ざまぁ?そんなことより手を取り合おう!
あまくさ
第1話 プロローグ
……ちっちゃい。
いつものペンダコでざらついた掌ではない。
一見すると、元の三分の一ぐらいかな。
試しにグーパーしようとしたら、まるで体の一部ではないよう反応が鈍く上に、震えも止まらない。
腕と脚もまた、似たような状況だった。力を入れようとも痺れで関節が固まってしまう。
極限まで伸ばした両脚はただ空振りをする。
口を開こうとも、「あー」とか「うー」とか意味不明な音に成るばかり。
床らしいところが見当たらん。そもそも視界に入ってるのは僅かな照明と果てしなく続く壁だけだ。
手を叩いたり、脚をバタバタさせたり、とにかく騒音を作り出してしばらく。
誰も来なかった。
こんなこと初めてだ。
普通に怖い。
周りを一通り見渡す。
両方の柵が邪魔で視野角が狭いから、目の前にあるでかい風鈴以外何もなかった。
まさか寝ぼけているのか?いや、二日酔い特有のくらくらがしないし、私はそこまで終わってない。
金曜だからといって、午前中に家の掃除を済ませる予定だから、潰れるほど飲んでいなかったはずだ。
どのみち、物理的に体が縮むなんてことあり得る?
どこぞの高校生探偵じゃあるまいし、変な薬を飲んでたりもしてないし、やはり夢なんじゃないかと。
そう決めつけながらも、体が一回り小さくなっている現実を前にして、どうしても疑ってしまう自分がいる。
思い出せ。そう、飲み会に出て、だいぶ疲れたから、終電に乗ってどうにか家に……ここまでの記憶はぼんやりしていながらまだ覚えている。ちなみに男と帰った覚えは皆無だ。
一瞬、過労死という言葉が脳に閃くが。
そこまで体調が悪いわけではないとその可能性を即否定する。
カチンカチンと微風に揺れる鉄の棒がガラスとぶつかる音がする。
誰かが入ってきてのか。足音に気を遣っていたから気づくの遅かった。
照明が蝋一本だけの薄暗い室内では、扉がどの方向にあるかが全然分からないしな。
「ーーーー、ーーーーーー?」
知らない言葉、そして知らない顔が現れた。
白いブリムが頭にのせた姿は、似合ってるというよりも着こなしているように見える。
やっと知人に会えた安心と、知らない人が近寄ってくる恐怖が同時に湧いてくる。
その不安そうな気持ちが読み取られたらしく、メイドは眉を寄せる。
気付けば体は宙に浮いた。
抵抗しても無駄だ。力の差が比べ物にならない。
そうか。
メイドの頑丈な腕に体重を載せながら思う。
いまの私は赤子。
こう解釈したほうが、色々と合点がつく。
しばらくすると頭もだいぶクリアになってるし、意外と冷静でいられる。
考えよう。まず、状況を整理する。
この時期の子には、
なのに私は、自分が誰なのかがはっきりと理解し、こうして疑問を抱くこともすでにできている。
こんな肉玉のような体つきではなかった、と。
会社員、ひとり暮らし、二十代後半の独身日本女性、それこそ私。
ちゃんとした大人である。
「ーーーーーー?」
また何かを呟いた。
何語だろうか?落ち着いたら気になってきた。この子の耳にとってはただ雑音にしか聞こえないんだけど、英語でもないらしいし。
「ーーーー!」
口許をよく見て、解読。
うっ……
未発達な脳を使いすぎたせいか、頭が急に重くなった。まるで、あまり深入りするなと神様に忠告されているように。
いや、ようやく襲ってきた二日酔いに過ぎないかも。
しばらくは、大人しく状況を観るほうが適切か。視界はおっぱいしかないけれど。
柔らかいな。いいもの持ってんじゃん。
***
季節が巡り、周りの言葉もすこし分かるようになってきた。
これ程時間が経った以上、夢である見込みはもう薄い。先に十年、五十年だって、帰りたくても帰れない。そう覚悟しておくべきだ。
正直、向こうの友人たちには申し訳ない気持ちばかりだ。
動けるようになったら直ちに帰る方法を探そう。
年若いせいか、揺りかごでじっと会話を聞く時間が長いせいか、物覚えは舌を巻くほどによかった。
ここの文字はロシア語に近い形をしており、記憶が難しくて読む機会もなかなかないのでまだ出来ないが、まあ、せっかちは禁物という言葉もある。これからじっくり覚えていくけば大丈夫だと思う。
なんせ、いきなり喋っちゃいけないことは理解しているつもりだ。
お腹がすいたら喚き、おむつを濡らしたら泣き、眠くなったら泣き叫び、無限にループしながら日々を送っていく。
言葉にしなくても平気だし、むしろそのほうが自然だ。
覚醒してから数日で覚えたことだが。無論、年相応な振る舞いはただの誤魔化しだ。
本当はひそかに絵本を読んだり、周囲の会話を聞き耳立ったりしてすでに情報収集に取りかかている。
二つ情報が分かった。
あまり認めたくはないが、その一つ目はなんと、ここは生前プレイしていた乙女ゲームの世界であること。
そして二つ目は、使用人の数から親はかなりの上位者であること。
それだ。噂されの「転生」、またはそれと似たような現象が起きただろう。
トラックにひかれたかどうかは記憶に残っていないけれど。
