第19話 思い出(五)

 その日の授業中、灯里がじっとこちらを見ているのに一千歌は気づいた。

 絶交したばかりなのに、隣の席だからすごく気まずい。


 なんか、すごい見てくるんだけど……。


 試しにちらっとそちらに目をやると、灯里ははっとした顔になって目をそらした。

 一千歌が前をみると、また隣の席から視線を感じる。

 ふたたび彼女のほうに目を向けると、灯里は気まずそうにまた目をそらす。

 一千歌はため息をついた。


 なんでそんなに見てくるの……。


 ふたりのあいだでそんな無言の攻防が、今日一日で少なくとも数十回は繰りかえされた。

 学校の授業が終わるころには、一千歌は精神的にすっかり消耗していた。


 ランドセルに教科書や授業の道具をしまったりしながら、下校の準備をすませていると、また視線を感じた。

 隣をみると、やはり灯里がこちらを見ていた。


「……なに?」


 思わず声に出してしまったが、灯里はなにも答えず、目を伏せるだけだった。

 灯里がなにか言いたそうにしているのは、一千歌にもわかっていた。


 もしかして、謝りたいのかな?


 いい加減、観念してこちらから「一緒に帰る?」みたいに声をかけてしまおうかとも思った。

 そうすれば、楽になれるのかもしれない。

 しかし、一千歌にだって意地があった。


 わたし、悪くないし。悪いのは、あかりちゃんだし……。


 そう自分に言い聞かせながら、一千歌はランドセルを背負った。

 放課後の教室は、児童たちの楽しそうな話し声や、笑い声でにぎわっていた。

 けれど、そのざわめきのなかで、一千歌と灯里のあいだだけが、居心地が悪いくらい静かで遠かった。


「ねえ、一千歌」


 ふいに、クラスメイトの女子が声をかけてきた。

 気づくと、何人かの女子が一千歌の机を囲っていた。


「このあと、図書室いかない?」彼女はいった。

「あ、うん。いいよ」


 一千歌は笑顔をつくって答えた。

 けれど、その横目で視線を感じとった。灯里がまたこちらを見ている。

 気づかないふりをしようとしても、どうしても気になってしまう。

 彼女の、少しだけ手を伸ばそうとするような仕草。

 その顔には、どこか恨めしそうな表情が浮かんでいた。

 机に入っていた最後の教科書をランドセルにしまいながら、一千歌は目を伏せた。


「あの子、一千歌のこと、ちらちら見てない?」


 その言葉に、一千歌の心臓がドキッと跳ねた。


「そういえばさ、最近あの子と一緒にいること多いよね。もしかして友だちなの?」


 自然と、灯里のほうを見てしまう。

 彼女は心なしか気まずそうにしていたけれど、無言だった。


「……友だちじゃ、ないよ」


 そういった瞬間、胸に痛みが走った。

 口をついて出た言葉とは裏腹に、胸の奥に罪悪感に似たものがひろがる。


「まだ見てるよ」

「きも」

「あたし、あの子にがてー」


 わざと聞こえるように言っているのか、彼女たちは馬鹿にしたように、灯里のほうを見てクスクスと笑いあう。

 灯里が少し悲しそうな目をするのを、一千歌は見た。


「あかりちゃんはいい子だよっ!!」


 自分でもびっくりするくらい大きな声が出てしまって、はっと我にかえる。

 

