三章 濁り水
1
───原綿小学校前。原綿小学校前。バス、停まります。
簡潔なアナウンスと共にバスが停車する。
いつもであればここで降車する原綿小学校の生徒たちが、一斉に座席から立ち上がるのだが、今日のバスに生徒たちの姿はない。それもそのはず、今の時間はもう正午を回ったところで、登校時間は随分前に終わっている。
そんな昼下がりのバスの中で、都は一人立ち上がった。
乗客の少ない車内を移動して、降車口へと進む。こんな時間に登校する学生に疑問を抱いた乗客たちが横目で都を見ていたが、そんな視線も、都の目を塞ぐ大きな眼帯に理由を察して伏せられた。
都は運転手に定期券を見せて降車する。真上から降り注ぐ太陽と、その熱を吸ったアスファルトが、じりじりと都の白い肌を炙っていた。
背中で扉の閉まる音がして、バスはゆっくりと発車する。
学校は昼休み真っ只中といった様子で、グラウンドで遊ぶ子供たちの賑やかな声が校門まで届いていた。
………こんな猛暑でよくやるもんだ。
じっとりと汗ばみ始めた自分の体を不快に感じながら、都は校門を抜けて教室へと足を進めた。
*
「あっ、都ちゃん、おはよう!」
教室の扉を開けると、友達と話をしていたマキが手を振った。そのままマキは、人と机の間を抜けて都の下へとやってくる。
「もうおはようの時間じゃないですよ」
「それもそうだね~」
都の皮肉っぽい挨拶をマキは笑顔で返す。
「でも学校でこんにちはって言うのも、なんだかムズムズしない?」
確かに、学校で同級生に「こんにちは」なんて言う機会もない。そういう意味では「おはよう」の方が、ここでは自然な挨拶のような気がした。
都はランドセルから教科書を取り出して、無造作に机に突っ込む。
「よかったんですか? 抜けてきて」
ちらり、とマキが先ほどまで話をしていたグループを見ると、マキはなんでもなさそうに言った。
「大丈夫大丈夫、今もちょうど都ちゃんのこと話してたところだよ。ね、みんな」
マキに促された女の子たちが、口々に心配の声を上げる。都はそれに、ぎこちなく愛想笑いを返した。
正直こういう対応は得意じゃない。普段関わらない相手の優しさは都にとっては気まずさでしかない。色々と言葉を考えたが、結局いつもの愛想笑いで誤魔化す形になってしまった。
そんな内心を知らないマキは、眉を八の字に曲げて都に質問した。
「それで、目の方はどうだったの?」
都が午前の授業を休んだのは、目の検査で病院に行くためだった。マキの心配性に対して都はいつも通りの返事をする。
「ええ、大丈夫ですよ。相変わらず涙は出てきますが」
診断は異常なし。もっと大きな病院ならなにか分かるかもしれないが、今は紹介状を書いても予約がいっぱいで時間がかかるそうだ。他に目立った症状が出ているわけではないのだから、もうしばらく様子を見てみよう。というのが医師の判断だった。
同席していた祖父はその言葉を聞いてほっとした様子だった。
「お母さんなら、診てくれるんじゃないかなあ」
腕を組みながらマキは言う。
「だって紹介先の病院って、私のお母さんが働いてる病院でしょ? だったらお母さんに聞いてみれば、何か分かると思うんだけど」
確かにマキの母が市立病院で医師をしていると言うのは、何度か聞いていることではあるが、
「マキさんのお母さんって、外科医じゃありませんでしたっけ」
「うん」
「眼科も行けるんですか」
「え、どうなんだろう。ダメなのかな」
都は大きなため息を吐いた。どうやら診療科という概念を理解していないらしい。もしや医師は病院の仕事が全て出来るものだと考えているんじゃあるまいか。
自分の親の仕事くらい把握しておいてほしいと頭を抱える都だったが、ふと、あることに気が付いた。
「そう言えば、七尾さんは?」
教室を見回しても七尾の姿はどこにもなかった。もうすぐお昼休みも終わりの時間だと言うのに、一体何をしているのだろう。
「ああ、七尾ちゃんなら……」
そう言ってマキは窓の外に視線を向けた。一瞬その意図を測りかねた都だったが、次第にそれが意味するものを理解して、震えながら窓際へと駆け寄った。
「………まさか」
窓から校庭を見下ろすと、炎天下の中、男子に混じってサッカーをする七尾がいた。
「嘘でしょう……」
あまりの光景に思わず絶句した。
「すごいよね……」
信じられないといった表情のマキ。多分自分も同じ顔をしているのだろう。
「……この後もプールの授業あるんだよ」
「なんかもう、自分と同じ人間だと思えませんね」
マキと都は頬をひくつかせ、どちらともなく乾いた笑いを浮かべていた。
グラウンドでは、七尾が汗を弾けさせながら強烈なシュートを決めていた。
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