第40話 それから

     40 それから


 絶頂期だと思っていた今日を、最悪の形で終えた、恋矢。

 

 彼はどうやって家まで帰って来たか、覚えてさえいない。

 気がついたら恋矢は自分の部屋に居て、ベッドに座っていた。


 いや、彼の思考能力は、まだ万全とは言えない。

 受け入れがたい別れの言葉を告げられた恋矢は、ただ忘我するばかりだ。


 あのとき恋矢がココを追えなかったのは、ひとえに防衛本能が働いたから。

 あれ以上ココと話し合っても、きっと恋矢は更なる罵倒を浴びせられただけだろう。


 今よりもっと傷付けられる事を恐れた彼は、無意識にココを追うのを躊躇った。


 その判断は、恐らく正しい。

 常に他人を気遣うあのココが、恋矢に対してはあそこまで言ったのだ。


 彼女の決意は本物で、きっと恋矢と別れる為なら、彼を罵る事さえ厭わない。

 いや、恋矢はあの優しいココにあそこまで言わせてしまった己を、恥じてさえいた。


「……で、も、いったい、なんで……?」


 恋矢には、どうしても、その答えが分からない。


 別れる寸前まで、笑顔を絶やさなかった、篠塚ココ。

 太陽の様な笑顔を、自分に向けてくれた、彼女。


 自分の全てだったそんなココが、何で急に態度を変えた? 

 今の忘我したままの恋矢では、その答えは分からない。


 彼の呼吸は深く、緩やかだ。

 まるで、眠っているかの様でもある。


 頭は相変わらず、真面に働いてくれない。

 度し難いショックを受けた時、人はただ頭が真っ白になるのだと、恋矢は初めて知った。


 今も壁を眺めるしかない彼は、やがて気を失うかの様に眠りにつく。

 とにかく一度頭の中をリセットする必要が、彼にはあった。


 いや、彼は最後にこう呟く。


「……あ、あ。

 これが、本当の、三日天下ってやつか……」


 結局、恋矢とココの恋愛関係は、三日しか続かなかった。


 自分は所詮その程度の男だったのだと心底から己を憎みながら――彼は瞼を閉じた。


     ◇


「……はっ?」


 やがて、天井恋矢は、その夢に促されて目を覚ます。


 ココの笑顔を夢の中でみてしまった彼は、強制的に我に返ったのだ。


 跳ね起きる彼は、暫く呼吸を乱した後、右手で自身の顔を覆う。


「……なんだよ。

 まだ、未練、たらたらじゃねえか」


 死に別れた訳では、ない。

 だが恋矢としては、自分は既に死んだも同然だ。


 ココに愛されない己など、完全に無価値なのだから。


 それでもココの姿に反応してしまう彼は、苦笑する気力さえない。

 ぼうとした目をする恋矢は、一睡した後も頭がうまく働いてくれない。


 現に彼は、ココの分の弁当を作りそうになっていた。


 そんな真似をすれば、本当に気持ち悪がられて、致命的なほど嫌われる。

 いや、既に致命傷を負っている恋矢だが、彼は幸い正気までは失っていなかった。


 ギリギリの所で分別をつけた恋矢は、やはりぼうとしたまま、登校の準備を整える。


 何時もと同じ時間に家を出た彼は――今にも死にそうな面持ちのまま学校に向かった。


     ◇


 教室に着く、恋矢。


 それが只の自殺行為だと気付いたのは、暫く経ってからだ。

 学校に行けば、ココに会わなくてはならなくなる。


 だというのに、自分は、何時の間にか教室に居た。

 これも惰性かと思う一方で、恋矢はやはり自分はココに会いたいのだと強く思い知る。


 例えいま以上に傷付けられても、もう一度ココと話がしたい。

 この時、恋矢の心は初めて前向きになった。


 だが、既に致命傷を負っている彼に、何が出来ると言うのか? 

 恋矢は正直、自分がここまで打たれ弱い人間だとは思わなかった。


 やがて、時間は過ぎていく。

 それでも、篠塚ココが登校してくる気配は無い。


 現にホームルームの時間になっても、ココは現れなかった。


 その事に安堵を覚えていると気付いた時、恋矢は己に失望する。


 何もかもが厭になった彼は――今日も授業をさぼる事にした。


     ◇


 天井恋矢は、学校の屋上で、腰を突く。


 空模様は曇りで、いよいよ小雨が降ってきた。

 その雨に濡れながら、恋矢はやはりぼうとする。


 自分の、何が悪かった? 

 一体何で、ココはあそこまで言ったのか?


