邂逅のアトリエ

甘灯

邂逅のアトリエ

芦谷あしやさん、95歳だったのね。…穏やかな最期だったわね」


「…そうですね」


 同僚の言葉に明里あかりは寂しそうに答えた。


 芦谷は明里が勤める老人ホームの利用者で、先日老衰で亡くなったばかりだった。

他の介護士からは口数が少なく、一日の大半を自室に篭って絵ばかり描いている“変わり者”の名で通っていた。

しかし芦屋を一番親身になって世話をしていた明里からしてみたら、彼は柔軟な発想をする芸術肌で、お喋り好きなご老人であった。


 


 それは、老人ホームに入居して間もない芦屋の部屋を訪れた時のことだ。


芦屋の部屋はたくさんの絵で埋め尽くされていた。

壁に絵が飾られているのはもちろん、壁に掛けられない絵は部屋の隅に立て掛けて並べられている。

芦屋が描いた絵はほとんど水彩の風景画だったが、明里は壁に飾られたとある女性・・・・・の肖像画に目が留まった。

絵の中の女性は肩口で切り揃えられた癖のない黒髪で、時代を感じさせるパフ袖の水色のワンピースを着ている。

そして正面を向き、こちらに屈託のない笑顔を見せていた。

芦谷の部屋に飾られた絵をざっと見回しても、その女性以外の人物画が一切なかった。

しかも何枚も同じ女性が描かれている。

アングルや絵のタッチに多少の違いがあってもすべて同じ女性であると明里には一目で分かった。


『芦谷さん、その方は奥様なんですか?』


 明里は絵の女性が気になって、不躾ぶしつけだと思いつつも芦屋に尋ねた。

すると芦谷は苦笑しながら『多分、違う』と答えた。


『僕ね、結婚してないと思うんだ』


『?』 


 芦屋の言い方に引っかかりを覚えて、明里は首を傾げた。


『僕ね、一晩寝たら前の日の記憶が全てなくなってしまうんだよ』


 芦屋が何気なく言った言葉に明里は驚いて目を瞬かせた。


『ああ、ずっと書きつづっている日記によるとね。…僕はどうやら事故に遭ったみたいで頭を強く打ったらしい。でも“病院の検査では脳の損傷は見られず、精神的な解離性健忘かいりせいけんぼうと疑われたけど、結局のところはっきりとした原因は分からずじまいだった”と書かれていてね』


 芦屋は次の日の朝には前の日の出来事をすべて忘れてしまうらしい。

つまりは一日の記憶しか維持できないということだ。


『そうだったんですね。そうとは知らず失礼なことを言ってしまって……すみませんでした』


 明里は申し訳ない気持ちになって謝罪すると、芦谷は静かに笑った。


『気にしなくていいよ。それでね、事故に遭って以来一日も欠かさず日記を書いているんだ』


 芦谷は棚に並べられた数冊の分厚い日記帳に目をる。


『僕にとって書き綴ったこの日記達は僕の人生そのものなんだよ。と言ってもメモ書きみたいな稚拙ちせつさで書かれているんだけどね。それで朝に掻い摘んで読み返しているんだけど…妻らしい女性の名前は一つも出てこなくてね。事故以前に結婚していた可能性もあるけど…昔の記憶を思い出したような内容も書かれていない。さっきはいないとは言ったけど、実際のところは僕に妻がいたのが分からないんだ。でももし妻がいたら…僕は一人でここにいないと思うし、だから僕は独身なんだと思う。…あぁ、好みの女性についてなら色々と書いていたっけ』


 失言したと落ち込んだ明里に対し、芦屋は茶目っ気にそう締めくくった。

明里がクスッと控えめに笑うと、芦屋は満足気に笑った。


 『…だとしたら、この女性は一体誰なんでしょうね』


 明里が女性の肖像画を見つめながら呟いた言葉に、芦谷は腕を組みながら『うーん』と考え込んだ。


『本当に誰なんだろうね。なぜこの女性を描いたのか、覚えていないんだ。実在する人なのかどうかも分からない。もし仮に実在する女性なら、この人は僕にとって何なんだろう』


