File 7 : ガイア 2
竹下が復帰して1週間。
麻耶がいなくなって1週間。
(麻耶の淹れてくれる珈琲はうまかったな。俺が疲れている時にタイミングよく出してくれた…)
久我山がぼうっと山之上麻耶の事を思っていると、珈琲の香りが漂ってきて、カップがそっとデスクに置かれた。
ん?麻耶?と思って目線を移すと、にぃ〜っと笑う石川がいた。
「山之上麻耶先輩直伝の珈琲です。
警視正が疲れた顔をしている時に淹れて差し上げるように、と言われておりますっ!」
「ふむ。ありがとう。いい香りだな。
で…石川は俺が疲れてる顔してるって、なぜ分かる?今、俺は普通の顔してたと思うけど?」
「それも山之上さんから教わりました。見分け方は秘密にしておくように、と言われております。…ので、言えません!」
それを聞いた竹下が若干羨ましそうな目つきをした。
「石川、お前いつの間に麻耶さんに聞いたんだよ?」
「くくくっ…。内緒でありますっ!」
と石川が言った時、久我山のスマホが鳴った。
「はい、特殊捜査研究所、久我山。
…えっ?えっ?はい。
……はい、わかりました」
久我山はスマホを切ると珈琲を1口飲んで、大きく息を吐いた。
「井上副総監が…倒れたそうだ」
竹下と石川は顔を見合わせた。
井上新太副総監が倒れたという知らせを受けて1番最初に病院に駆けつけたのは、妻の智子と偶然にも副総監の自宅に忘れ物を届けに来ていた山之上麻耶だった。
病院のベッドに横たわる真っ白な顔の井上副総監を見て智子夫人は取り乱した。
「新さん!新さん!起きなさいよ!
新さんってば!どうしたのよ?
ねえ、新さん…新さん…
新さんってば!!」
夫の名を呼び続ける智子夫人の声は廊下にまで響いていた。
丁度その時に病院に駆けつけたのは、麻耶から連絡を受けて警視庁から急いでやって来た木下秘書課長と中西総務課長の2人だった。2人は廊下に響く智子夫人の声を聞いて部屋の外に立ち止まり、眉間に皺を寄せた。
2人が一歩部屋に入った時、夫人の側には麻耶が寄り添っていた。そっと麻耶に肩を抱きしめられた夫人は泣き崩れた。
「取り敢えず、奥様。井上さんの状態を説明いたしますので、こちらへ」
麻耶の胸に縋りつき泣いていた夫人はかろうじて聞き取れる声で医者に言った。
「あ、あの。麻耶さんも一緒にお話を聞いてもらいたいです。私1人では心許なくて…」
「奥様がそう仰るのなら、こちらは構いませんよ」
智子夫人は麻耶に抱きかかえられるようにして部屋から出て、奥へと消えて行った。
秘書課長と総務課長はそんな2人を見送り待合室に移動したが、その後も次々と警察関係者達が待合室に集まって来た。
「容体はどうなんだ」
皆、小声で話すがまだ何も分からない。分からないのだから、どうしようもない。皆はただ顔を曇らせ、貧乏ゆすりをして待合室で待つことしかできなかった。
1時間程して、医師から説明を受けた智子夫人が待合室に姿を見せ、集まった関係者達に頭を下げて静かに言った。
「夫、井上新太に何が起きたのか、よく分からないのだそうです。もしかしたら、毒物なのかもとお医者様はおっしゃいました」
…えっ?
…毒物?
控え室の中の空気がますます重くなった。
智子夫人は震えながら話を続けた。
「井上はしばらく入院せねばなりません。今、言えるのはそれだけでございます。
どうか皆様、事情をお察しくださいませ」
「毒物の同定はできているのですか?」
智子夫人は首を振った。
「どうやって毒物を?まさか自分で、という事なのか?」
夫人は激しい口調で言った。
「何をおっしゃるのですか!
井上が自分で毒物を摂取するなど、あろうはずもありません!」
初めは顔を見合わせていた警察関係者達は、深々と頭を下げる智子夫人に声をかけて1人、また1人と帰って行った。そして、廊下を歩きながらスマホを操作してあちこちに連絡を取り始めた。
最後に残ったのはSPとして長年井上の身辺警護を担当していた高崎と土田の2人と山之上麻耶だけとなった。
待合室にはただただ重い空気だけが充満していた。
一体、井上副総監に何が起こったのか?
