三人暮らし
椅子の背にもたれながら、高良先生はまるで独り言のように話す。
「俺の場合は父親とだけど、二人暮らしだった。俺が10歳のときに母親が亡くなってから、ずっと」
物心ついた頃にはお父さんがいなかった私にとって、お父さんがいないことが当たり前だった。でも、高良先生は違う。お母さんとの思い出がちゃんとある。10年分も、ある。
「お母さんは、病気で?」
高良先生が首を横に振る。
「仕事で海外に行くことがよくあってさ。そこでデモみたいな事件に巻き込まれて、それで」
「悲しかったですか?」
こんなこと、訊いていいか分からない。
「……悲しかった、と思う」
高良先生が、伏し目がちにふっと笑う。
「当時のことはよく覚えてないんだよ。母さんが死んで一番ショック受けてたのが親父だったから、親父の面倒見るので精一杯で」
「ちゃんと悲しめなかったんですか?」
「まぁでも調度良かったかも。いくら悲しんだって母さんは帰って来ないし、……って、ははっ、矢野の話を聞こうと思ってたのに、また俺の話になっちゃった。ごめんな」
明るく笑い飛ばす高良先生に、私は黙ったまま首を横に振る。声が出なかった。
「なんで矢野が泣くの?」
高良先生は困ったように微笑みながら、私の顔を覗き込む。
「ごめんなさ……」
声を出したら、余計に涙が出てきてしまう。
「謝ることないよ」
高良先生の手が、そっと伸びてくる。
「ありがとう、矢野」
高良先生の骨張った指が、私の目の淵に溜まった雫を掬い取る。目元に微かに触れた指先は温かい。それは、泣いている私をなだめる恭介くんのようで。また涙が出てくる。
「……私、今はお母さんと二人暮らしだけど、3年前までは三人暮らしでした」
ピクン、高良先生の指先が一瞬震えた。
「お母さんと私と兄の、三人暮らしでした」
――陽葵、おかえり
記憶の中の恭介くんが、優しく私を呼ぶ。
「ずっと、黙ってたんですけど」
喉の奥が、熱い。
「高良先生、兄と似てるんです。初めて会ったとき、兄が生きてたと思ったくらい、すごく、似てるんです」
心臓がドキドキと脈打つ。
「でも、違いますよね。兄が事故に遭って、もう3年も経って、……」
そこまでしか言えなかった。嗚咽で声が出なかったんじゃない。驚いて、言葉が続かなかった。高良先生の手が私の頭に乗っている。温かく大きな手に、優しく撫でられる。
「ごめん。なんとなく撫でてあげたくなって」
高良先生の指に、私の髪が絡む。くすぐったくて、照れ臭くて、だけど、涙が溢れるくらい懐かしい。
「その指輪、もしかしてお兄さんの?」
高良先生の視線が、私の左手の中指に注がれる。私は頷く。
「見せて」
私の頭から離れた高良先生の手が、そっと私の左手を掬い上げる。
「この指輪、兄にとってお守りみたいなものらしくて。ずっと大切にしてました」
高良先生の親指が、指輪の表面に刻まれている傷を撫でた。それは、何かにぶつかってできたようなかすり傷。その傷を指でなぞるのが、恭介くんの癖だった。
「事故現場から見つかったのは、この指輪だけでした」
まだ恭介くんは見つかっていない。行方不明のまま、生きているか死んでしまっているかも分からない。
「兄と一緒に車に乗っていた人は助かって、この指輪が現場に落ちてたって、母に渡してくれたそうです」
――恭介の指輪は、陽葵が持っていて
事故の翌日、お母さんは何の迷いも見せず、唯一持ち帰った指輪を私に預けた。
「高良先生」
「ん?」
「聞いてくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
目が合うと、高良先生はふんわりと笑った。自然と私の口元も緩んだ。高良先生の手を、気付くか分からないほど軽く握り返してみた。すると、まるで返事をするように、高良先生の手はぎゅっと私の手を握り返してきた。私の小さな変化に、高良先生はちゃんと気付いてくれる。そんなところも、恭介くんに似ていた。
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