 あっ。しまった。


 一千歌は慌てて口もとを押さえた。

 教室中の視線がいっせいにこちらへ注がれる。

 灯里も、驚いたような顔をしていた。


「い、一千歌……?」


 動揺したクラスメイトの声が耳にとどく。


「ご、ごめん……。図書室だっけ。さ、いこうよ」


 一千歌はぎこちない笑顔を浮かべながら、ランドセルを肩にかけた。

 そして、そのまま脇目もふらず早足で教室を出ていく。


「一千歌、待ってよー!」


 背後から追いかけてくる声が響いたけれど、ふり返る心の余裕なんてなかった。


――なんで、わたしばっかりこんな思いをしなきゃいけないの? あかりちゃんのほうから、謝ればいいじゃん。


 結局、クラスメイトたちと図書室で時間を過ごしているときも、灯里の恨めしそうな顔が一千歌の頭にこびりついて離れなかった。


 †


 用事を済ませたあと、一千歌は彼女らと一緒に校門を出た。

 校庭の隅にある木々が、冬のほこりっぽい風に吹かれてさらさらと揺れた。


「あかりちゃん、どうしてるかな……」


 そんな言葉が、無意識のうちに口からこぼれた。


「え? いま、あかりちゃんっていった?」隣を歩く女子が、変な顔をしてこちらを見る。


 一千歌はあわてて言い訳を考えたけれど、もう手遅れだった。

 隣ではクラスメイトの女子たちが、新しいおもちゃを見つけたみたいに、にやにやと笑っている。


「やっぱりあの子と友だちなんじゃないの? 図書室でもぼんやりしてたよね? 気になってたんでしょ」

「……ちがうよ!!」全力で否定する。

「びっくりした。そんなに、ムキにならなくてもいいじゃん」

「友だちじゃないの? じゃあ彼女?」

「ムキになるところがあやしいよね」

「あやしい」

「彼女だ、彼女だ」

「はああぁ…………」


 一千歌はため息をついた。

 見せつけるように、わざとらしく、大きく。

 なにがそんなに楽しいんだろう。

 夢中ではやしたてる声が耳ざわりでしかたがない。


 ――こんなことで盛りあがれるなんて、子どもってほんと単純!


