旧館3階


 放課後、私は個別指導室に向かっていた。個別指導室とは、簡単に言えば補習をする教室だ。テストの点数が振るわなかった生徒を集めたり、入試対策の臨時講座や面接練習を行ったりする。


 個別指導室のある旧館の3階は、普段はほとんど人が通らない。また、備え付けのカーテンを閉めれば、廊下から教室内を見ることはできなくなる。そのため、カップルの逢瀬の場として活用されることがしばしばある。


 個別指導室は5つあるが、彼が待ち合わせ場所に指定するのは、いつも第2指導室だ。ドアの小窓から中を覗くと、彼がいた。椅子に座ってテキストを読んでいる。表紙には、「これでカンペキ古典文法!(中級編)」の文字。集中しているのか、瞬きの回数が少ない。紙の表面を撫でた指先で、そっとページを捲る。その指先で、心臓が撫でられたような気がして、背筋がくすぐったく感じた。そのとき、前触れなく、彼の視線がこちらに向いた。私は咄嗟にドアの陰に隠れた。今来たように見せようと、慌ててドアをノックする。


 ガチャ――


 内側からドアが開く。


「いらっしゃい」


 優しい声が耳の奥まで響く。心臓がトクンと震える。彼が私を見下ろし、ふわりと微笑む。私の緊張を察してくれたのだろう。その優しさに、心臓がまた甘く震える。


「今日は何する?」


「数Ⅱ」


 彼は私を部屋の中に招き入れながら、いつも通りに尋ねる。私もいつも通りに答える。


「俺、そんなに数学得意じゃないって、この間言ったじゃん」


 唇を尖らせる彼を無視して、私は鞄から数学の問題集を取り出す。


「三角関数が分からないんです」


「まったく……」


 彼は渋々、問題集を受け取る。


「問2です」


 彼は問題集を見下ろしながら、さっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。私も隣に腰かける。彼はしばらく問題を見つめた後、


「ノート出して」


 と言いながら、私の机に問題集を開いたまま置いた。肩が触れそうな距離まで、彼が近付く。


「取っ掛かりは分かるだろ?」


 私が頷くと、彼は「やってみな」と言って、胸ポケットからボールペンを取り出した。


 彼は基本的に黙ったまま、私が問題を解くのを見ている。手が止まったり質問したりすればヒントをくれる。そうやって、私たちは1時間ほど勉強を続けた。数学は得意じゃないと言っていたが、できないわけではないのだ。


「今日は何すればいいんですか?」


 問題集を鞄にしまいながら尋ねると、


「いつも悪いね」


 と、彼は胸ポケットにボールペンを戻し、机の端に置いてあったプリントの山を指差した。


「これを3枚綴りにして、ホチキスで止めて」


「すごい量」


「1人でやるの大変だからさ、助かるよ」


 「ありがとな」と微笑む彼の顔を見ないようにして、私はホチキスを手に取った。



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