 やはり身に覚えがない恋矢は、ただ煩悶するばかりだ。


「……でも、あのココが、ああまで言うんだから、よっぽどの事だ……」


 質が悪い冗談は口にしても、決して他人を傷付けないのが、篠塚ココである。

 だと言うのに彼女はそんな己を裏切る様に、恋矢を罵倒した。


 その理由は分からないが、やはり罪深いのはココにそこまでさせた自分だと恋矢は思う。


 自分の所為で、こうなった。

 何もかも、自分が悪い。


 もう自己否定するしかない彼は、やがて第三者の声を聴く事になる。


「バカ、風邪ひくぞ」


「………」


 気が付けば加賀敦が彼の傍に居て、普通に笑いかけてくる。

 恋矢はその笑顔を眩しそうに見つめ、直ぐに視線を逸らした。


「……オマエが俺の心配をするなんて、珍しい、な」


「ま、偶にはそういう事もあるさ。

 女子って、結構気まぐれなんだぜ」


「………」


 と、彼は一間空けてから、こう切り出す。


「ココから……聞いたのか?」


「ああ。

 昨日メールが届いて〝見事に天井をふってやった〟って自慢していた」


「……そう、か」


 やはり恋矢の目の焦点は、虚ろだ。

 いや、彼は初めて他人に弱味をみせた。


 身近な人と接する事で、今まで張りつめていた緊張の糸が切れたのだ。


「……本当に、何なんだよ? 

 やっとココと、付き合える様になったのに。

 全部、上手くいっていると、思ったのに。

 ココさえ傍にいてくれたら、俺はもう何もいらなかったのに。

 それなのに、何でなんだよ……? 

 ……ちく、しょう。

 ――ちくしょうゥゥゥ!」


 遂に泣き始める恋矢を前にして、敦はただ苦笑した。


 彼が自分の前で泣くなんて、余程の事だと思い、敦はただ小雨が降る天を仰いだ。


「というか、天井って、私に訊きたい事とかない?」


「……加賀に、訊きたい、事?」


 顔をくしゃくしゃに歪めながら、恋矢は眉を顰める。

 敦に話しかけられた事により、恋矢の意識は僅かに活力を取り戻す。


 彼は己の記憶の淵を辿って、やがてその答えに行き着いた。


「そう言えば、加賀は、妙な事を言いかけていた。

〝ココは割と――〟とか、何とか」


「あー、うん。

 あの時その事を伝えておけば、という訳でもないけどさ。

 一応話しておこうと思って。

 私――ココにブン投げられた事があるのよ」


「な、に?」


「悪ふざけのつもりで、後ろからココに抱き付こうとしたら、一本背負いを食らった。

 あの野郎、普通に笑って〝ごめんね〟とか言っていたけど、あれはココの方が焦っていたと思う。

 何せ体育の成績は中の上の上でしかないココが、柔道の有段者である私を投げた訳だし。

 その時〝この子ってやっぱり面白いな〟と思った反面〝かなりヤバイヤツなのでは?〟とも感じた。

 天井もさ、そういう事、無かった?」


「………」


 そう問われて真っ先に思い浮かんだのは、ココの部屋だ。

 やはりどう考えても、あの部屋は異常だった。


 ココを気遣う余りハッキリ言い出せなかったが、あれは、常人とは何かが違う。


 だが、それと今の状況がどう結び付く?


 篠塚ココはなぜ、天井恋矢をふったと言うのか――?


「………」


 ココの異常性と、突然の心変わり。

 その二つを並べて考えた時、恋矢の脳裏にナニカが閃く。


「――あ!」


 いや、自分は何でそんな事にさえ気づかなかったのかと、彼は心底から己を恥じた。


「ん? 

 何か、少し元気になったみたいね? 

 いえ、何かに気付いたなら急いだ方がいいわ。

 ココの野郎、何か転校の手続きさえとっている最中みたいだから」


「――な、にっ?」


「うん。

 そう言う話も、メールにはあった」


「………」


 もう一度驚く、恋矢。

 彼は〝そこまでするか〟と、強く歯を食いしばる。


「サンキュー、加賀。

 オマエのお蔭で、俺にもまだ出来る事があるかもしれないと思えた。

 ……実は加賀って、いいヤツだったんだな?」


 恋矢が冗談めかして言うと、敦は本気で呆れる。


「アホ。

 気付くのが、遅いのよ。

 アンタは、何時もさ」


 それが何を意味しているのか察する前に、天井恋矢はもう一度立ち上がる。


 彼は苦笑いを浮かべている加賀敦に手を振った後――確かな足取りで屋上を後にした。

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