 そのとき、近くにいる子が一千歌の肩を軽く叩いた。


「あ、いるよ。一千歌の彼女」

「なにしてるんだろ」


 反射的にさっと近くの木陰に身を隠して、クラスメイトの指さした先にいる灯里の様子を観察してみることにした。


「ほらほら、返してほしければとってみれば?」


 どうやら、灯里はいじわるな男子たちに持ちものを取られてしまったらしい。

 必死にそれを取り返そうとしている姿が、一千歌の目に映った。

 男子たちはなにやら小さなものを頭上にかかげて、彼女をあざ笑うようにふり回している。


「うわ、かわいそー」

「あれはさすがにちょっとひどいよね」


 隣にいた女子がこちらをみた。


「一千歌、行かなくていいの?」

「どうしてわたしにいうの?」

「だって……」

「わたしは気にならないし。悪いのはあかりちゃんのほうだし!!」


 つい、また大きな声が出てしまった。


「一千歌! 落ちついて!」


 一千歌の視線の先では、灯里がめずらしく感情をあらわにしていた。

 いじわるをする男子たちを追いかけて、ひょこひょこと不器用に手を伸ばしたり、小さくジャンプしたりしている。

 でも、無駄な抵抗だった。

 灯里の動きが、あまりにも遅すぎる。

 そういえば、と一千歌は思いだしていた。

 体育のなわとびの時間でも、灯里は3センチくらいしかジャンプできてなくて、毎回引っかかっていた。

 そんなだから、男子たちの手のなかにあるものには、いくら頑張ってもまるで届かない。

 それが面白いのか、彼らはますます調子づいていった。


 あかりちゃんがこんなに必死になるなんて、はじめてみたな。

 まあ、まったく気にならないけどね。

 あかりちゃんなんて、友だちじゃないし。

 勝手にすればいいし……。


「お願い……。かえして……」


 顔をあげた灯里の瞳は、涙でうるんでいた。

 そんなに大切なものなのだろうか。

 傍観ぼうかんしていた一千歌の心に、罪悪感がじんわりと広がっていく。


 ――さすがに、やりすぎだよね。しょうがない。止めてあげよう……。


 一千歌が一歩ふみ出したその瞬間、乗用車が道路の角を曲がってやってきた。

 クラクションが軽く響いて、遊んでいた子どもたちがあわてて道をあける。

 車はなにごともなかったかのように、その場から走り去っていった。

 灯里の表情が、凍りついたのがわかった。


 そうだ。あかりちゃん、車がこわいんだった……。


 灯里はよろめき、胸のあたりをおさえながら、ふらふらと道の端のほうへ歩いていった。彼女の歩む先には、排水溝があった。


「う、うう……」灯里が目に涙を浮かべて、うめき声を漏らす。

「泣くぞ、泣くぞ!」


 男子たちは止まらない。

 うれしそうに灯里を指さして、からかい続ける。

 もしかしたら、彼らは灯里のことが、好きなのかもしれなかった。


 次の瞬間、灯里が足元をふらつかせ、排水溝のふちに膝をついた。


 そして。

 その場に響いたのは、生々しい嘔吐おうとの音だった。

 お昼に食べた給食が、胃液とまざって排水溝のなかへ次々に落ちていく。


 その場にいた男子たちも女子たちも固まった。

 一瞬の静寂がおとずれる。


「うわ、きったねえ……!」


 沈黙を破ったのは、嫌悪感をあらわにした男子の一言だった。

 一千歌の体が、勝手に動いた。


「こらーーっ!!」


 口から飛び出たのは、自分でも驚くくらい大きな声だった。

 一千歌はためらうことなく男子たちの間に飛び込むと、彼らの手から灯里が必死に取り戻そうとしていたものを奪い取った。

 そして、灯里のようすをみて呆然とする男子の無防備なみぞおちに、腰の入ったボディブローをお見舞いする。


「ふんっ!」

「ごふっ……!」


 固くにぎった拳がめり込む感触のあと、一千歌の手にはじんじんと熱が残った。

 いじわるをしていた男子は、腹をおさえてひざから崩れ落ちた。


「これって……」


 そんな男子の姿を横目に、手にしたものを見た瞬間、一千歌の胸に痛みが走った。

 それは、少し前に、一千歌が灯里にあげたハンカチだった。


「うそでしょ?」


 指先でハンカチを握りしめながら、信じられない思いで見つめる。


 あかりちゃん、こんなものを、そんなに大事にしてくれてたの……?


 なにをされてもこれまで何も反応しなかった灯里が、泣きそうになりながら必死で取り返そうとしていた姿が、頭のなかで鮮やかによみがえった。

 とたんに、灯里のことが愛おしくなる。


 視線を向けると、排水溝のそばでぐったりと壁にもたれる灯里の姿があった。

 その小さな肩は、小刻みに震えていた。


 どうして、もっと早く助けてあげなかったんだろう!

 意地を張らないで、もっとはやくわたしが出ていけば、こんなことにならなかったのに!


 一千歌は自分を責めながらハンカチをにぎりしめて、彼女のもとへ駆けよった。


「あかりちゃん! ……ごめんねっ!!」


 あっ、謝っちゃった!


「いいよ、別に……」


 一千歌が駆け寄ると、灯里は苦しそうに顔をあげてこちらをみた。


「ほ、ほんとは謝る気なんてなかったし。あかりちゃんが悪いんだし」

「へへ……」そして、力なく笑った。

「それより、あかりちゃん。大丈夫……?」

「大丈夫じゃない。死ぬ。たすけて……」

「今朝は『この世は、ただとおりすぎるだけ。なんの意味もない』みたいなこと言ってたくせに」

「そのことと、実際に苦しいのはまったく別の話だし……」

「なにそれ……」


 一千歌は呆れながらも、そっと灯里の手を握って、背中をさすってあげた。

 彼女の手は冷たくて、震えていた。


「いちかちゃんの手、あったかいね」


 灯里がぽつりとつぶやく。

 その声を聞いて、一千歌は自分のなかに、呆れるような、嬉しいような、不思議とあたたかい気持ちが生まれるのを感じた。


「……もう! あかりちゃんはわたしがいなきゃダメなんだから!」


 †


 灯里がよろめきながら足を引きずるのを見て、一千歌は彼女を支えながら歩くことにした。

 そうして彼女の家の玄関にたどり着くと、なかから慌てたようすでひとりの女性が出てきた。

 その女性は、少し暗めの色のカーディガンを肩に羽織っていた。

 短めにカットされた髪は黒く、顔にはほうれい線がわずかに浮かんでいる。

 落ち着いた立ちふるまいが、どことなく灯里と似ているように一千歌は感じた。


「あらまあ、大変。どうしたんだ、灯里」

「こんにちは……」一千歌が、ぐったりしている灯里をささえながら挨拶した。

「こんにちは」女性が挨拶をかえした。「この子の祖母です。あなたが、いちかちゃん?」

「はい。えっと……」一千歌は少し戸惑いながら頷いた。


 どうしてわたしの名前を知ってるんだろう?


 疑問が顔に出てしまっていたのか、灯里の祖母はにっこりと笑った。


「灯里がね、毎日あなたのことを話してくれるんですよ。この子、なにかあったんですか?」

「さっき、車にクラクションを鳴らされて。そうしたらこうなっちゃって……」


 その瞬間、祖母の表情がくもった。

 そっと一千歌に近づき、耳元でささやく。


「この子ね、車の事故で、お父さんを失くしたの。そのときのショックで、しばらく口もきけなくなってねえ」

「そんな話、知りませんでした……」

「灯里は、我慢する子ですから」祖母は少しはなれると、小さくため息をついて続けた。「でも、いちかちゃんのような立派なお友だちがいれば安心ですよ。どうか、この子と仲良くしてあげてください……」


 そういって、祖母は深々と頭を下げた。

 子ども相手に、こんなに丁寧に頭を下げるなんて。

 なんだかその姿がやけに痛ましくみえて、一千歌はなんだかいたたまれない気持ちになる。

 思っていた以上に、灯里の家庭には重い事情があるのかもしれなかった。


 灯里がなにかあきらめたような態度を見せるのは、悲しい事故でお父さんを失ったから。

 そう思うと、一千歌は心が砕かれるような思いになった。


 じゃあ、わたしは?


