3-2

         2


 ひゅー、と笛のような音を立てて蛇口から水が流れる。

 屋外で太陽に晒され続けた水道管に溜まった水は熱く、手で触れれば火傷しそうなほどになっている。しばらくこのまま流し続けなければ、まともに使うことは難しいだろう。

 七尾はそう思いながら、手洗い場の蛇口を次々と開けていく。

 限界まで開かれた蛇口から勢いよく飛び出た水が、飛沫を撒き散らしながら排水口へと消えていく。

「…………」

 スクール水着に身を包んだ七尾は、全身から水を滴らせながらそれを黙って見つめている。

 しばらくそうしていると、溜まっていた温水が徐々に排出され、適温になった水道水が流れ始めた。立ち込める熱気が薄れたことでそれを確認すると、七尾は先ほど開けた蛇口を捻って水を止める。そうして一つだけ出しっぱなしにしたままの蛇口を上向きにすると、勢いよく頭から水を被った。

 七尾は頭と体を、がしゃがしゃと乱暴に擦る。そして一度水を止めると、備え付けの石鹸を泡立ててから、それを全身に塗り広げた。顔、首筋、耳の裏からうなじ、剥き出しの腕と足。スクール水着から露出している肌に真っ白な泡を滑らせる。そうして七尾は、全身に広がった泡を手で丹念に擦り合わせた。

 プールの後の七尾はいつもこうだ。

 特段潔癖なわけではない。プールを汚いと思っているわけでもない。

 ただ、日焼け止めが肌に残った感覚が苦手なのだ。

 本来であれば七尾は日焼けを気にするタイプではない。むしろ小麦色に焼けた肌には好感を持つ方だ。だが、昨今の太陽はそんな肌を焼くなどというレベルを通り越しており、直火で皮膚を爛れさせるほどの凶暴さを撒き散らしている。

 そんな異常気象を前に何の対策もなく素肌を晒すことは、流石の七尾にとっても自殺行為である。特に最近は、こういった日焼け対策は女子ばかりでなく、男子も率先して行っており、抵抗を続けていた七尾の方が少数派となっていた。

 結局、マキにいくつかの日焼け止め用品をピックアップしてもらい、それらを順番に試した結果、最も癖の少ない製品に落ち着いたのだが、それでも学生が普段使い出来る価格の日焼け止めに大した違いなどなく、この件は依然として七尾の頭を悩ませていた。


「……ちっ」


 泡に混じって溶け落ちる日焼け止めの香りに、思わず舌打ちが出る。

 太陽から肌を守ることの重要性は頭では理解しているつもりだが、あの肌が軋むような、あるいは突っ張るような薬剤特有の感覚はどうにも好きになれなかった。

 七尾は体を水で流すと、再び石鹸を泡立てて全身に擦りつける。それを何度か繰り返し、念入りに体を洗い流してから、頭を振って水を切る。

 そして次の授業までの残り時間を確認すると、塩素の香りが漂う更衣室へと向かっていった。


         *


 七尾が着替えを終えて教室に戻ると、妙な空気が広がっていた。

 妙に騒々しいと言うか、なにかが起きた後のようなざわざわとした雰囲気。

 男子も女子も小さなグループごとに集まって、ひそひそと何かを話している。彼らはそうして話をしながらも、時折ある一点を意識しているような素振りを見せていた。

「?」

 七尾はそれを追うように視線を巡らせて、教室中の意識の集まる先に目を向ける。

 それは都の席だった。だが、当の都はその場におらず、空っぽの席になっている。

 教室内の空気を把握しきれないまま、七尾は都の席へと近付く。すると、机の上に小さな汚れがついているのが見えた。

「……なんだ?」

 それは黒い点に見えた。指先くらいの大きさの黒点が、墨汁を垂らしたように都の机を丸く汚している。指で触れてみると、粘ついたタールのような感触が伝わってきた。

 墨汁やなにかのインクをぶちまけたと言うわけではなさそうだ。それに周囲の空気もなんだかそんな感じではない。

 黒い胆汁のようなそれを指先で弄びながら、七尾は周囲を見回す。手っ取り早くマキに話を聞こうと思ったのだ。しかし、先に着替えを終えて戻ったはずのマキも教室にはいなかった。

