第30話 汚泥

 陸は桜桃ゆすらと共に、集落の外れに近いところにある野楠のくすの家へ向かった。

 事件の後、野楠のくすほとんど家に閉じこもっているという話であり、昼間ではあるものの在宅している可能性は高いと思われた。

 野楠のくすの家の前に立った陸は、庭の雑草が伸び放題で、結構な時間、手入れがされていないのを見て取った。使われていない農具などが放置され、荒れた庭は、住んでいる者の心のすさみを表しているように思えた。

 まだ日は高いが、窓のカーテンは閉め切られており、外から見ただけでは、室内の様子が分からない。

 玄関にはインターフォンが設置されていなかった為、桜桃ゆすらが、曇り硝子ガラスの張られた引き戸を何度か叩き、野楠のくすの名を呼んだ。

 ややあって、もしかしたら不在なのだろうかと陸が思い始めた頃、不意に玄関の引き戸がきしみながら開いた。

「警察か? 何だか集落に余所者が来ていると思ったが」

 そう言いながら姿を現したのは、着古したスウェットの上下をまとった、三十代と思われる一人の男――野楠のくすだった。

 ぼさぼさの髪に無精髭、資料で見た写真よりも少しやつれて見える顔からは生気が感じられない、不健康そうな印象の人物だ。

「私たちは『怪異戦略本部かいいせんりゃくほんぶ』の者です。野楠のくすタカシさん御本人でいらっしゃいますか?」

 穏やかに微笑む桜桃ゆすらの姿に、野楠のくす怪訝けげんな表情を見せた。

「怪異……って、そんな奴らが何の用だよ」

「最近この集落で起きた連続殺人事件、御存知ですよね? 『怪異』絡みの可能性もあるということで、我々が改めて調査しています。もちろん、あなただけではなく、集落の皆さんにも、お話を聞いていますので」

「誰が来ても同じだ。俺は事件とは無関係ってことになったんだ。もう話すことなんてない」

 野楠のくすは引き戸を閉めようとしたが、すかさず桜桃ゆすらが靴の爪先で、それを止めた。陸も、慌てて引き戸を掴み、閉じられないように押さえた。

「しつこいんだよ! 帰れ!」

 罵声を浴びせられても桜桃ゆすらは動じることなく言葉を続けた。

「あなたにお聞きしたいのは、被害者の皆さんについてです。亡くなった三名の方たちは、あなたから見て、どんな方たちでしたか?」

「どんなって……いい年なんだから定職に就けとか、集落の会合にも顔を出さなきゃ駄目だとか、一々いちいちうるせぇんだよ。俺が、どんな気持ちで生きてるかなんて分からないくせに」

 野楠のくすが、吐き捨てるように言った。

「そうですか、あなたも辛かったのですね」

 受容するような桜桃ゆすらの言葉に、野楠のくすの勢いは若干削がれたようだ。

 陸は、自分より若い桜桃ゆすらの堂々とした態度に、舌を巻いていた。

「焼け死んだとかいう同級生の女は、自分が都会で成功して高給取りになったからって、俺のことは『頑張りが足りない』だの、『もっとできることがあるのに』だの、上から目線で馬鹿にしてた……何が『安月給でよければウチの会社で雇ってもいい』だ。いい気味だぜ」

 野楠のくすは口元を歪ませた。笑っているつもりなのかもしれないが、彼の中に、何かしらの葛藤があるようにも、陸には感じられた。

「陸よ、この家の中から不快な気配がするのである」

 陸の脳内に、ヤクモの声が響いた。

 と、野楠のくすの後ろに、一人の女が現れた。

 精巧な人形のごとく整った顔に、長く豊かな黒髪、まとっているのは飾りけのない灰色のワンピースだが、それが却って彼女のすらりとした肢体を引き立てている。

 しかし、長い睫毛に縁どられた大きな目には光が感じられず、一見白く美しい肌は、どこか、日光の存在しない洞窟に生息する生き物を思わせた。

 彼女が、住民たちの目撃情報にあった「集落の者ではない女」であるのは間違いない――陸は、一瞬桜桃ゆすらと顔を見合わせた。

「タカシ、大丈夫?」

 黒髪の女が言った。柔らかく儚げな、その声は、いわゆるウィスパーボイスというものだろう。

「マキ、家の中にいろ。俺は平気だから」

 女に気付いた野楠のくすの表情が、途端に和らいだ。

「分かるわ、その人たち、タカシをいじめに来たんでしょう」

 マキと呼ばれた黒髪の女は野楠のくすを押しのけ、彼を庇うように立ちはだかった。

 その時、陸の意識が体内の深いところに落ち込んだ。

 次の瞬間、身体の主導権を握ったヤクモが、桜桃ゆすらを小脇に抱えて飛び退すさり、マキから距離を取った。

彼奴あやつは人間ではないのである」

「は、はい。でも、近くに来るまで気付きませんでした」

 ヤクモの言葉に、地面に下ろされた桜桃ゆすらが真剣な表情で答えた。

「不意打ちで殺してやろうと思ったのに、勘のいい奴ね。タカシが『ケーサツの奴は殺すな』って言ったけど、こいつらは『ケーサツ』じゃないから構わないわよね」

 マキが勝ち誇ったように、にやりと笑った時、陸は背後から複数の足音が駆け寄ってくるのを感じた。

 待機していた伊織いおりたちが、異常に気付いて駆けつけたのだ。

「増えたところで同じよ!」

 その言葉と共に、マキの身体が、どろりと崩れ、不定形の「怪異」へと変貌した。

 ヘドロを思わせる濁った色を持つ、曖昧な人型に姿を変えた「怪異」は、全身に禍々しく揺らめく黒い炎をまとった。

「この集落で、住民を殺していたのは貴様か?」

「そうよ。タカシが望んだから。自分の生気と引き換えにね」

 先刻までの柔らかく儚げな声とは打って変わって、泥の底から湧き出た泡の潰れるような声が、伊織の問いに答えた。

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