第3話 VR治療(1)
目が覚めると病院のベッドの上にいた。ということはやはり夢だったのか。それにしてもリアルだった。全身に美菜の肌の感触が残っている。甘くて爽やかな美菜の体臭も残っているし、なにより美菜の全体重を支えていた幸福感の中にいた。
頭にはフルフェイスのヘルメットのようなものがつけられ、無数の線が毛布の下に伸びている。毛布をめくるとその線は体中に装着されていた。また裸だった。一瞬「全裸好きねえ」と言った美菜の言葉が思い出され、笑いの発作に襲われかける。
気づけば、どこからかアラームが鳴っている。そのアラームに呼ばれたのか、パタパタと慌てたように看護師が入ってきた。名前を呼ばれたので返事すると「大変」と言って、また走り去った。
何が大変なんだろうと考えていると、今度はドタバタと数人の足音がして三人の人物が入ってきた。その中の医師らしき男が「仁藤さん、目が覚めたのですね」と言うから「はい」と答えた。
山崎という40歳前後のその若い医師によれば、私は二か月近く意識がなかったらしい。五階建てのアパートの屋上から飛び降り自殺を図ったという。足を骨折していたが、脳には異常はなく、にもかかわらず意識が戻らなかったというのだ。そこで最新のVRバーチャルリアリティーを応用した治療を施したのだそうだ。
「あなたは意識を失っているあいだ、夢を見ましたか」と、山崎が尋ねた。
「はい、非常にリアルでとても夢とは思えませんでした、非現実的なこともあったので、夢かもしれないとは思っていました」
「それがVRの特徴です。あり得ないことが現実に起きているかのように感じるのです。これから少し失礼なことをお聞きします。答えたくなければお断りされても構いませんが、これからの参考のためにできれば答えていただきたいと思っています。あなたは夢の中で性交渉をされましたか」
「……はい」少し躊躇したが正直に答える。
「ありがとうございます。恥ずかしがることはありません。生還された方の多くが性交渉を行っています。やはり性行為は人間の心と体に大きな影響を与えるものです。そのことで意識を取り戻すことが多いのです。もうひとつ、そのお相手はあなたの知っている方でしたか」
「はい」
「…ああ、そうでしたか」あれ、失望している雰囲気。
「え、まずかったですか」
「いえ、まずいことはありません。あなたはこうして無事に生還されたわけですから大成功です。ただ私どもの期待とは少し違っていたものですから」
そう言って山崎はVR治療について説明してくれた。
VR治療には二つの種類があるという。治療対象者がひとりのシングルVRとふたりのツインVR。VR治療が始まった三年前はすべてシングルだったが、その成功率は1%にも満たなかったという。そこで一年ほど前から二台のVRをインターネットで繋いだツインVRが開発され、大きな成果を上げていた。
シングルの場合、VRが見せる夢は普通の夢と基本的に同じである。ただリアルというだけである。それに対しツインの場合は、二人が同時に同じ夢を見ていて、その夢の中で会話しているのだという。
「ですから、シングルの場合、お相手は対象者の想いを寄せている人になることが多いのです。あなたはどうでしたか」
「はい、直接の知り合いではなく、テレビで憧れている人でしたが…」
「直接知っているかどうかは関係ありません。その存在を知っていればシングル、存在を全く知らなければツインVRの効果だと判定されます。あなたの場合、ツインに繋いでいましたが、効果としてはシングルVRのものだと思われます」
「でも、どうなんでしょう。シングルの場合、想い人と想いを遂げられるなら感動は大きいように思えるのですが、どうして生還率が低いのでしょう」
「そうですね。これは私の推測なのですが、シングルの場合のお相手は、あくまで対象者本人の頭の中で作り出しているものです。ですから、どんなに予想外の行動に見えても、無意識レベルを含めると、本人にとっては予定調和しているのです。非常にリアルですから、感動はあるでしょうが、驚きはないと思われます」
「なるほど」
「一方、ツインの場合、見知らぬ二人が出会い、興味・関心を話し合い、惹かれあって、恋愛感情に発展し、結ばれるという過程を辿ります。そこには予定調和はありません。場合によっては喧嘩して、そのあと一言も口をきかないケースもあるかもしれません」
「実際にそんなケースがあったのですか」
「それはわかりません。そのような場合は目覚めませんので、私どもには本人がどんな夢を見ていたのか分かりようがないのです。ただ、うまくいった場合の新鮮な驚きは格別なようで、皆さん興奮気味に夢の内容を教えてくれます。感動もシングルの場合より大きいかもしれません」
「そうなんですね。でも見知らぬ二人が惹かれあうなんてことが簡単に起こるものですか」
「そこなんです」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、声のトーンが上がった。
「そこは、相性です。私どもは適合率と呼んでいます。ご家族の了承の下、対象者の興味・関心を徹底的に調べます。好きな本、漫画、テレビ、映画、日記や手紙、果てはネットの検索データなど、ありとあらゆる個人情報を集めて、AI人工知能に読ませます。そうして適合率50%以上のとき初めて、ツインVRにかけます。闇雲にやる訳にはいきません。なにしろ一回あたり、VR管理会社に百数十万円の使用料を払う必要があります。保険適用はありません」
なるほど、だから失望したのか。せっかくデータを集めたのに無駄だったという。
「あなた方の適合率は82%という驚異的なものでした。これまでは高くても60%台でした。最高でも70%です。ですから今回はきっと成功すると期待していたのです」
「なんだか申し訳ないです。いろいろご苦労されたのに、無駄にしてしまって…」