「おい、ジョー」

 七尾は仕方なく、近くにいた男子を呼び止めた。

 このジョーと呼ばれた男子は、譲島丈じょうじまたけると言って、七尾の幼馴染みであり本影塾の門下生でもある。元々はジョーの親が本影塾の門下生だったこともあり、二人は小学校に上がる前からの顔見知りではあったが、何の因果か毎年同じクラスに割り当てられるので、お互いの関係は腐れ縁に近い。

「ミヤ知らない? あとマキも」

「ああ、あいつらなら……」

 ジョーはそこまで言ってから、思い出したように含みのある笑みを浮かべた。

「……なんだよ」

 七尾がそう聞くと、待ってましたと言わんばかりにジョーが答えた。

「おいおい、七尾。俺は譲らない男、譲島だぜ。この俺が女に質問されてそう簡単に答えると思ってるのか?」

 そう言ってジョーはキザったらしく前髪をかきあげた。

 近頃のジョーは何かにつけてこんな感じだ。特に七尾に対してはやたらと突っかかってくるきらいがある。こいつが何に影響されてこんな態度を取り始めたのかは知らないが、正直言ってかなり鬱陶しい。

 七尾はポリポリと頭を掻きながら、大きくため息を吐いた。

「わかったわかった、違うやつに聞くからもういいよ」

「えっ……」

 その言葉にジョーは露骨に動揺を見せた。

「いや、でもお前知りたいんだろ? 溜井戸と境井のこと……」

「もういいって、お前に聞いた私が馬鹿だった」

 そのまま立ち去ろうとする七尾を、ジョーは必死に引き留める。

「ごめんって! 言うから! 俺が悪かったから!」

「うるせーよ、最初から素直にそう言えタコ」

 脚に縋りつくジョーを引き剥がしながら、七尾は都の席にどっかりと腰掛けた。

 ジョーは涙目になりながら、ぽつぽつと顛末を話し始めた。


         *


 それはプールの授業が終わった後。

 体調不良を理由にプールを見学していた都が、ひとり教室に戻って次の授業の準備をしていた時のことだった。


「溜井戸~、お前学校に来たんならまずやることがあるだろ」


 担任の栢森かやもりはそう言いながら、にやついた顔を教室に覗かせた。

「…………なんですか」

 都は机に教科書を広げる手を止めて、視線を伏せたまま億劫に顔を上げた。

「なんですかじゃないだろ、なんですかじゃ」

 栢森はねちっこい声色で都に近付く。一歩一歩進むたびに、ポロシャツに収まり切っていない中年腹が醜く揺れた。

「まずは先生に挨拶だろ。挨、拶。礼儀がなってないぞ」

 そう言って都の机に手をついて体重をかける。ぎしっ、と机のパイプが軋む音がした。

「はあ、こんにちは」

「ちゃんと先生の目を見て言いなさい」

「…………………こんにちは」

 渋々視線を上げて挨拶をする。たっぷりと顎肉を蓄えた栢森の顔が、満足そうに歪んでいた。


 この栢森という中年教師は、肥え太った見た目と意地の悪い性格から、生徒からの評判はすこぶる悪い。特に一部の生徒に対して非常に支配的な振る舞いを見せることで有名で、揚げ足を取る発言や、誰も気にしないようなことをネチネチと責め立てる人物だ。

