第37話 信と疑の爆炎(2)
さざ波が打ち寄せるサンラワット湖の岸辺。自分の住居でもある小屋付きの舟の上で、漁師の男が破れた網の修繕をしていた。
「あーあ、こいつは派手に破れちまったなあ。もうかなり古いから仕方ねえけどよ」
不意に、背中に何か細長い紐状のものが貼りついたのを感じてその漁師はビクッと肩を跳ね上げた。この湖の付近には毒蛇が多く生息している。噛まれたら一大事だと、すぐに自分の背に手をやって払いのけようとする男だったが、絡みついてきたのは蛇ではなく、水中から伸びている長い触手のような物体であった。
「うぁっ……!」
「ブーバルスゼノクの奴が不覚を取ったせいで神はお怒りだ。かくなる上はより派手に、この村の者どもを神の
ヴァトエル教徒の男が変身した海月の魔人・プルモーゼノクは両手から青白い稲妻を乱射し、水上村の舟と家とを次々と爆発させていった。邪神が好んでやまないとされる、凄惨な殺戮の儀式の始まりである。
「あの、どうしてもダメですか? フジザネさん」
ルワンたちが隠れている洞窟に水と食べ物の差し入れにやって来たニルットは、改めて弟子入りの件を藤真に頼み込んだ。
「僕、サムライに本気で憧れてるんです。フジザネさんみたいに強くなりたいんです」
目を輝かせて懇願するニルットの姿を見て、藤真はどこか寂しげな苦笑を漏らした。
「憧れ、でござるか……」
その言われ方にはどうしても違和感がある。この純真無垢な少年の心を傷つけてしまわないよう慎重に言葉を選びつつ、藤真はゆっくりと説くように言った。
「嬉しい言葉ではござるが、我らのような者に憧れるのはどうかと思ってしまい申すな」
「えっ……?」
主君を自ら斬って看取った、四年前のあの時の記憶が脳裏に蘇ってくる。母国のことを思い出しながら、藤真はどこか遠くを見つめて言った。
「そもそも歴史を紐解けば、サムライとは我が故郷の瑞那で起こった血で血を洗う激しい戦乱の中で生まれてきた戦士のことにござる。死を恐れず勇猛に戦い、忠義を貫き名誉を重んじ、主君のためとあらば命すらも惜しまずに進んで投げ打つ。我が国でそのような苛烈とも言える価値観が芽生え尊ばれてきたのは、それだけ死と隣り合わせの厳しく過酷で悲しい世界だったからに他ならぬ」
武士道を全力で体現しようと常に努め、サムライであることを誇りとしている藤真だが、もし戦のない平和な世の中ならば自分たちのような人間は必要ないし、壮絶なまでの覚悟を持った生き様が求められることもほとんどないのだろうとも同時に思う。泰平の世が続いてきたナピシムでそうした血生臭い気風が育まれず、むしろ平和ボケなどと言われて兵の弱体化が嘆かれているのは藤真から見れば羨ましいくらいの話なのだ。
「それゆえ、そなたたちのような他国の者に我らと同じになるよう教えたりするのは良きこととは思えぬのでござる。斯様な苦しい重荷を背負って痛みを味わいながら生きるのは、拙者たちだけで十分でござろう」
微笑みの国とも呼ばれるナピシムはここ数百年はずっと平和で、この国に暮らす人々の気質はとても温厚で穏やかである。それは素晴らしいことだし、そうした民族性が培われてきた歴史こそナピシム人たちは誇りに思うべきであって、自分たちのように野蛮な乱世に適応した戦いの哲学などを持てはやすようにはなってほしくないと藤真は願うのだった。
「拙者はそなたたちにサムライの真似などしてほしくはない。戦いは、我ら瑞那の傭兵にお任せあれ」
「フジザネさん……」
穏やかな口調の中に重い覚悟を込めて藤真が語ると、ニルットもただうつむいて押し黙るしかなかった。離れた場所で洞窟の岩壁に背中を預けて話を聞いていたラットリーの方へ、藤真はふと視線を向ける。
「何か仰せになりたいことがござるか? ラットリー殿」
「まあ何て言うか……さすがはフジザネね」
気心の知れた親友でもあるこの外国人傭兵の言葉に改めて感心して見せてから、ラットリーは私見を挟んだ。
「他国の傭兵としては実に立派な心意気だと思うけど、でも今度のゾフカールとのことに関してはまず第一に私たちナピシム人の戦いでもある。穏やかに微笑んでいられる静かで平和な時代は、もう否応無しに終わらせられてしまった感もあるわ」
その時、洞窟内に響くラットリーの凛とした声をかき消すように外で大きな爆発音がした。洞窟の入口から顔を出して見てみると、遠くの湖に浮かぶ水上村の家々が激しい炎に包まれている。
「大変だ。またヴァトエル教徒の奴らが攻めてきたんだ」
動揺して不安げにこちらを見てくるニルットに向けて頼もしく微笑んだ藤真は、先ほどから洞窟の奥に座ったままずっと黙って考え事をしていたルワンに近づいて声をかけた。
「殿下、恐れながら……」
片膝を突いて跪いた藤真は、そこであることをこの若い主君に訊ねたのである。
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