第20話 雨垂れ
「わたし、転校することになっちゃった」
一千歌は目の前に立つ灯里から、少しだけ目をそらしてそういった。
「転校、って……?」
傘を叩く夜の雨音の向こうで、灯里の声がひどくか細く聞こえる。
青ざめた表情をしながら、じっとこちらを見つめるその姿は、なんだかやけに小さくみえた。
小学生だった頃、はじめて出会ったときの弱々しかった彼女の姿を思い出す。
一千歌は耐えられず、思わず目をふせた。
「……ずいぶん、急だね」
灯里の、絞り出すような、どこか非難するような言葉は、雨に押し流されるように夜のなかに消えていく。
その瞳に宿るゆれる光が、一千歌の胸をしめつけた。
予想していた反応だ。
「うん……。お父さんの仕事の都合で。実は、ずっと前から決まってたんだけど、なかなか言い出せなくて……」
「いつ?」灯里がたずねた。
「二か月後。ちょうど、夏祭りの時期だね」
「一千歌の、誕生日の時期でもあるね」
「……そうだね」
十五歳の誕生日。
ふたたび、目の前の彼女から目を逸らして、意識を逃がすように夜の雨を見つめた。
動揺を必死で隠そうと、一千歌はなんでもないふりをする。
胸の奥がきゅっと縮むような痛みを覚えながら、次の言葉を選ぼうとしたが、しかし、適当な言葉が頭に浮かばない。
「ずっと、言わなきゃいけないって思ってたんだよ。でもね、なかなか、いえなくて」
「…………」
「怒ってる?」一千歌がおそるおそるたずねた。
「別に……」
「黙っててごめんね」
灯里はこっくりと頷き、小さくため息をついてみせた。
先ほどまで動揺にゆれていた灯里の視線が、今度は一千歌の瞳をまっすぐ射抜くように突き刺さる。
その目に浮かぶのは、怒りや、恐れではないだろう。
もっと別の感情だ。
「仕方のないことだから。一千歌のせいじゃないし……。それに、よく考えたら、まったく会えなくなるわけじゃないよね。どこに引っ越すの?」
「……北海道だよ」一千歌は、あらかじめ考えていたことをいった。
「……そう」
「ちょっと、遠いよね」
「まあ。でも、スマホで連絡もできるし。別に、会えなくなっても、友だちじゃなくなるわけじゃないし」
「……本当に、そうだよね。離れても、友だちだよね」 一千歌の声が、かすれる。「転校しても、毎日メッセージ送るよ」
一千歌は言い訳じみたその言葉を、心のなかで
ふたりの間を、雨音が支配した。
「……ねえ。一千歌」
灯里が、表情の読み取れない目でまっすぐこちらを見つめる。
思わずまた目をそらしそうになるけれど、誤魔化すように小さく笑顔をつくった。
「なにか、隠していることはない?」
まるですべてを見透かしているかのような黒く澄んだその瞳をみて、一瞬、表情が固まりかける。
「どうしてそう思うの?」
「……別に」
それ以上、灯里はなにも言わず、一千歌もその問いに答えることはないまま、ふたりはいつもそうするように手を繋いで夜道を歩いた。
灯里と肩を寄せ合いながら歩くと、ふと違和感が鼻をつく。
「なんか、別の女の匂いがするね」
一千歌がからかうようにそんなことを言うと、灯里はふっとひとつ鼻を鳴らした。
「……さっきまで凛と一緒だったから。それに、葉月とも」
「へえ……」一千歌は目をほそめた。
「なに?」
「別に」
「嫉妬してるわけじゃないよね。自分は、私を置いて遠くにいっちゃうくせに。それで、私のことなんかすぐに忘れちゃうんだ」
「……ねえ、灯里」
立ち止まって、灯里の目を見つめる。
今度は堂々と胸を張って。
「今度の休み、デートしようよ。いつもよりちょっとだけ、遠出するの。楽しそうじゃない?」
「いいよ、別に」
そこでようやっと、灯里の口元がゆるんだ。
はにかむようなかわいらしい彼女のほほえみをみて、一千歌はほっと息をつく。
一千歌の住むマンションの入口につくと、別れる瞬間、灯里は名残惜しそうに手を離した。
「じゃあ、また明日」
そういいながら、灯里は、薄く笑みを浮かべた。
一千歌は傘をさして歩く彼女の後ろ姿を、夜の闇のなかに見えなくなるまで見つめていた。
†
一千歌が自宅のマンションにつくと、段ボール箱がいくつか壁際に置かれていて、そのなかには不要品がまとめられていた。
少しずつ姿を変えていく住みなれた風景をぼんやりと眺めながら、この光景に少しだけ寂しさを感じる。
リビングでは、桃色のパジャマに身を包んだ母がダイニングテーブルに座っていた。
目の前の湯気の立つマグカップからは、ホットミルクの香りが漂っている。
「……びっくりした」そばを歩くと、ようやく母は一千歌の存在に気がついたようだった。「帰ってたの?」
「うん。ただいま」
その場で一千歌が返事をすると、彼女はすぐにこちらに興味を失ったように、ホットミルクに口をつけた。
父はリビングでテレビを見ていて、やはりこちらに興味を持っていないようだった。
段ボール箱には、一千歌が幼かった頃のアルバムが入っていた。
手にとってなにげなく開くと、一千歌はそのなかに灯里と一緒に写っているものを見つけた。
一枚抜いて、折り目がつかないようにそっとポケットへとしまい込む。
一千歌は彼らのようすを横目に、洗面所で軽く手を洗って、自室にもどった。
そして、クローゼットの中にしまってあったものを指でそっと撫でて、取りだす。
純白の生地が、暗闇の中でぼんやりと発光していた。
お年玉やお小遣いをためて購入した、麻の反物。