「いえいえ、それは大丈夫です。一番大切なことは患者さんが意識を取り戻すことですから。ただひとつ気がかりなのはお相手のことです。あなたがシングルで帰ってきたということは、ツインの効果が出ていないということなので、おそらく意識は戻っていないと思います。しかしそれは断じてあなたの責任ではありません。ツインの場合でも片方だけが生還することはよくあることなんです」
「相手の方の意識が戻ったかどうかはわかるのですか」
「はい、それだけは管理会社が教えてくれます。逆に言うとそれ以外、名前や年齢、入院先などは絶対に教えてくれません。ツインで戻られた方はそれを知りたがります。実際に会って結婚したいというのです。気持ちはわかりますが、私どもも知らないので教えようがありません。もっとも夢の中で名前は教えあっているでしょうから、今の時代、ネットを駆使して会っている方もいらっしゃると思いますが」
「そうですね。その気持ち、よくわかります」
「それで、最後にお願いなのですが、あなたの夢の内容をできるだけ詳しく教えていただけないでしょうか。もちろんどうしても話したくない部分は省いてもらっても構わないのですが、性行為の部分は、極力詳しくお願いします。恥ずかしいとは思いますが、そこがこの治療の要だと思いますので」
「……わかりました」
戸惑いながら話し始めたのだが、話し始めて気づいた。自分が話したがっていることに。こんなこと誰にも話せないし、そもそも話す相手がいない。できるだけ詳しくと言われたことをいいことに、微に入り細に入り、会話もそのまま思い出せる限り正確に伝えた。
ただ、美菜の初体験、高校教師に強姦されたことは話せなかった。
「そうですか、石谷美菜さん。覚えています。私は小学生だったのですが、中学生の兄が大ファンでした。いなくなって兄がショックを受けていたのをよく覚えています。それから、最近のVRは、窓もドアもない部屋に裸で閉じ込められるという設定で始まるのがほとんどです。この設定の成功率が高いということを、VRに搭載されたAIが学習した結果です。性行為から始まれば、というか肌を許した相手には打ち解けやすいということでしょうか。しかもお互い裸だから本音で話しやすい。もともと相性がいい相手ですから、恋愛感情に結び付きやすい」
なるほど、と思った。しかし、相手が美菜ではなかったら、見知らぬだれかだったら、うまくいったのだろうか、全く自信がなかった。
「気になったのは…お相手が石谷さんと伺って、これはシングルで間違いないと思ったのですが、気になる点がいくつかあります。ひとつは最後の性行為の場面で、あなたが盛り上がって挿入しようとしたのを、石谷さんが抱きしめて阻止したところがありましたね」
「はい」セックスの場面を冷静に振り返られるのは、少し恥ずかしいかも。
「シングルは基本的には普通の夢と同じです。夢で今まさに挿入というときにブレーキをかけられるかということです。正確に言うと、石谷さんをしてブレーキをかけさせられるだろうか。シングルですから石谷さんもあなたが動かしているのですから」
「はあ、そうなんですか」よくわからない。
「もうひとつは、あなたが下宿のおばさんに襲われる場面」
だから、そんなに冷静に話さないで。
「そのあと、ふたりで大笑いする場面、そのときの会話がすごく自然でおもしろいのです。笑いが伝染して、私も笑いをこらえるのに苦労しました。まるで小説を読み聞かされているようでした。いや小説家でもこんな夢は見ないでしょう。これはツインではないかと思いました。だとすると、お相手は石谷美菜さんということになります。そんな偶然があるのでしょうか。いやもちろん可能性はゼロではない。が、しかし…、適合率82%……、あなたはリアルで石谷さんにお会いになったことがありますか」
「いえ、ありません。ミーナさんは私の存在さえ知らないはずです」
「そうですか。もともと知り合いであれば、適合率82%の謎も解けるかと思ったのですが……。今ここでいろいろ悩んでも仕方ありません。明日になれば、管理会社からお相手の方が目覚めたかどうかの報告があります。もし目覚めていれば、ツインが働き、お相手が石谷さんである可能性が高まります。あくまで可能性で本当のところはわかりません。お相手の個人情報は私どもには決して伝えられません。同様にあなたの個人情報、私どもが集めたデータ、さきほど伺ったあなたの夢が外部に漏れることは決してありません。そして、あなたも夢の内容を外部に話さないでいただきたいのです。これは退院のときに誓約書にサインしていただきます。この話が外部に漏れると、いくら治療のためとはいえ、病院が患者に性行為の夢を見させるのかといったいらぬ誤解を与えかねないからです。週刊誌の恰好のネタとなります。さらに下手をすると、VRが性風俗産業に利用されてしまうかもしれません」
「わかりました」
「長くなってしまいました。お疲れになったでしょう。ゆっくりお休みになってください。また、明日診察にまいります」
山崎が病室から出て行ったあと、遼平は非常な疲れを感じていた。
美菜との楽しかった時間が夢だという。それを論理的に説明され、遼平も納得した。残念だと思うが、それでも構わないと思った。あれほどリアルな夢なら現実とどう違うのか。実際に全身に美菜の肌の感触、温もりが残っている。美菜の香りも、甘さが少し薄れ、美菜のイメージそのものの柑橘系の香りが鼻に残っている。仰向けになって手を伸ばせば、至福の重みを全身で感じることができる。
「ミーナさん」と声に出し、その架空の重みを抱きしめる。
美菜とはもう会えない。意識を取り戻した以上は、VRを使うことはできない。悲しかったが、美菜との思い出があれば生きていける。そう思いながら遼平は眠りについた。
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