本当に素晴らしい。まず作品一つ一つのクオリティが半端じゃない。掌篇集ですら抜かりがなく、短い文章で驚きと陶酔を齎すその完成度は、まるで川端康成の『心中』のような巧みさである。
同人誌の形式で羅列される作品群の完成度もさる事乍ら、最後の藤尾瑛臣先生の書簡の完成度といったら。最後の最後迄読み通した後に最初から再読していくと、何か一つ一つのワードに示唆があるように思えてくる。メタフィクションの極北だと思った。
現実世界に今生きている読者の私、という視線を忘れ、本当に二人がいる世界線で同人誌を読んでいる気になった。確かにそこに存在しているのだ。読後の私と、読む前の私とでは明らかに乖離している。これは精緻な部分にまで気をつけた、完成された世界感がなせる技だ。何度読み返しても新鮮に心を動かされる。
泉鏡花、芥川龍之介、川端康成、内田百閒、須永朝彦など、私が愛している怪奇幻想作家の作品の精緻な空気感が玉紫にも広がっていて、感動などという言葉では収まりきらない熱量に心が震えた。
その昔、紫は貴重な色であり、高貴な御仁しか身に着けることを許されなかった。紫草の根から取れる染料は希少で染色に手間がかかったし、貝紫に至っては最も高貴な色とされていたのだ。紫式部が書いた『源氏物語』には、葵の上、若紫・紫の上など高貴で美しい女性に紫の字が使われている。
『【試読版】玉紫』には、全編にわたり紫があしらわれている。宇宙や気象、衣装、花、煙などにさまざまな濃淡の紫が存在し、精選された言葉によって、耽美で妖艶な世界に読者を誘う。
そして、その幻想的な世界観の中核にあるのは文学に己れを捧げた、二人の才ある男性だ。互いが互いを必要とし、それ故に滅びざるを得なかった真摯で不器用な愛。その切実さに、思わず涙が溢れた。
生と死とは。再生とは。読後にいつまでも余韻が残る素晴らしい読書体験であった。
これだけのものを文体にわずかの綻びもなくぶれもなく書き上げてしまうという手腕だけでも感嘆に値する。
根気の有無ではなく、己の中に揺るぎない美学がないと、この文章は編むことが出来ない。
といっても明治の文豪など、この手の文体を当たり前にしていたのであって、「時代遅れ」を外せば、かつての「普通」、本人の嗜好のままに古い作家の作品に耽溺している方なら、眼にも慣れ親しんだ、大変に心地の良いものであろう。
きっとこの方は、自分の書き綴る一文字一文字に深い満足と快感を覚えている。文章のどこを切り取ってもこだわり抜いた美しい漢字がいぶし銀のように光ることを意識して書いている。以前、この方の作品のことを彫金のようなと評したことがあるが、その印象は今も変わらない。
細い金属の糸で、神経を尖らせながら、僅かなゆるみも許さぬとばかりに、かっきりと編みこまれた小説。
文学に生きようとした二人の男の殉死が、著者によって選び抜かれた文字列によって彼らの望みどおりに埋葬されているさまは、余人が迂闊に手を触れることをゆるさない、硝子の向こうの工芸品の域になっている。