第2話 「現れた剣客」
日本史の授業が終わった後は、また剣道の稽古をするために大学の離れの武道場に行った。ウチの剣道部の女子部員は私を含めてギリギリ団体戦に入れるぐらいの人数なので、今度の大会にはどうしても私が入らないといけなかったのだ。
「ふぅ〜。...そろそろ大会か。よし...もう100回。1...2...3...4...5...」私は壁に掛かっていたカレンダーを見て呟く。今度の学生大会が、もう1ヶ月後に迫っていたのだ。私は直ぐに壁の鏡の前に戻って竹刀の素振りを再開した。すると身内での練習試合を終えて荷物をまとめていた田淵先輩が私に声を掛けてきた。
「あ、正華ちゃん!いっぱい練習してて熱心だね〜。そんなに熱心に練習してたら、すぐ私なんかより全然上手くなっちゃうな〜...」私は荒い呼吸を抑えつつ、顎に垂れてくる汗を手で拭いながら言った。
「はぁ...はぁ...私なんてまだまだです。今日だってまだ、合計300回しか素振りしてないんですから。田淵先輩はこの数ヶ月で、既に何千以上と素振りをしてきてるはずです。怪我で一ヶ月近く休んでる私が先輩を超えるには、もっともっと頑張って強くならないと...すいません、続きをやらせてください。6...7...」私は直ぐに竹刀を持ち直し、素振りを続けた。すると丁度その時、身支度を終えた瀬戸先輩が田淵先輩の名前を呼んだ。
「お〜い
「あ、う、うん!分かった、すぐ行くわ!」田淵先輩は瀬戸先輩に軽く会釈し、続けて私に言った。
「そ、それじゃあ私ももう帰るから。えっと...練習はちゃんと休み休みやったほうが良いからね?やり過ぎて疲労が溜まっちゃうと、またすぐに怪我しちゃうよ?」
「はぁ...分かりました。お疲れ様です。...11...12...」田淵先輩は心配そうに見つめながら武道場を後にした。そのまま私は一人静かな中、竹刀が空を斬る音と足が床と擦れる音をずっと武道場に響かせ続けていた。
...自主練習を終えて大学を出て、自宅に一番近い二子玉川駅に着く頃には、もう時刻は夜の21時を回っていた。流石に張り切って練習をしすぎたせいなのか、お腹の虫はずっと鳴りっぱなしで、酷使した脚と腕も筋肉がピリピリと痺れる軽い痙攣を起こしていた。
「(はぁ...かなり疲れた〜...でもこれじゃ今度の大会には間に合わないかも...もっと頑張らないと...!)」私は心の中で静かに言い聞かせながら、暗い多摩川にかかる二子橋を歩いて渡る。そうして一番アパートに近い河川沿いの道へと逸れた。すれ違う人やチャリ乗りはいなくなり、いよいよ夜の闇と絶妙な静けさだけが私を包む。私はその時に、ふと今日聞いた噂を思い出した。
「(...美優ちゃんが言ってた多摩川に彷徨う侍の霊...幽霊って、本当にいるのかな?...いや、ないない。あり得ないよ、きっと...)」私は少ない街灯に照らされた道を少し不安げに俯きながら早足で歩いていった。周囲の草木は夜風に吹かれて、頻りに暗闇でさざめいていた。
「...っ、痛っ!」
「うおっ!な、何だよお前...!」その時、私がうっかり下に俯いていたせいだろうか。私は前を歩いていた男性二人にぶつかってしまったのだ。私は尻もちを付いてしまい、手に持っていた竹刀袋とスマホを落としてしまう。その男性たちは酷く酔っていたのか、ぶつかってしまった男は倒れた私を助けるどころか、唐突に変な難癖をつけてきたのだ。
「おいおい〜、どうしてくれんのよネェちゃん。俺のジャケットが汚れちまったじゃねぇかよ〜」
「え?あ...え、えっと、すいません...前をあんまり見ていなくて...」するともう一人の男の方が道に落としてしまった私のスマホを拾い上げて威圧的に言う。
「なんだ女か。歩きスマホでもしてたのか?マナーが悪いぞテメェ!」するとその男は私を凝視するとねっとりした口調でもう一人に言った。
「ん...っていうかさ、お姉さんちょっと可愛いしスタイルもまぁ良くね?コイツの服のクリーニング代とか貰おうと思ってたけどよ、正直めっちゃ可愛いし、むしろ俺等と今から遊んでくれたら許してもいいんじゃね?」
「え?いや、何でですか...別に私、歩きスマホしてたわけじゃないですし...あの、もう良いですか?それ返してくださいよ。私のですよ!」私が自分のスマホを取り上げようと腕を伸ばしたその時、もう一人の男がその腕を急に掴んできた。そのまま男は私の全身を舐め回すようにジロジロと見てくる。
「グヘヘ、確かによく見たら可愛いかもなぁ...胸も尻も見る感じかなりいいぜ...」男はそう言ってもう一方の腕を私の体へと伸ばしてくる。私のスマホを持っている方の男は自分の持っていたスマホで私の事を撮り始めていた。
「きゃっ!!ちょ、ちょっとやめてください!変態ですよ、貴方達!」私は必死に男の腕を振りほどこうと抵抗するが、練習と空腹で力は上手く入らないし、自衛で頼りになる竹刀も遠くに転がってしまったし、ついには連絡手段のスマホも取り上げられてしまっていた。そんな一人の女子大生に成人した男二人は、あまりにも強力だった。
「(嫌だ...誰か、助けて...!!)」私はもうダメだと思った。
カラン......!カラン......!
