中で無理に引きちぎられたように失っていて、赤黒い血が絶えず滴り落ちている。
「聖、どうしたの!?」
円は慌てて聖のもとに駆け寄った。そして両膝を折って、倒れかけた聖の身体をしっかり抱きとめる。
「すまない。…円…もっと君を長生きさせたかったけど…もう代価になるものが…なくって…ね」
聖が弱々しい声音で告げた。
「…代価って?…なに…それ…」
聖の背に手を回して、円は思わず聞き返した。
「円に言ったのに…“幸福な最後”を迎えさせるって…なのに…すまない」
聖は円の問いかけに答えない。その代わりにうわ言のように「すまない」と何度も何度も
「聖…あの時…本当は…私、死ぬはずだったんでしょう?」
円は息が詰まりそうになりながら震えた声で聖に聞いた。聖はなにも答えず、ただ押し黙った。
「でも…その羽根と…引き換えに…私の寿命を伸ばしてくれたの?」
聖は何も答えないが、円の目からとめどなく涙が溢れ出た。
「私の為なんかに…馬鹿だよ…ねぇ…どうして…?」
円は泣きながら、聖をきつく抱きしめる。
「…円が地獄って言った…この世界で…君に幸せを見せてあげたかった…」
聖の願いは円の幸せだった。彼女の言う地獄で、ただただ死なせたくなかった。
「なぜ、君にだけこんな感情を抱くのか…わからないが、私は君のことが
聖はそう言って少し笑った。
「逆に…私の方が…君から幸せをもらってしまっていたな」
円の肩に寄りかかる聖の顔はとても穏やかで、満たされた笑みを浮かべていた。
「私もだよ。…聖と一緒に過ごして…私…すごく幸せだったよ。20年生きてて…聖と一緒に過ごしたあの1週間が…私の一番かけがえのない…幸せな時間だったの」
ずっと孤独な人生を送っていた。しかし最後にこんな幸せな時間を過ごせたのだから、自分はこの世界で一番幸せな人間だ。
「きっと…今までのくだらないと思ってた人生すべては…聖と過ごす為の…あの日々のための試練だったんだね」
円はそう断言できた。
ー…今までの地獄のような人生が全てこの時のためのものなら、自分は十分すぎるほど報われた。
「聖…。あなたが言ったとおりの幸せな最後を、私にくれて…ありがとう」
円は聖の身体を強く抱きしめた。
「………」
聖はひと息ついてから静かに笑みを浮かべると、ゆっくりとその瞼をおろした。
“ぽこぽこ”
生み出された泡が海面に向かって浮上する音がする。円は泡になって消えていく聖の身体を抱きしめながら、その光景を静かに見つめた。
「本当に幸せ…だったよ…聖」
それだけ言い残し、円も静かに自身の瞼をおろした。
“ぽこぽこ”
新に生み出された泡がゆっくりと
泡となった2つの魂の還る場所は、同じ蒼き天上の世界。
深愛の海底 甘灯 @amato100
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます