「桜の下で交わした言葉」

翌朝、鈴木太白は早く目を覚ました。窓の外から差し込む陽光が薄いカーテンを通り抜け、彼の机の上に昨夜開きっぱなしだった物理の教科書の上にその光を落としていた。彼は眉を軽く揉みながらも、まだ少し疲れが残っていると感じていたが、頭の中の疑問や不安が休むことを許さなかった。


洗面を終えた後、太白はスマートフォンを手に取った。そして再び玉妃とのチャット画面を開いた。会話の画面には、昨夜送ったメッセージがそのまま残っており、玉妃からの返事はなかった。彼の指はしばらく迷った後、次の一行を打ち込んだ。


「玉妃、今日は学校の近くの桜並木が咲いてるはずだけど、見に行かない?」


そのメッセージは、深く考えずに、ただの軽い試みだった。太白はすぐに送信ボタンを押したが、その後、心臓が速く鼓動し始めた。画面を見つめながら、「既読」の表示が現れるのを待ったが、数分が過ぎても、静寂が続いていた。


太白はため息をつき、リュックを手に取って外に出る準備をした。無駄に待つよりも、散歩をして気分を落ち着けた方がいいと思った。彼は無目的に街を歩き、最終的に学校の近くにある桜並木にたどり着いた。


春の桜はちょうど見頃を迎えており、ピンクと白の花びらが風に舞い落ち、空気には淡い香りが漂っていた。この並木道は、数え切れないほどの学生たちの青春の思い出を抱えている場所だったが、今、太白はその中でひとしきりの孤独を感じていた。


彼がその場を離れようとした時、遠くに見覚えのある姿が目に入った。それは玉妃だった。彼女は制服を着て、桜の木の下に立ち、花々で覆われた空を静かに見上げていた。その表情は驚くほど穏やかだった。


太白の足が止まった。彼は声をかけるべきかどうか躊躇した。玉妃は何かを感じ取ったのか、ゆっくりと振り返り、二人の視線が空気の中で交差した。


「太白?」玉妃の声には驚きがこもっていた。


「玉妃。」太白は数歩歩み寄り、自然に話そうと努力した。「こんなところで会うとは思わなかった。」


「ただ、散歩していただけ。」玉妃は顔を下げ、足元に視線を落として、太白と目を合わせようとしなかった。


「桜が綺麗に咲いてるよね。」太白は話題を探すように言ったが、声には少し気を使う気持ちがにじんでいた。


玉妃は軽くうなずいた。「うん。」


沈黙が二人の間に広がり、風に舞う花びらの音だけが耳に響いていた。太白の心の中では、さまざまな質問が渦巻いていたが、どこから尋ねるべきか分からなかった。結局、彼は勇気を振り絞って口を開いた。


「玉妃、最近……ちょっと元気がないように見えるけど?」


玉妃の肩がわずかに震え、彼女は顔を下げ、唇をぎゅっと閉じた。


「私……」彼女の声は非常に小さく、風に吹き飛ばされるような弱さを感じさせた。「別に、特に何も。」


太白は彼女の横顔を見つめ、彼女の声の中に何か避けようとする気持ちを感じ取った。彼は尋ねようとしたが、あまりに強く問い詰めるのはためらわれ、話題を変えた。「実は、私は君を助けたいと思っているんだ。もし、私にできることがあれば、何でも言ってくれないか?」


玉妃は顔を上げ、その瞳の中に複雑な感情が浮かんだ。彼女は静かに言った。「太白、あなたはいつもそんなに優しいね……」


「それは優しさとかじゃない。」太白は彼女を遮るように言った。声の中に急かすような気持ちが込められていた。「ただ、君が一人で抱え込まないでほしいんだ。もし僕でよければ、僕は君と一緒にいてあげる。」


その言葉を聞いたとき、玉妃の顔に一瞬動揺が見えたが、すぐにその表情は元に戻り、冷静に言った。「ありがとう、太白。でも、いくつかのことは……私一人で向き合わなきゃいけない。」