ずいぶん昔、っていうか学生時代はまったゲームであり、作品の名前はとっくに忘れていた。
ただ、メインキャラ数名と、妙に出番が多い悪役令嬢さんの名前だけ、なぜだか今でも鮮明に覚えている。
エリサ・レイヴンズ、この名はまさに悪役令嬢に相応しい。
母は世界屈指の美人で、古今東西に名を知られる芸術家でもある。
父は公爵、さすがに王族には及ばないけれど、そこそこの地位を持つ名家。
その二人のかわいい娘が私である。
優秀な両親に囲まれ、本来なら幸せな家庭を築くべきだろう。
だが、
誇り高い性格がゆえに、学園ではいつも主人公と張り合い、いじめも絶えなかった。
そうやり続けた結果、主人公にだんだん惹かれていった王子から婚約破棄され、隣国まで追放される羽目になったり。それところか、災厄の魔女に身を乗っ取られて己を失い、まあ、いわゆる破滅エンドを迎えてしまった。
一方で主人公は下剋上を果たし、国の王妃となり、ゲームの終盤でメインキャラたちと力合わせて魔女を倒し、王国に平和な日々をもたらした。めでたしめでたし。
流れは大体こんな感じ。
当時はそこそこ面白いと思っていた。
大物の絵師と声優を起用した結果、多少ストーリーが適当になっても仕方ないこと。
そこで期待値が下がっていたか。
今振り返ると、ざまぁってすっきりするよりも、巻き込まれた親族の境遇に同情でしかない。
「お嬢さま、それは食べ物ではありませんよ!」
張り上げた声と共に、慌てた様子の女子が駆け寄ってきた。
名はセラという。
平民出身の彼女はこの屋敷のメイドにして、私の乳母でもある。こういう人はたいてい立場が低く上に、家名も持っていない。
うちの両親にこき使われても、同然のように文句一つ言わず仕事をこなしている姿を、ここ毎日ずっと見ていた。
同年代の女性よりやつれたその体がその証明だ。
見てるだけ心が沈む。
一概には言えないが、生まれて決めた身分の差が実在する社会ならこんな感じだったのか?
それにしても、ばれるところだった。
いつの間にか部屋に入りやがって、気配を隠すに上手すぎるというか、単なる存在感が薄いというか。
本来なら一才も満たない赤ん坊が自力で本を読むなど不可能だからな。至急で動きを変えて思考誘導に成功しただけましだ。
父は公務で、母は社交会で忙殺されている際に、セラが絵本を読んでくれるのがもう通例になっている。忘れてはならない。
いつも夕飯後から寝るまでの間に行われるけど、時計がないので精確な時刻は分からないまま、空の色を見て推測することもなかなか難しい。
「どれどれ、あら、お嬢様は本当にこの『うさぎのおみみ』がお気に入りなんですね。では、読んで差し上げましょう。預かりますね。」
子ども相手でさえ、乱暴せず丁寧にと本を抜き取る。こういうところまで自分の立場に意識が高い。
何事も前向きに取り組み、たとえそれは過酷な労働だとしても。ご立派だ。私にもそんな時期があって、確か会社に勤め始めた頃のことだった。あまり振り返りたくもない歴史だ。
「むかしむかし、ある大きな森に、特別なウサギさんがすんでいました……」
落ち着いたスピーチで、物語が始まった。
絵本の内容はさすがに理解できない、と、セラはきっとそう思っているだろう。本に興味を示したから、子どもを寝かしつける手段にしたんだと思う。
もっとも、途中から何を言ってるのか分からなくなってきた。その判断は間違っていない。
理解不能なところが積み重ねば重ねるほど、話すテンポに追い付かなくなる。まるで英語の聴解をやってる時と同じぐらいしんどかった。
所詮はゲーム世界だろうと甘く見すぎたかもしれない。
プログラムじゃないから、ボタン一つでスキルを習得できないし、ステータスウィンドーで経験値を確認することもできない。
勉強については現実世界とほぼ変わらないんだし、今んとこゲームっぽい便利設定は一か所も見つかってなかった。
あれ、結末は前回とちょっと違った気がする……自分でアレンジを加えたのか?
メイドは書斎に入れない。絵本の数自体もそんなに多くはない。
一通り読み終わったら、また同じ話を最初から読むことになる。
習った単語の復習にちょうどいいが、さすがに何回もだと飽きてしまう。
その気持ちが顔に出たせいか、最近セラはこうして物語をアレンジしたり、民話を語ってくれたりするようになった。
「おしまい。はい、おねんねの時間だよ。」
「ぐわーい!」
絵本読みが終われば、もう就寝の時間。
寝たらまた次の日が始まる。
精神年齢が三十代のOLにとって、毎日十時間もぐっすり眠れる生活なんて夢のまた夢だ。
それに、幼いうちに十分な睡眠を取らないと知能の発達に影響が出るらしい。勉強のためにそれを犠牲にするなんて本末転倒だ。ん、さぼったわけではないぞ。
というわけで、すべての計画は三歳になってからと後回りにした。
せっかくだし、しばらくはこのぬるぬる生活を満喫させてもらおう。
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