 女性は一体誰なのか?と真剣に考え込む芦屋に対し、明里はなんだか居た堪れない気持ちになった。


 思い出を何一つ覚えていないことは虚しい。


『あの時、ああして楽しかったな、こんなことが嬉しかったな』 

生きていく中で、ふとした時に昔のことを思い出して、笑ったり、人と分かち合えるという喜びを味わえない。いくら文字に書きしるしていても覚えていなければ、日記を読み返したところで『こんなこともあったな』と懐かしむこともできない。

そして自分の家族や大切な人の記憶や思い出を忘れてしまうことは悲しい。

そんな風に考えにふけっていた明里はふと閃いた。


ーーもしも絵の女性が本当に実在する人だとしたら?それは…


『私、この女性は芦屋さんにとって大切な人だと思います』


 明里が唐突に告げた言葉に、芦屋は目を丸くした。


『…どうしてそう思うんだい?』


『ええっと、ですね。学生の頃にかじった程度の医学的な知識なんですが…』


 そう前置きをしてから、明里は言葉を慎重に選びながら少しずつ話し始める。


『記憶ってまず脳にある海馬かいばという部分に保存されるそうなんです。まぁ、どうでもいい記憶は海馬がふるいにかけて忘れるそうですけど。それで残った大切な記憶は別の場所…えっと大脳皮質だいのうひしつだったかな。そこに移動して、ずっと脳に残り続けるそうです』


 芦谷は興味深そうに明里の話に聞き入った。


『だから芦屋さんが描いたこの女性は脳にずっと残っている大切な記憶…“大切な人”なんだと思うんです』


 なんの根拠も確証もない。

ただ明里がそうであって欲しいと思ったゆえの願望的な考えだ。

だが芦谷は顎に手を当てながら思案顔になった。


『……僕にとって大切な人、か。何も思い出せないけど。…そうか、僕は何も覚えていないと思っていたけど、本当は脳の奥底に眠っているだけなのかもね』


 芦屋は明里の言葉が腑に落ちたように頷いた。

もしかしたら元気づけようとしている明里に対して気を遣った返答なのかもしれない。


『きっと、そうです!それに…』


 明里は壁に掛けられた女性の肖像画をもう一度見る。


『芦谷さんにこんな笑顔を向けてるってことは、きっとこの女性も芦谷さんのことを大切に想っていると思います』


 明里の言葉に、芦谷はハッとした顔をした。


「………そうか。そうなら、いいな」


 肖像画の女性を見つめながら、芦谷は泣きそうな顔をした。


その時の芦屋の表情の真意は明里には分からなかった。






        ◇ ◇ ◇ 






 明里は芦屋の部屋で遺品の整理していた。

荷物は決して多くない。

あるのは彼が描いた絵と画材、それと日記ぐらいなものだ。


 明里はおもむろに額縁に飾られた女性の肖像画を撫でた。

芦谷の絵はとても上手い。素人目からしても、水彩の温かみのある色合いと精密な絵のタッチは人を惹きつけるほど見事なものだった。

しかし意外なことに芦谷は画家ではなかった。


 芦谷は事故に遭ったと思われる20代半ばから、日雇いの仕事をしながら細々と生活してきたらしい。

芦谷がきちんと定職につかなかったのは、自分の身分証明ができないこと、そして記憶を維持できなかったからだ。

一日の記憶しか維持できない芦屋は継続的な仕事をすることがとても難しかった。

職場の人間関係が毎日リセットされるとなると、仕事に支障をきたすことが多い。

しかし日雇いなら、一日限りの仕事内容であり、さほど人間関係を構築しなくてもいい。

だから芦谷にとって最良の働き方だった。

しかしそのせいで彼の生活はとても苦しかった。 

それでも芦谷はなんとかお金を工面して画材を買い、絵を描き続けていた。

本当に生活が立ち行かない時は絵を売ったらしいが、芦屋にとって自分の描いた絵は日記と同じ様に『大切な自分の記憶』であり、手放す際は喪失感に苛まれていたらしい。

そして例の女性の絵だけは、買い手がついてもどれも売らなかったようだ。


 これら・・・の芦屋の人生の経緯については、彼自身が書き綴った日記に収められている。


ーー日記からではなく、生前の芦屋の口から直接語って欲しかった。


ーーお喋り好きな芦屋なら話題は尽きなかっただろうな


 そんなことを思い、明里はやるせない気持ちになった。

自分は芦屋のなんの力にもなれなかった。

何もしてあげられなかったことに明里は自分の無力さを感じせずにはいられなかった。


ーー本当は芦屋のために何かできたんじゃないのか?


 そんな風に自問自答しては、明里はひどく落ち込んだ。


「芦谷さん。…この女性に会いたかったんじゃないかな」


 明里は壁に掛けられている女性の肖像画を見つめながら、込み上げてきた涙を袖口で拭った。

その時、ちょうど施設長が部屋に入ってきた。


真柴ましばさん…大丈夫?」


「は、はい!大丈夫です」 


 施設長は目を腫らした明里を心配して声をかけた。


「…取り込み中のところごめんなさいね。ちょっと今いいかしら?」






「私が芦谷さんの遺産の相続人に…ですか?」


 応接室で、明里は芦谷の弁護士と名乗る男と対面していた。

弁護士から告げられた内容に、明里はもう一度確かめる様に聞き返した。


「はい。生前、芦谷様から依頼を受けまして」


 弁護士はスッとテーブルに封筒を置いた。


「これが芦屋様がご自身で書かれた遺言書です。そこに自分の遺品は真柴様にすべて遺贈したい旨が書かれています」


「え…」


 弁護士の言葉に明里は戸惑った。


「芦谷さんはどうして私に遺産を渡すなんて言ったんでしょうか…?芦谷さんはその…記憶障害があって私のことは覚えてないはずなのに…」


 朝会うたびに、まるで初対面の人と会ったような顔をしていた芦谷を思い出す。

弁護士は「そうですね」と頷いてから、その訳を話し始めた。


「…芦谷さんに聞きましたら、日記を見返して、真柴さん、貴女のことがよく書かれていたそうです。大変良くしてもらっている、貴女に対しての感謝の言葉を書き綴っていたそうです。しかし自分には親切にしてくれた記憶が残っておらず、そのことが心苦しいと仰っていました」


「芦屋さんがそんなことを…」


 家族でも何でもない明里に遺品を相続させるという理由は、単に親切にしてくれたと言う事らしい。 

赤の他人に遺産を相続させるなんてまるでドラマのような展開だ。

まさか実際に自分の身に起きるとは思わなかった。

それより芦屋が明里に対して申し訳なく思っていたことが歯痒かった。


「遺産と言っても金銭的な財産はまったくない状態なのですが…」


 弁護士は何故か気まずそうに頭を掻いた。

芦谷は事故で記憶障害となり、自分の身元が分からない状態だった。

結局身内が見つからないまま芦屋は一人余生を送ることになった。

そして90歳の高齢となって自分の死後のこと、遺品について考え始めたらしい。

芦谷は他人に迷惑はかけられないと、弁護士に“自分が死んだら遺品の処分を任せたい”と言った。

芦屋の持ち物のほとんどは自身が描いた絵だ。

弁護士は誰かに遺贈してはどうか?と芦屋に提案した。弁護士は芦谷の絵の素晴らしさをよく理解していて、私情を持ち出してでも処分などさせたくなかったのだ。

だが1円にもならないことを、明里に押し付ける形になって申し訳ない気持ちがあった。 


明里は芦谷の遺言書を読み終えて、息をついた。


「わかりました。芦谷さんの遺品は私がすべて譲り受けます」






        ◇ ◇ ◇






「…で、芦谷さんの個展を開くなんてね。費用が大変だったんじゃない?芦谷さんからお金は一切貰ってなかったわけだし」


 親友の香織かおりのトゲのある言葉に明里は苦笑した。


「まぁ…そうだけど。でもやっと芦谷さんにしてあげられることが見つかったからいいんだ。一日限りの個展だから、費用はそこまでかからなかったし」


 芸術とは無縁に生きてきた明里は、個展を開くためにかなり苦労した。


「ま、とてもいい絵だもんね…色んな人に見せたい気持ちは分かるわ。でも無料ただじゃなくてもさ」


 香織が尚も食い下がるので、明里は話題を変えることにした。


「香織、本当に手伝ってありがとうね。SNSで宣伝なんて、そういうのに疎い私にはまったく思いつかなかったよ」


「でしょうね。…まったく、あんたは損得勘定なしに行動しちゃうから…ほっておけないのよ」


 香織は露骨にため息をついた。


「えへへ」


「何照れてんのよ?気持ち悪い」


「香織って…ホントに優しいよね」


「違うわよ。あんたとは腐れ縁なだけで…そ、そのよしみで世話してやってるだけ!」


 香織の必死の照れ隠しに、明里は笑った。


「…でもさ。本当になんで個展を開こうと思ったわけ?遺言にはそんなこと一切書かれてなかったんでしょ?」


「うん」


 明里は静かに頷いた。


「もしかしたら…この絵の人が来てくれるんじゃないかなって、そう思って」


「………」


 香織は何も言わずに、明里の話を黙って聞く。


「私の思い上がりなの。実在している人かわからないんだもんね。もし仮に実在した女性でもさ、芦谷さんは90歳を過ぎてたんだからその女性もかなり高齢だと思う。だから…来てくれることなんてほぼ無いんだけど…」


 明里は寂しそうに笑った。


「でも、もしかしたら!って、思っちゃったんだよね…」


 途端に俯いた明里の肩を、香織は元気づけるようにポンと優しく叩く。


「そうね。来てくれるといいわね」


 香織も来ることはないだろうと同じことを思っているはずだ。

だが叶わないとわかっている明里の願いを汲み取って、香織はあえてそう言ってくれたのだ。

そんな親友のやさしさに、明里は涙がこみ上げてきた。


 その日、芦谷の個展には多くの来客が来た。

その人の中には絵を買いたいと申し出る人もいたが、明里は丁重にすべて断った。


「明里、大体の荷物は車に積み終わったわよ」


「ありがとう」


「これは指定されたトランクルームに運んでおくわね。後は一人で大丈夫?」


「うん、大丈夫」


「なら、そのままあたしは先に帰るわね」


「うん!ありがとう、香織」


 香織が帰ると、明里は最後に飾られていた肖像画を静かに眺めた。 

高齢の女性は何人か来ていたが、芦谷の想い人は居なかった。


「分かってはいたんだけどね」


 明里は静かに呟いて、額縁の絵に手をかけた。


「あの!」


 その時、ちょうど声を掛けられて明里は額縁を持ったまま横を向いた。


「展示会はもう終わってしまいましたか…?」


 息を切らしながら、若い男性が尋ねてきた。


「はい。片付けてしまって…もうこの一枚しか」


 明里の視線に男性もそちらを見る。


「ああ…やっぱりよく似てる」


 男性は呟いた。


「え?」


「実はその絵の女性。…俺の曾祖母の若い頃によく似ていているんです」




 男性の名前はしのぐと言った。

五年ほど前、彼の曾祖母は病気で亡くなったらしい。そして母親と遺品整理をしていた時、凌は若い頃の曾祖母の白黒写真を見たというのだ。


「SNSで展示会のことを知って…載せられてた絵の画像があまりにも、その時の写真の曾祖母とよく似ていたんです。それで気になって来ようと思っていたんですけど、今日急に大学の研究室から呼び出されてしまって…」


