第42話
「このまま、逃げちまうか?」
「……え?」
「戦争が起こる前にこの国を抜けだして、もっと遠くの、世界の隅っこまで二人で行ってさ、そこでずっと一緒に暮らそう。
俺が調達してきた食料をユウと一緒に調理して、食べて。
そんでユウが洗濯物を干してるところを眺めたりもする。夏の寝苦しい日は、ユウに嫌がられながらも一緒の布団で寝たりしてさ。冬の凍えるような寒さの日は、お互いの温もりを求めて眠りにつこう」
「なんだか冒険みたい」
「……そうだな。そんなだったらいいよな。行くなら戦争じゃなくて冒険がいいもんなあ。はあ、なんでうまくいかないんだろう。俺は、ただ一緒にいたいだけなのに……」
そこで話を切ったハチは、表情を一変させて辺りを警戒し始めた。
私も周辺の異変を感じ始める。音だ。何か遠くで鳴っている。
「ねえ、待って……」
遠くからどんどん赤に変わっていく信号機のように、気づけば、けたたましい警報音が辺りに鳴り響いていた。
夢見心地な気分が一気に現実へと引き戻される。
ハチが反射的に立ち上がり、私は自分の肩を抱きしめた。
不安を煽るその警報音は潜在的に刷り込まれたように、心臓をぎゅっと掴んでくる。
「早いな。もう少し猶予はあると思ってたんだけど」
この警報音は戦争のゴングなのだと、何も知らない私でも直感的に理解できた。
少し先で待機していた御者が青い顔をして駆け寄ってきた。
「隣国がこの先の国境を侵攻してきたようです! 時間がありません、お二人とも馬車にお戻りください」
顎に手を当て、考え込むハチ。
「国境からここまで三十分くらいか。あまり時間がないな……それじゃあユウを乗せて先に馬車を走らせてくれ。俺は後から追うから」
「なんで!? ハチも行くんだよ!」
ハチの裾を引っ張る。
私だけ先に逃げる意味が全く持って分からなかった。ハチは私の制止を首を振って断った。「すぐ行くから安心して」と言う。
「でも……」
「でもじゃない。それが俺の仕事なの」
ハチはポケットから何かを取り出す。
それは赤い宝石のついたペンダントだった。
「今日の朝に受け取りにいって正解だった。これユウにプレゼント。絶対外すなよ?」
ハチは首にかけられたペンダントをひと撫でして、私から離れる。
そしてたくさんの宝物が詰まって大きく膨らんだ鞄を軽々と部屋から運んでくると、御者へと託した。
あまりに手際のよい、別れの支度。
私の口はへの字に曲がっていただろう。不服で仕方なくて、でもこれ以上わがままを言ってもハチを困らせるだけだと知っている。もう無事を祈って待つことしかできないことを理解しているからこそ、何も言えなかった。
「じゃあ、またあとで」
ハチが私の手を取り、馬車へとエスコートしてくれる。
「そんな顔するな。すぐ戻るって」
「絶対戻ってきてよ?待ってるからね?」
ハチは口角だけを持ち上げるような微笑みを私に向け、馬車は出発する。
窓からハチの姿を追うが、すぐに見えなくなってしまう。
隣には大きなカバン。首には赤い宝石の輝くペンダント。大切なものはここにあるのに、それらをくれた大切な人がここにいないことに軽く絶望してしまう。
思い出だけでは、私は生きていけないのかもしれない。膝の上で握りしめた拳に雫が数滴落ちた。
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孤独が垂直落下した先は異世界 一寿 三彩 @ichijyu
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