「会いたい」


 針を持つ手が、無意識のうちに止まった。高良先生の言葉の意味が分からなかった。意味を考えようとしたら、手が動かなくなった。手元を動かしながら意味を考えられるほど、簡単な言葉じゃなかった。「会いたかった」なんて言葉を私から引き出したいって、それはどういう意味? 考えても答えは出ない。だから、どういう意味か訊いてみたい。でも、訊けるわけがない。逡巡しているうちに、高良先生がまた話し出す。


「夏休み中は、こうやって放課後に会うのは難しいと思う」


「授業、午前中しかないのに?」


「うん。出張とか研修で忙しくて」


「そうですか」


 と、平気なふりをする。


「でも、夏期講習で毎日会うじゃないですか」


 毎日会える。そう自分に言い聞かせる。


「まぁ、そうだけど」


「月曜日なんて古典も現文もありますよ」


「授業中はこんな風に話せないだろ。俺、ちょっとさみしいんだよね」


 なんでそんなこと言うの。


「前にも言ったけどさ、俺、結構楽しみにしてんだよ? 矢野と話すの」


 高良先生の言葉に、心臓がきゅっと音を立てた。苦しいような気もしたけど、苦しいだけじゃない。とろけてしまいそうな、甘い痛み。


 高良先生がどんなに優しくたって、嫌な相手に勉強を教えたり、仕事を頼んだりなんてしないだろうけど、でも、ちゃんと言葉で言われるのとなんとなく感じるのとでは全く違う。高良先生の言葉で、この放課後の時間を楽しみにしていると言われたら、安心する。


「痛っ、」


 指先にチクリと鋭い痛みが走って、私は思わず声を上げた。見ると、左手の人差し指に、赤い血がぷっくりと浮かんでいる。高揚していた気持ちが、痛みによって冷めていく。まるで思いあがってはいけないと言われているようだ。


「大丈夫か?」


「平気です。ちょっと刺しただけなので」


 ポケットから片手でティッシュを取り出そうとしていると、突然、左手首を掴まれた。


「貸して」


 と、高良先生が私の左手を引き寄せる。見ると、高良先生の机の上には封の開いたポケットティッシュが置いてある。


「ティッシュ、持ち歩いてるんですか?」


「こういうときのためにね」


 言いながら、高良先生はティッシュで傷口を押さえる。強い力で掴まれているわけでもないのに、手を引っ込めようとしても、すり抜けられない。


「あの、自分でできます」


「いいから」


 私を宥めながら、高良先生は自分のペンケースを漁り、絆創膏を取り出した。


「絆創膏なんて持ち歩いてるんですか?」


「こういうときのためにね」


「へぇ……」


「引くなよ」


「いや……ポケットティッシュはまだしも絆創膏はさすがに……」


「役に立ったでしょ?」


「そうですけど……あ、いいです、自分で貼れます」


「コラコラ、動くな。ずれちゃうよ」


 大した傷じゃないのに心配し過ぎ、とか、ちょっと血が出たくらいなのに、とか、頭の中で高良先生の大袈裟ぶりを否定しても、私の胸はドキドキと高鳴ってしまう。絆創膏が貼られていく指先も、優しく握られている左手も、自分のものじゃないような気さえする。



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