 ずっと入院していたけれど、それはあくまで自分だけの問題だ。

 両親も周りの大人たちも、みんながわたしのことを支えてくれて、勇気づけてくれた。

 だから寂しくなんかなかったし、つらくても希望を持って、前向きになれた。


 でも、もし……。

 もし、お父さんやお母さんが死んじゃったら?

 あかりちゃんは、悲しい現実にひとりで耐えてきたらしい。

 わたしだったら、耐えられる?


「あかりちゃん。ちょっとまってて!」


 一千歌はそう言い残し、一度自分の家に帰った。

 そして、ダッシュで戻ってきて、ふたたび灯里の家をたずねた。

 玄関先で迎えてくれた灯里は、少しだけ顔色がよくなっていた。


「ねえ、これ」


 一千歌は自宅から持ってきたクマのぬいぐるみを取り出した。

 幼い頃から、ずっと大切にしてきた宝物だった。


「これ、私が小さい頃から、ずっと一緒にいたクマちゃん。夜、こわかったらこれを抱いて寝るといいよ。安心できるよ」


 灯里は一千歌の手のなかのぬいぐるみをじっと見つめた。


「……本当に、もらってもいいの?」


 上目づかいで、灯里がいう。


「貸すだけ。それ、わたしが5歳のお誕生日のときにもらったやつなの」

「え……」

「わたし、ちっちゃい頃病気で、ずっと入院してたんだ。幼稚園にも行けなかったし……。でも、毎日その子と一緒に寝てたから、全然さびしくなかったんだよ!」


 一千歌はそう言ってにっこり笑った。

 しかし、灯里は戸惑ったようすで、小さく首をふった。


「い、いらない……」

「どうして!?」一千歌はショックを受けながらいった。

「ちょ、ちょっと重い……」

「遠慮しないで。あかりちゃんに持っててほしいの!」

「そんな大事なもの、も、もらえないよ……」

「貸すだけだってば! 貸すだけ! 遠慮しないで!」


 一千歌は笑顔を浮かべて、強引にぬいぐるみを灯里に押しつけた。

 手放すのは少し惜しかったけれど、灯里の寂しさが少しでも楽になるなら、それでよかった。

 それに、灯里の家にくれば、いつでもまたぬいぐるみに会える。

 灯里は困惑した表情を浮かべながらも、おずおずといったようすで手を伸ばし、ぬいぐるみを受け取った。

 灯里の家の角部屋の窓の、カーテンの隙間から、白髪の女性が笑顔を覗かせていた。


 †


 一千歌が帰ったあと、灯里は祖母と一緒に母のいる一階の角部屋をおとずれていた。

 祖母は、母のために軽く掃除をしている。

 母は、父が亡くなったことにすら気づいていないのかもしれなかった。

 その瞳は虚ろで、いつもどこか遠くを見つめている。

 まるで、現実の世界を拒絶して、夢の世界で生きているみたいに。


「まったく、いい身分だねえ。自分の娘が、苦しんでるってのに」


 祖母が、車椅子に座って虚空を眺める灯里の母に、悪態をついた。


「お婆ちゃん。お母さんのことを悪くいわないで……」

「灯里はほんとうにやさしい子だねえ」


 祖母はそういうと、さびしそうに笑った。

 母は、なにも言わず、穏やかな笑顔でどこでもない場所をみつめていた。

 この会話も、聞こえているのかいないのか、それさえわからない。

 事故にあったあの日から、母は神さまの大きな手のひらのなかに、抱かれたままだ。


 その事故で、父が命を失って、母が心を失ったあと、灯里は星咲町の祖母の家に引きとられた。

 灯里はそこで、祖母の日常を目にしてきた。


 玄関から続く廊下の左手の座敷には、大きな祭壇がある。

 毎朝、祖母は顔を洗って身なりを整えると、ガスコンロのそばと祭壇の前にある香炉、それらすべてに三本ずつ線香をあげる。

 その後、祝詞のりとを唱える祖母の声が響きわたり、立ちのぼる線香の香りが部屋の外にまでただよう。

 祭壇の前の三つの香炉には、意味があるという。

 ひとつは祖母自身のため、もうひとつは母のため、そして最後は灯里のため。


 外ではパートの仕事をしながら、祖母は家では代々続く拝み屋として、訪れる人たちの相談を受けていた。

 相談を聞き、線香をあげ、祝詞をあげ、神に捧げるための歌を歌った。

 頼まれれば、その人の家にいって仏壇の前でお経をあげることもあるとも言っていた。