その言葉は太白にとって、見えない壁のようだった。彼は喉が詰まったような気がし、最終的にただ一言、「分かった。」とだけ言った。


玉妃は再び顔を下げ、それ以上何も言わなかった。二人の間の空気は凍りついたように感じられ、ただ桜の花びらがひらひらと落ち続けていた。それは、無言の悲しみを増しているかのようだった。


しばらくして、玉妃は顔を上げ、薄く微笑んだ。「ありがとう、太白。じゃあ、私は帰るね。」


彼女が立ち去る背中は、陽の光に引き伸ばされ、太白はその背影をじっと見つめながら、言葉にできない無力感を感じた。彼の心の中には、無数の疑問が渦巻いていたが、それらの答えはどこにも見当たらなかった。


玉妃が去った後、太白は無意識に下を見ると、足元に紙切れが落ちているのを見つけた。彼はそれを拾い上げ、広げてみると、そこには美しい文字で一言だけ書かれていた。


「どうしても変えられないことがある。」


太白の眉がしっかりとひとつに寄せられた。それが玉妃が残したものかどうかは分からなかったが、この言葉は間違いなく彼の疑念を深めた。玉妃は何を抱えているのか?その重さは、どうして彼を遠ざけるのだろうか?


太白はそのメモを慎重に折りたたみ、ポケットにしまいながら、桜の花びらが舞い散る方向を見つめた。心の中には、何か不安な予感がひしひしと迫ってきた——この春は、彼にとって忘れられない時間になるのだろう。


家に帰ると、鈴木太白はその紙切れを取り出し、机の上に広げた。窓の外から風が優しく吹き込んで、紙を少し持ち上げる。その風は、まるで言葉にできない秘密を語りかけているかのようだった。太白はその言葉をじっと見つめ、不安の感情がますます強くなった。


「どうしても変えられないことがある。」


その言葉は、目の前にある無形の刺のように、太白の胸に深く突き刺さった。彼は玉妃との過去の一つ一つの出来事を思い返し、そこから何か手がかりを探そうとした。


二人の関係は、いつからひびが入ったのだろうか?あの日、春の午後に彼女が初めて自分の目を避けたときから?それとも、彼女が自分の生活を以前のように分かち合わなくなったときから?


太白は頭を掻きながら立ち上がり、少しイライラしながら窓を開けた。冷たい風が、春の湿り気を含んで彼の顔に触れた。彼はこめかみを揉みながら、ぼそりとつぶやいた。


「玉妃、君は一体どうしたんだ……」


その時、ドアの外からノックの音が聞こえた。太白は無意識に母親だと思い込んでドアを開けたが、目の前に立っていたのは千葉夕嬌だった。


「また君か?」太白は少し驚いた。「どうしたんだ?」


夕嬌は小さな袋を手に持ち、少し恥ずかしそうに微笑みながら言った。「お菓子を作ったので、ちょっと試してみてほしくて。」


太白は袋を受け取ると、彼女を見つめながら、感謝の気持ちが込み上げてきた。「ありがとう、本当にわざわざごめん。」


夕嬌は首を横に振り、真剣な口調で言った。「最近、少し疲れてるみたいだから、少しでもリラックスしてほしくて。」


太白は少し戸惑ったが、なんとか笑顔を作りながら言った。「大丈夫だよ、最近は勉強が忙しいだけだから。」


「本当にそれだけ?」夕嬌の声は柔らかかったが、その中には鋭い洞察力が感じられた。「もし何か悩んでいることがあれば、話してくれてもいいんだよ。だって……私たち、友達じゃない?」


太白は夕嬌を見つめ、心の中で少しのためらいを感じた。彼女の思いやりは本物だと分かっていたが、いくつかのことを話すのは簡単ではなかった。結局、彼はただ首を振って言った。


「大したことじゃないよ、ちょっとしたことだ。」


夕嬌はそれ以上追及せず、にっこりと笑いながら言った。「分かったよ。でも、何か助けが必要だったら、いつでも言ってね。」


彼女の笑顔は春の日差しのように暖かかったが、太白の心には一瞬、罪悪感のようなものが過ぎった。彼は頷きながら、夕嬌が去る背中を見送り、心の中に複雑な感情が沸き起こった。彼女の好意は嬉しいが、それは同時に玉妃への無力感を照らし出す鏡のようにも思えた。

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