第2話

 婚約破棄された当日の夜。


ラファエロRaffaelloの『R』、あいつはこう書くんだ」


 私はかすかな明かりを頼りにして、手元に残された婚約破棄の証明書と、今までにアイツが渡してきた数十枚の十四行詩ソネットに記されている『R』の文字を確認していく。そして、


「うん、使える!」


 好機を見出した。彼の書く『R』の上部分は極めて小さく、対して右下の部分が大きく上に跳ねているのが分かったのだ。


 今までは気にも留めなかった字癖。

 だけど、今ではそれがあの男を追い落とす道具になりえると思うと、これまでに送られた十四行詩ソネットも無駄ではなかったように感じてくる。


「これを利用しない手はないわ!」


 最大の不幸から半日も経っていないのに、私の心は高ぶっていた。



 婚約破棄された翌日。


「お願いします」


 私は婚約破棄の証明書を、パドア司教に届け出た。


「これは……あなたも不運でしたねえ。同情しますよ」


 司教様は私を哀れんでくれたけれど、それ以上は何も言ってはくれなかった。けど、これは予想内。だって、パドアには領主の間諜がそこかしこにいるんだから。下手に彼を、もしくはその娘を非難すればたとえ神に仕える司教様でもどんな目に遭うか分かったもんじゃない。


 でも、同情してくれたのは嬉しかった。


 みんな、本当は領主一族に不満を持ってる。

 このパドアを、あの暴君の手から救いたいと考えてる。

 でも、できない。できないと思い込んでる。


 だけど、私は諦めない。

 あの女フィロメーナも憎いし、ラファエロが『愛』よりも『地位』を選んだのも許せないから。

 二人を追い落とし、さらに領主も失墜させる作戦を、私は実行している。

 絶対に失敗は許されない。

 やるなら大胆に、そして慎重に!


「言われた通りにしてくれたんだね」


 教会の入り口でラファエロが、あの女フィロメーナと肩を寄せ合い立っていた。どうやら、私が約束を守るかどうかを確認していたらしい。


「ほんとぉ。てっきり昨日の言いつけを守らずに書類をゴミ箱に捨てちゃうかと思ってたけどぉ、ちょっと予想外だったー」


「僕もだよ、フィロメーナ。でも、君よりは僕の方がルクレツィアを信じてたんだ。だって、僕の彼女の仲はかれこれ五年も、それも縁談が持ち上がる前から親交があったんだから」


「へぇ、そうだったんだぁ」


「ああ、だから僕はルクレツィアの性格は知り尽くしている。特に彼女が約束を必ず守るってこともね」


「ふぅん、そうなんだ。じゃあさ、あたしからも彼女に約束させていい?」


「いいんじゃない?」


 勝手に二人で話を進めて、私のことは置いてけぼり。

 そいでもって、ふとこの女フィロメーナは次の瞬間には私の両目に大きく映り込んできて、


「ねえ、あんた。いい? あたしの旦那の半径一m以内に近づいたら絶対に許さないから。もし破ったらパパに言いつけて、あんたを生首にしてやるわ! ねえ、約束してちょうだいよ。『ラファエロ様の半径一m以内には足を踏み入れません』って」


なんて言い出してきた。おお、こわい。


 本当は約束したくなかった。


 でも従わなきゃこの女フィロメーナの部下――正確には領主様にだけ忠実なゴロツキがやって来て、私を処刑場に連行するのは間違いない。


 そう、今も絶賛仕事中の死刑執行人のもとへ。


「ほら、早く約束しなさいよ。じゃないと、あんたを処刑ショーの見世物の一つにしちゃうわよぉ。いいの?」


 まったく悪趣味! 一体全体、この世のどこに死刑執行を教会の正門から見える位置にある中央広場カテドラルでやる領主がいるのよ?


「あら、あんた。今運ばれていった首に哀れみをおぼえてたの?」


「い、いえ。そんなことはありませんわ」


「だよねぇ。だって、あの女さ。市街であたしの悪口をこそこそと言い合ってたんだもん。死んで当然よ。ふん!」


 この女フィロメーナは全然悪びれる様子がない。けど、それも今のうちよ。


「フィロメーナ様。私、あなた様の言う通りにしますわ」


「本当? 良かった。じゃあ、あんたは一生涯ラファエロ様に近づかないことを誓うのね」


「ええ。ただ、一つだけお願いが」


「あら? 何かしら?」


 私は馬鹿を装いながら、この女フィロメーナを追い落とす道具を手に入れることにした。


「私、記憶力が悪いので、あなた様との約束を絶対に忘れないためにも誓約書を書いて、そこにしていただきたいんですの。どうか、この愚かで物覚えの悪い私のために一筆入れてくださいません?」

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