 凌は大学院生らしく、用事を終わらせて急いでここに駆けつけたということだった。


「そうだったんですね。わざわざご足労おかけしてしまって…あのよかったらもう少しお話聞かせてもらえませんか?」


「もちろんです」 


 凌は快諾し、明里に曾祖母の写真を見せてくれた。本当に芦谷が描いた女性とよく似ている。


「昔、曾祖母の妹から母が聞いた話なんですけど…曾祖母、名前はみなとと言うんですけど、曽祖父と結婚する前に…駆け落ちしようと思ったほど慕っていた男性がいたそうなんです」


 凌の言葉に、明里は驚いて目を見開いた。


「時代が時代だったので、親の決めた人と結婚をするしか曾祖母には選択肢はなかったのですが…でもどうしてもその男性と一緒になりたかったみたいで…二人は駆け落ちすることにしたんです。でも駆け落ちすると決めた日に男性は来なかったらしく…」


「どうし…あっ!」


 明里は思い出したように言葉を切った。


「どうしましたか?」


 凌が思わず聞き返す。


「この絵を描いた人…芦谷さんと言うんですけど。若い頃に事故に遭ったらしくって…それで記憶障害になってしまったんです」


「え、それじゃあ…」


「…ええ。もしかしたら湊さんと駆け落ちする日に…芦谷さんは事故に遭ったのかもしれません」


 明里は泣きそうになって、思わずシワができそうなほどスカートを強く握った。


「そうか。…曾祖母はその男性が来なかったことで、結局は曾祖父と結婚したんです」


 凌も明里に同調したようで、その声が感傷的に震えていた。


「そうでしたか…」「はい。それで俺…これを持ってきたんです」


 凌はリュックから一つの木箱を取り出した。それを明里にそっと手渡す。


「開けてみてください」


 凌にそう促されて、明里は慎重に木箱の蓋を開けた。


くし…ですね」


 それは飴色をしたべっ甲の櫛だった。


「これ…曾祖母の形見なんですけど。芦谷さんの遺品と一緒に置いてくれませんか?」


「え?で、でも…」


 凌が言わんとしていることを察した明里は戸惑った。


「母から了承は貰っているんです。だからお願いします」


 凌は深々と頭を下げた。

芦屋が湊の想い人だという確証は何もない。だがー


「わかりました」


 明里が答えると、凌は安堵の息をついた。


 


 凌が帰ると、明里は額縁の絵をもう一度壁に掛け直した。


「芦谷さん、これ…湊さんの形見の品です」


 明里は絵の方を向くように置いた椅子の上へ、湊の櫛をそっと置いた。


「私、残りの荷物を車につけてきますね」


 明里は独り呟き、画廊の扉を静かに閉めた。






          ・ 

          ・         

          ・






 一人の女性が椅子に静かに座って、肖像画を見つめている。


『実物より随分と綺麗に描いてくれたのね』


 女性は少し皮肉も込めて、しかし何処か幸せそうに微笑んだ。


『そんなことないよ』


 女性の隣に佇んだ若い男が苦笑しながら言った。


『そうかしら?とても美化してると思うわ』


『違うって。実物の方がずっと綺麗だよ』


『ふふ…相変わらずお世辞がうまいのね。でも…ありがとう。ずっと私のことを覚えてくれて…想っててくれて』


 感情が高ぶり、女性は泣きそうな顔で言った。

男の目にも薄っすらと涙が浮かんだ。


『約束、破ってごめん…』


 男は深く頭を下げた。


『あの時は…あなたを恨んだわ』


 女性は静かな声で告げた。


『そうだよね…』


 男は頭を下げたまま、消え入りそうな声で言った。


『でもね…』


 女性は椅子に座ったまま、男の着物の袖を引いた。

男が弾かれたように顔を上げる。


『こうして…また会えたんだもの。だから、もういいの』


 女性は男を愛おしそうに見つめて、そして笑いかけた。

その笑みは目の前にある肖像画とまったく同じだった。


『ありがとう。…じゃあ、もう行こうか…』


『ええ』


 二人は微笑み合い、手を繋ぐ。


そして二人の姿はかすみのように静かに消えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

邂逅のアトリエ 甘灯 @amato100

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