第6話

この世界は、あまりにも雄大で、そして暖かかった。森の中を抜ければ、澄んだ青い湖があり、湖の真ん中にはどうやって行くのか分からない丘のようなところがあった。



水を掬うと、魚がすすっと逃げていく。

穏やかだった。ハチはいつも大きな木に背中を預けながら私のことを眺めていて、振り返れば彼は小さく手を振ってくれる。



洗濯をしている時、夕ご飯の調達をしている時、ハチは一歩下がって私を見守ってくれていた。



この世界には野蛮な男もいるが、ハチの家の近所にある果物屋さんのような柔和な店主だっている。



だからそこまで心配してずっと傍にいてくれなくてもいいのになと思いにつつ、その優しさについ、もたれかかってしまっていた。



「明日、一日家を空けるから戸締りして、家から出るなよ」



ハチが言った。

この世界に来てから二週間が経った頃だった。

それまで、ハチは夜中に出て行って、朝方にはベッドに戻ってくることが幾度かあった。

私には何も言わず、そっと出て、そっと帰ってくる。何か私に言えないことがあるんだと思った。



「分かった。ちゃんと家にいるね」


「ごめん、一日だけだから」


「大丈夫」



本当は少し心細かった。

本当は、夜中に出ていってしまうハチがもう戻ってこない気がして不安だった。


けれども、それを口にしてしまうとハチが嫌な気持ちになるだろうからって、飲み込んでいた。


いや、違う、そんなんじゃない。ハチが嫌だろうというより、そんな柔いことを言う自分に嫌気がさしてしまうから言わなかったのだ。


なんにも構わず、置いていかないでって素直に言えたらどんなに楽だろう。そう思うことはしょっちゅうあった。



「じゃあ、行ってくるよ。ユウ」



日が昇る前、そう囁いてハチは家を出て行った。

ぎゅっとシーツを握りしめて、口の中だけで行ってらっしゃいと噛み含めた。


ハチの家には来た時と違って、二人分の食器、二人分のバスタオル、イス、靴。窓には可愛らしいレースのカーテンがかかっている。


これはこの前あったフリーマーケットで私が一目惚れして、じっと見ているとハチがいつの間にか買ってくれていたものだった。



二人のものが増えれば増えるほど、この世界から去ってしまう日をおもって寂しくなる。


私はハチの寝顔を見るのが好きだった。ふわふわの銀髪も、たくましい腕も、キラキラ輝く薄い瞳も、憂う横顔も、時折、私を見て眉を下げて慈しむ所も、私は好きだった。


帰らなければならないのだろうか、空虚なあの現実に。今が夢の世界なら、ずっと冷めないで欲しい。ここに居たい。


教室から落ちた時、扉が閉められたのが見えた。

あれは勝手に閉まったのでは無い、私には閉めた人の手が見えていた。



私は、誰かにこの世界に落とされたのだと、そう考えている。



なんのために、なんの恨みがあって。私はどこにも、誰にも必要とされていない、何度も嫌という程突きつけられた現実だ。



それでも、何度後ろを振り返ってもそれが私の現実だった。ハチが私を大切に扱ってくれるのは、私の都合のいい夢に違いない。あまりの現実の負荷に耐えられなくなった私の心が見せている幻想にすぎないと、ハチの居ない家で思う。




────早く帰って来ないかな

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