 祖先は遠方からうつり住み、さまざまな土地を渡り歩きながら、土着の信仰を取り入れてきたのだという。

 神道がベースにあるはずなのに線香をあげるのは、神仏習合の名残か。


「お婆ちゃんは、霊能力者?」


 母の部屋の掃除を終えて、台所で夕食の準備をはじめた祖母に、灯里は聞いてみた。


「どうだろうね」


 祖母はとぼけているのかそうでないのか、曖昧な返事をする。


「私も、いつか、神さまにひどい目にあわされる?」

「どうしてそう思うんだい?」

「事故のまえ、お母さんが言ってた。未来が見えなくなったって」

「それは初耳だ」

「お母さん、怖がってた。みんなのために神さまの言葉を伝えなきゃいけないのに、お母さんが嫌がったから、神さまが怒ってるって」

「あのばか娘。そんなこと言っても、灯里を不安にさせるだけなのにねえ」

「教えて」灯里が祖母に詰めよった。「お父さんがいなくなって、お母さんがこうなっちゃったのは、神さまのせい?」


 祖母は、質問に答えずに別のことをいった。


「お婆ちゃんもね、灯里のお母さんと同じだよ。神さまの罰が怖かったから、今こうして拝み屋みたいなことをやっているのさ」

「そうなの?」

「ああ。神さまはある日、お婆ちゃんに、巫者ふしゃとして生きよと命じられた」

「巫者になるって、どういうこと?」

「人の過去も未来も視ることさ。この世もあの世も覗くことさ。そして、この目で視たこと、耳で聴いたことを、人に伝える。でも、神さまは勝手なもんだ。どんなに尽くしても、あるとき突然、プツンと繋がりを切られることがある。それなしでは生きられなくなったあとで、平気で見放されることもある……」


 祖母はそう言って、小さくため息をついた。


「灯里は神さまがこわいのかい?」

「……こわい」


 灯里は素直にうなずいた。


「身を守るすべを教えよう」


 祖母は灯里のほうを見ていった。


「この世に、怪異なんて存在しない――。そう信じるんだ。たとえ、どんなことがあっても。本当に悪いものなんてそうそういない。気にしなければ、勝手に離れていくもんさ。運命を、こわがることなんてないんだよ」

「でも、お母さんは神さまのせいで、今みたいになったんじゃないの?」


「因果関係は、ない」祖母は、きっぱりといった。「事故は偶然起きたことで、全部、お母さんの思い込みなのかもしれない」


「でも……!」灯里はさらに食いさがる。「お母さんは、神さまが見えるし、神さまの声も聞こえるっていってた……!」


「神さま、幽霊、魔物――。幽世の存在は、この世の大半の人には視えないものだ。そうであるなら、視えない状態が正常なのかもしれない。全部、あたしらの思い込みなのかもしれない。最近は少し、そう思いはじめるようになったんだよ」

「でも、お婆ちゃんにだって、視えるんでしょう……!?」

「灯里」


 祖母の声が低く響く。

 灯里の目をまっすぐに見据えながら、祖母はゆっくりと告げた。


「お婆ちゃんには、もうなにも視えないんよ……」


 肩を落としてそう語る祖母の言葉には、喪失の寂しさがにじんでいるようだった。

 けれどその言葉の奥に、なにか解放の安心感も混じっているのを、灯里は感じた気がした。


 この世に、怪異なんか存在しない――。


 身を守りたければ、お婆ちゃんは、そう信じなさいと言った。


 この世のものとはちがう、幽世の存在。

 こんなものを認めてしまったら。

 もし、言うことを聞かないせいで、人に罰を与える神さまなんてものが、本当にいるとしたら……。


 お母さんが、可哀想だ。


「……そうだ。お婆ちゃん」


 そのまま部屋をあとにしようとして、灯里は思い出したようにふりかえった。


「友だち、できた」

「そうかい。よかったねえ」


 祖母は顔にしわをよせて、笑顔を浮かべた。


「灯里はまだ子どもだ」


 祖母は、灯里に背を向けて、夕食の準備の続きをはじめた。

 包丁が、まな板を叩く音が聞こえた。


「幽世にとらわれすぎることはない。この世のことを、もっと知りなさい」

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