第51話 明鏡止水へ

     51 明鏡止水へ


 今――最終決戦の幕は上がる。


 息が絶え絶えな、天井恋矢。

 ココが息を吹きかけただけで倒れそうな彼は、しかしまだ目は死んでいない。


 その意味を直感した時、篠塚ココは戦慄した。


「……待って。

 待ちなさい――天井君っ!」


 ココは恋矢が何をしようとしているか瞬時に悟り、初めて声を荒げたのだ。

 だが、既に恋矢の覚悟は決まっていた。


 自分が勝つ為には、己の全てを懸けるしかない。

 そう判断した天井恋矢は、だから完全に自我を消失させる。


 己の存在その物を消し去って――彼は篠塚ココに対抗する為の機械と化したのだ。


「くっ!」


 だが、それは余りに諸刃の剣だ。

 ここまで自我を無くせば、確かに恋矢の業の精度は格段に上がる。

 

 しかしこの状態が長時間続けば、恋矢の意識は二度と戻らないだろう。

 生きながら死んだ状態となり、彼は一生を終える。


 そう悟った時、篠塚ココはこの上なく動揺する。

 彼女は件の鳥を操り、天井恋矢を襲撃させた。


 ココは一羽の鳥に真琴港を尾行させ、彼女の素性を知った。

 それだけの超能力を有する篠塚ココが、いま眩暈さえ起こしそうになる。


 自分の為に天井恋矢が――己の〝太陽〟が沈もうとしている。


 そんな事など、彼女に認められる筈もない。


 天井恋矢の意識が完全に消滅する前に、決着をつける。

 その為に一千万羽による鳥類を操り、先程と同じ戦術をとる。


 恋矢にとっては致命的とも言えるその業は、しかし彼を怯ませる事さえなかった。


「くっ……つっ?」


 一千万羽による鳥類に攻撃されても、恋矢は微動だにもしない。

 天井恋矢はもう、篠塚ココしか見ていなかった。


 正に――明鏡止水にして――無我の境地。


 彼の心には――一点の曇りもなく――邪念さえない。


 天井恋矢がその領域に達した時、篠塚ココは初めて恐怖を覚える。


 自分が負ける事など、怖くはない。

 ただ、彼女は彼を本当の意味で失う事を、恐れたのだ。


「天井君――っ!」


 ならば、篠塚ココは勝負を急ぐ必要がある。

 彼女は率先して地を蹴り、天井恋矢に挑む。


 ココしか見えていない恋矢も、ココの猪突に応えて疾走する。

 両者は最後の激突を見せ、ただ組み手を繰り返した。


「ぐっ!」


 だが、既に天井恋矢は、篠塚ココを倒す為の戦闘マシーンだ。

 ココの呼びかけにも応えない彼は、ただ最適解の動きを以ってココと戦い続けた。


 ココの剛腕を受け流し、カウンターの一撃を入れようとするが、それさえ躱される。

 既に限界を超えている恋矢に対し、篠塚ココにはまだ余裕があった。


 けど、それでも、今の天井恋矢は超越者の域に達している。

 彼が今の状態である限り、天井恋矢の敗北はありえない。


「つっ!」


 気迫でも、意地でも、信念でもない。

 彼はただ篠塚ココを愛するが故に、戦闘を繰り返すのだ。


 その無心を前にして、篠塚ココは徐々に押され始める。

 彼女は天井恋矢の深すぎる愛を目にして、ただ呼吸を乱した。


「なんで?」


 なぜ、こんな人間が、存在する?


「なんで?」


 なぜ、神は自分と彼を引き合わせた?


「なんで?」


 彼はこれほど、自分を愛してくれるのか――?


 その理由がどうしても分からなくて、篠塚ココは遂に後退していく。

 後一撃、軽い突きを入れるだけで敗北するであろう、天井恋矢。

 

 だが、その一撃が、余りにも遠い。

 篠塚ココともあろう者が、ただの一撃さえ天井恋矢には入れられない。


 逆に後ろに下がり始めた己を、ココは叱咤するしかない。

 自分の敗北は、天井恋矢の死に直結している。

 

 だとすれば、自分に負けは許されない。

 彼の為にも、自分は勝たないと。

 

 けれど、その思いは天井恋矢も同じだ。

 恋矢には、勝たなければならない理由がある。

 

 篠塚ココに勝ち、彼女に殺し屋を辞めさせる。

 きっと時間はかかるだろうが、いつか彼女にも日のあたる生活をして欲しい。

 

 いや、天井恋矢の願いは徹頭徹尾――篠塚ココの幸せにあった。


 自分と共に幸せになって欲しいと恋矢は言ったが、もうそんな事はどうでもいい。

 天井恋矢が見ているのは、篠塚ココが陽だまりの世界で微笑んでいる姿だ。

 

 それだけが彼の全てであり、己を捨てでも得ようとしている未来だった。

 

 無我の境地に達した彼は、だからそれ以外何も考えていない。

 動揺も、焦燥も、高揚も、歓喜も感じていない彼は、ただ己が目的を果たすだけ。


 様々な感情が混淆する篠塚ココは、それ故に純粋とは言えなかった。

 恐れや絶望を感じ始めている彼女は、やはり彼に圧倒される。


 自分をここまで追い詰めている人間を初めて見た彼女は、ただ歯を食いしばる。

 それでも口角を上げるしかない彼女は、やはりあの少女に束縛されているのだろう。


 あの少女の呪縛から逃れられない彼女は、確かに笑いながらこの戦いに身を投じた。


「フ――!」


 しかし、呼吸が乱れ切った自分に対し、彼はもう呼吸さえしていない。

 捨て身の人間がここまで恐ろしいと、篠塚ココは初めて学習する。


 いや――その時には既に決着がついていた。

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