それを、幼い頃入院していた病院の窓からも見ることのできた、星咲町を流れる大きな川の水で清めたものを素材にして、一千歌が製作したものだった。
数ヶ月前から手がけていた、
さらにこれは、
神さまに『神の世界にいくために完成させる必要がある』と告げられてから、一千歌は休日や夜の限られた時間を使って、ひっそりと、少しずつ針を進めてきた。
もうかなりの部分が仕上がっている。
ミシンでできる作業はできる限りそれにまかせたけれど、どうしても手縫いが必要になる箇所もあった。
一千歌にとって衣服を一着つくるのは初めてのこと。それどころか裁縫にも慣れていなかった。
そのせいで、日を追うごとにどんどん左手の絆創膏が増えていく。
それでも図書館やインターネットの情報などを駆使して、どうしてもわからないところは家庭科の先生に教わったりしながら、試行錯誤の末ようやく完成間近のところまできたのだ。
一千歌は、部屋の明かりをつけると、そっと生地のはしに絆創膏だらけの左手の指を添えて、針をとおした。
針が生地をくぐり抜ける瞬間、かすかな音が心地よく響く。糸が布地をすべる摩擦の感触が指先につたわった。
時間のあるときに、少しでも作業を進めておきたかった。
すでにしつけ糸で
立ちあがって窓をほんの少し開けると、湿った涼しい夜風がカーテンをゆらし、やさしく頬を撫でる。雨の匂いが入ってきた。
「ふう……」
軽く深呼吸して、ふたたび作業に戻る。
雨音と、針と糸が生地を通りすぎる音が、この空間をより静かにするようだ。
どれくらいそうしていただろうか。
馴染みのある気配を感じて顔をあげると、一千歌の視界の端に白く動く小さなものがちらっと見えた。
作業に集中するあまり、窓の外から忍び込んだ白い影に気づかなかったみたいだ。
「やあ。だいぶ仕上がってきたね」
一千歌の顔がぱっと明るくなる。
それは、慣れ親しんだ、自分にしかみえない、白蛇の神さまだった。
病院ではじめて出会って以来、神さまはこうして一千歌に会いに来てくれることがあった。
白くて長い体を滑らかに床を這うと、まっすぐ一千歌の方へ向かってきた。
真珠のように光り輝くきれいな鱗が、つやめいている。
首を少しあげてゆらゆらと一千歌を見あげると、今度は彼女のひざの近くにあたたかな体を触れさせた。
「邪魔しないでください。もう少しで完成なんですから」そういって一千歌は軽く頬をふくらませる。
「すごく綺麗にできてるよ」神さまはさらに顔を近づけていった。
「もう……。あっ、いたっ!」
針がわずかにぶれて、一千歌の左手の指を軽く刺してしまった。
血が小さな玉となって、徐々に浮き出てきた。
「ごめん。大丈夫?」神さまは一千歌の怪我をした指を、火のような舌でちろちろと舐めた。「どうしたの。今日は少し、震えているね」
その問いに、一千歌は無言でうつむくだけだった。
「もうすぐ十五歳の誕生日。きみのこの世での命の時間も、あと残りわずかだ。こちらに来るのが、こわくなった?」
「いえ……」一千歌は神さまのほうを見ずにいった。「あなたに会ったあの日から、とっくに覚悟できています。そうじゃなくて……」
白蛇の神さまは、赤くてまるい目で、一千歌のほうをじっと見つめた。
「嘘をついちゃったんです。大切な友だちに」
一千歌はうつむきながら続けた。
「灯里を、大切な友だちを、傷つけてしまいました。転校するっていったんです。それに、もしかしたら嘘だって気づかれたかも。勘の鋭い子だから……」
「ああ、一千歌」神さまは演技がかった口調でいった。「きみはなんて清らかなんだろうね。ちょっと嘘をついただけで、そんなに罪悪感を覚えるなんて」
一千歌は、なにも答えなかった。
無言で立ちあがると机のほうへ向かって、新しい絆創膏を取り出して左手の指にまく。
「これからお友だちだけじゃなくて、たくさんの人に嘘をつくことになるんだよ。本当にいいの?」
「はい。もう決めたことですから……」
「ぼくはきみの意志を尊重するよ。……ところで、その神衣、袖を通すことはできる?」
言われるがまま、一千歌は彼女の手がけていた完成間近の純白の小袿を、慎重に手にとった。
よくみると、不慣れなせいで少しよれてしまっている部分や、縫い目が曲がっている部分もある。
それでも自分の手でここまで形にできたことが、少しだけ誇らしくなる。
一千歌はすでに着ている衣服の上に、そっと片腕を通した。
柔らかな麻の生地の感触が、肌の露出した部分に触れて心地いい。
しっとりと肌に馴染むようだ。
慎重に肩にかけ、両袖を通し終えると、はにかむように少しだけ口元に笑みをのせて神さまのほうをみた。
「窓の前に立ってもらえる?」
そうして言われるとおりにして、不安になりながら一千歌は口にした。「どうでしょう。似合ってますか……?」
「……美しい」
「そんな。恥ずかしいです……」
一千歌は頬を朱に染めながら、長く垂れる袖を広げてみたり、ふんわりと風を含む布の動きを楽しむように、くるりと回転したり、裾の部分をゆらしてみたりした。
そうしていると、ふと部屋の隅に置かれた姿見が目が入り、思わず足が止まる。
ほのかに輝く光をまとった神衣に包まれて、肌の見える部分には、少しだけ蛇の白い
鏡に映るその姿は、神につかえる巫女、あるいは神と一体となり、神そのもののようでもあった。
一千歌は思わず息をのみ、自然と背筋が伸びるのを感じた。
「ああ、見惚れてしまうくらい素敵な
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