その日、副総監は午後半日の休みを取っていた。いつもはピタリとついているはずのSPの同行を断り1人で行動していたというのだが、一体どこに向かおうとしていたのか、何の目的で1人だったのか、全くわからなかった。
分かっていた事は、副総監が正月気分もやっと抜けたこの日、黄昏時の人の往来が多い繁華街の路上で突然倒れた、という事実だけだった。
警察では井上副総監に何が起きたのかを早々に検証し始めた。そして、その日のうちに副総監が警視庁を出てから倒れるまでの様子が全て判明した。副総監の通ったルート上の監視カメラにはっきりとその姿が映っていたからだ。
監視カメラの映像によると、副総監は肌寒い昼過ぎ、警視庁のビルを出て電車に乗り繁華街へと出ている。駅の改札を出て右に曲がりスタスタと歩き、時折腕時計を眺めて歩調を早めていた。
途中から寒くなったのか、副総監はポケットに手を突っ込み背中を丸めて歩いていた。そして、人でごった返すスクランブル交差点の真ん中で急に立ち止まり、ふらふらしたかと思うとゆっくりと倒れた。
始めは何だ何だ?という顔で見ていた周りの人々が事態を察して叫び声を上げ、スクランブル交差点は大騒ぎとなった。中にはスマホを副総監に向けている若者もいて、全て監視カメラに映っていた。
誰かが撮っていたスマホの映像もSNSにUPされていた。その映像はテレビでもすぐに流され、 "警視庁副総監、井上新太氏が突然路上で倒れた" というニュースは瞬く間に国民の知る所となった。
井上副総監は次期警視庁総監と言われる人物で、その手腕は皆が認める所である。また、マスコミにも時折出演して様々な啓蒙運動の一翼を担っていた。優しげな風貌と穏やかな話し口を慕う一般市民も多く、なぜかファンクラブもある。
そんな人気者の副総監が倒れたと知った誰かがこんな文章をSNSにUPしたのだ。
"毒でも盛られた?"
噂が噂を呼び、憶測が更なる憶測を重ねて、遂には井上新太副総監の暗殺説まで浮上した。そうなるまで、あっという間だった。
警察としてもその様な '暗殺説' は捨てておけずに記者会見を開いたが、しどろもどろの会見で更に炎上し、どうにも困った事態となってしまった。
一方、副総監の入院先の病院では医師達が頭を抱えていた。検査をしても井上副総監が体内に取り込んだ毒物が何なのか、全く分からなかったからだ。ただデータだけがどんどん悪くなっていく状態で治療の施しようもない。
そして、2日後。
副総監は危篤状態に陥り、病院としても放っておけずに会見を開いた。
何が起きたのですか?
今の状態はどうなんですか?
どんな治療をしているのですか?
井上副総監は復帰できるのですか?
どの質問に対しても病院は真摯に答えているのだが、実際のところ、井上副総監に何が起きているのか分からないので、答えようがなかった。
結局、何かを隠しているのではないか、と病院の会見も炎上してしまい、収拾がつかなくなって行った。
井上副総監が倒れたというニュースは警視庁だけでなく政財界にも大きな衝撃をもたらしていた。あちこちで秘密の会合が開かれ、秘書達のスマホが大活躍した。
久我山警視正と特殊捜査研究所はそんな事態とは無縁で、いつも通りの日々を淡々と過ごしていた。
竹下は大きめの弁当箱にぎっしりとおかずの詰まったランチを持参する様になって、毎日嬉しそうにしていた。
「竹下先輩!美波さんの弁当…裏山です。
…俺にも一口」
ぺしっ!
箸を伸ばす手を叩かれて石川は 『ケチ!』とぼやく。
「これはね、美波ちゃんが俺のために作ってくれてんの。美波ちゃんの小さなお弁当箱のおかずと同じおかずなんだよ。2人でおそろなの!
お前はコンビニ弁当をしっかり食べてろよ」
久我山は手に持っていた自分のコンビニ弁当と石川のコンビニ弁当を見比べて笑った。
「喜べ石川。
お前と俺の弁当はおそろだぞ」
2人揃ってコンビニで '野菜たっぷり弁当' を買ってきていた。
「ん〜。久我山警視正とおそろの弁当…って、どうなんだろ?」
石川がそう言った時に久我山のスマホが鳴った。その発信元を見て久我山がニヤリと笑った。
「はい、特殊捜査研究所、久我山です。
…はい。ご連絡、ありがとうござい…」
スマホの先の相手はよほど急いでいるのか、会話の途中で切れてしまった。
「竹下、石川。急いで飯を食べ終わろう。
井上副総監が、お亡くなりになった」
ふざけてばかりの竹下と石川は久我山の言葉に力強く頷いた。
予定通り、何も知らない素振りで淡々と日々を過ごすのは今日で終わりとなる。
井上副総監が倒れてから3日目の事だった。
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