その時、私は夜風でさざめく草木の音にまじり、甲高い木が叩かれるような音が何処からか鳴っている事に気がついたのだ。
「え...こ、この音は...(まさか、今朝美優ちゃんが言ってた噂の下駄の音...?)」私は下駄の音がする方向をパッと振り返った。それと同時に、空にかかっていた雲がほのかに晴れて、大きな満月が周囲を優しく照らし始める。すると、音のする方向からは濃い山吹色の着物を着ている人物が、白い木の鞘に入った刀を持ってゆっくりと歩いてきているのが微かに照らし出されたのだ。しかし肝心の顔は肩まで伸びている髪の毛で隠れてしまい、どんな顔をしているのかまでは分からなかった。
「おいおい、何よそ見してんだよ。俺等と今夜はゆっくり、楽しもうぜぇ?」男達は酒と欲に負けているのか、その人物に一切気付いていなかった。私は目を瞑り、藁にも縋る思いでその人物に向かって叫んだ。
「た...助けて!!そこの人、お願いします、助けて下さい!!」
「っ...!救いを求める、声がする...」
するとその瞬間、その人物は目を逸らした次の一瞬にして男達の背後に現れ、白鞘からゆっくりと月明かりをギラリと怪しく反射する刀身を抜いたのだ。それにいち早く気が付いた撮影男は驚いて、自分の撮影していたスマホをアスファルトの地面に放り投げた。
「っ!う、うあああ!!な、何だコイツぅ、ビックリした!!」
「...潔白な娘を襲う下劣な
「ギャァァアアア!!あ...くっ...」次の瞬間、刀の刃がその男に向き、縦にまっすぐ流れるように振り下ろされた。そのまま撮影男は声にもならないような情けない悲鳴を上げてぐったりとその場に倒れ込んだ。しかし、実際に刀は男に当たっておらず、男は怪我も血も流れる事無く、ただ怯えて失神しているだけだったのだ。
「うわあああ!!な...何だよコイツ!か...刀!?やべえって、うああああ!!」私に掴みかかっていた男はその様子に錯乱し、仲間の男を置いて一人で逃げようとしていた。しかし和装の人物は握っていた刀を顔の上まで持ち上げ、逃げようとする男に構えていた。
「...逃がす訳には行かぬ。お主は罪深い外道...外道には私が、天誅をくださねばならんのだ!」その瞬間、私は目を見張った。まるで虎が獲物に飛びかかるような勢いでその人物が踏み込み、凄まじい速度の横振りが男を背後から確かに斬ったのだ。しかし男はさっきのと同様に、特に傷を負うことなくその場に倒れ込み、泡を吹いて失神してしまっただけだった。
「あ...あぁ...」私は目の前で起こった出来事に、ただ何も言えずにヘタリと座り込んでしまった。和装の人物は手に持っていた刀を何度か空振りして、地面に落としていた鞘を拾い上げてからゆっくりと中に戻した。周囲の草木は相変わらずに風にザワザワと吹かれていた。
「...あ、あの...」私は和装の人物に勇気を振り絞って声をかけようとした。するとその和装の人物が私の方をパッと見て口早に言う。
「...フン、お主が無事で結構...礼などいらぬ。私にとって人を助けるのは、果たさねばならぬ信念なのだから...」そう言い終えると、その人物は踵を返し、下駄の音を鳴らしながらゆっくりと歩いていった。しかしすぐに立ち止まり、なんとその人物はフラフラとしてから前に勢いよく倒れてしまったのだ。
「えぇ!?えっと...だ、大丈夫ですか?(この人が...美優ちゃんの言ってた侍の幽霊なのかな?)」私は少し困惑と恐怖が入り交じる中でその人物に駆け寄った。
「っ.......」すると、その人物が倒れながらブツブツと小さな声で何かを言っているのに気がついた。私は恐る恐る顔にかかる髪の毛を払い除けた。私はその時に初めて、その人物が自分と同じぐらいの年頃の若い男性である事に気がついたのだ。
「え...(あれ、想像してたよりも若い...?)」するとその男は大きく鳴るお腹を抑えながら呟くように言った。
「いか...ん...腹が...減って...何か...食べなければ...」
「食べなければって...え?まさか貴方、お腹が減って力が出ないの!?(ど...どうしよう...このまま外に放置じゃ流石に可哀想だし、なんか一応助けてもらったから申し訳ないよね...)」私は静かな道中で、一人困惑し尽くしてしまった。数秒考えた後、私は決心して男に駆け寄る。
「(仕方ない...近いし、取り敢えず私の家に連れて帰るか。ちょっと怖いけど...)んしょ!う...重い...」私はその男の腕を肩に負い、ゆっくりと自分の住んでいるアパートへと連れて帰ったのだった。
この時の私は、私の生活がこれでガラリと変わることをまだ知らない...
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