 そのどれもが人目のつきにくい場所や、比較的目立たない方法で行われているため、声を上げたところでどうとでも言い訳できてしまうようなグレーな状態になっていた。

 過去にその悪行が表沙汰になったこともあったらしいのだが、結局大した問題にはならず、形だけの謹慎の後に栢森は学校に戻ってきたそうだ。

 聞くところによると、栢森の親がこの学校の創設に関わる人物だったとか、教育委員会の教育長だったとか、はたまた校長の弱みを握っているとか、噂は色々ある。

 重要なのは、栢森に睨まれるとロクなことがない、ということだ。

 そして都は早々に、この男に目をつけられた生徒の一人となっていた。

 きっかけは多分、栢森が生徒への嫌がらせ目的で作ったテストで満点を取ったことだろう。あの時から栢森は、なにかにつけて都に絡んでくるようになったのだった。


「お前さ、大人のこと舐めてるだろ」

 栢森が都を見下して言う。

「舐めてませんよ」

「いいや、舐めてるね。大人なんて馬鹿ばっかりだ、子供の自分の方がよっぽど賢いって思ってるんだろ」

 相手の言葉を否定するネチネチとした言葉が続く。

「そういう考えだから、尊敬すべき教師に挨拶のひとつも出来ないんだよ」

 都は反論しない。したところでこの男を喜ばすか、怒らせるだけだ。そんなことをしても時間の無駄だし、こんな言葉に一々反応していたらキリがない。それに、栢森の意見を完全に否定しきれない自分がいるのも、また事実だった。

「本ばっか読んでるからそうなるんだよ」

 口を閉ざす都に、栢森はなおも続ける。

「その目だって、どうせ本の読みすぎかなんかだろ」

「………………」

「大袈裟なんだよ」

 栢森は鼻息を立てて小さく俯いた頭を威圧する。

 教室にはちらほらと着替えを終えた生徒たちが戻ってきていたが、栢森に睨まれるのを嫌がって、都に関わろうとする者はいなかった。

「プールの授業もずっと出てないだろ」

「……お医者さんに止められていますから」

「言い訳にならん」

 生徒の正論は、担任の強権で切って捨てられた。

「次からはちゃんと出ろよ」

 そう言うと栢森は、机に預けていた体重を引いて教室から消えていった。机の上には白い手形がべっとりと残っていた。

「……………………」

 都は黙って俯いたまま動かなかった。

 栢森がいなくなった教室は若干の明るさを取り戻しつつあったが、都に声をかけようとする者はいない。俯き続ける都の存在は、栢森の残滓を放つ異物のようになっており、誰もがそれを蒸し返すまいと、都をこの場に無いものとして扱っていた。

 孤独。

 周囲をぽっかりと切り取る、溝のような孤独。

 机の下で手を握り締める都は、ただただ孤独だった。

 じわ、と目に熱いものが込み上げた。都は奥歯を噛み締めて感情を押し込める。負けるな、負けるな、負けるな、負けるな。念じるように、ただ一心にぼやけた机を睨み続けた。

「───ちゃん!? 都ちゃん!?」

「え?」

 顔を上げると、マキが目の前に立っていた。

 いつの間にか教室にはかなりの生徒たちが戻ってきていた。雑談の混じる教室は、栢森のことなど忘れてしまったかのような活気で賑わっていた。

 しかし、そんなざわざわとした雰囲気にありながら、マキの表情はひどく青ざめたものだった。

「都ちゃん……目…………」 

 マキは震える声でそう呟く。その意味が分からず、都はぽかんとマキを見つめた。


 ぽたり。


 小さな水音を立てて、机の上に何かが垂れた。

 見ると、黒い点が机を汚していた。

「?」

 インクのようなそれが何か確かめようと、都が手を伸ばそうとすると、今度は手の甲に、ぽたり、と同じ点が出来た。

 ぽた、ぽた、ぽた。

 黒い液体は次々と広がっていく。

 都はそれがどこから来ているのか気付き、咄嗟に右目に手を当てた。


 ───ぐじゅ。


 湿った音。

 同時に手のひらに伝わる粘ついた液体の感触。

 痛みはなかった。それどころか感覚すらなかった。

 指先には濡れた眼帯の感触。そっと摘まんで手に取って見る。

 白い眼帯が真っ黒に染まっていた。



「──────っ!」


 がたーん! と椅子をひっくり返して立ち上がった。

 その音に教室中の生徒たちがこちらを振り返る。そして、右目から黒い涙を流す都の異様な姿を見て、驚愕の声を上げた。

 ざわざわと遠巻きから寄せられる不安と好奇の視線。都は半ばパニックになりながら右目を抑える。そうして慌てふためいている内に、スマートフォンを構える者まで現れる。

「ちょっと!」

 マキは水泳用のナップサックからラップタオルを取り出すと、都の頭に被せた。

「都ちゃん、保健室行くよ」

 そう言うと、都の手を引いて小走りで教室から出ていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る