カメレオン

色街アゲハ

カメレオン

「何だって君はそんなモノを飼っているんだい?」


 問われた、まだ少女と呼んでも差し支えない彼女は、興味無さげに、しかしその目に少しばかりうんざりした色を表わしながら答えた。


「関係無いわ。あの子は私、なりたかったもう一人の私。だから一緒にいるの。仕方ないの。」


 其処には、ケージの中でじっと目を瞑り、身動きもせずにいる一匹の爬虫類。俗に言うカメレオンの姿があった。


 社交界。財界に名を連ねる人物や、今や形骸化してしまった様でいて、その実今に於いてもその権威を振るう元華族の末裔達、そう云った功を為し名を成した者達の集う場。其処に彗星の如く現れた彼女。現われるやいなや、忽ちの内にその場の人々の心を鷲掴みにして仕舞った。並み居る美女達を差し置いて。当然起こる筈の嫉妬と妬みの感情は、不思議と起こらなかった。そうしてしかるべき彼女達の心に、代りに湧き起こったのは、不可解と云う感情。他の者達に比して、特に美しさに於いて秀でている訳ではない。仕草や会話に於いても特に目立った処の無い、言ってみれば普通の、そこら辺に十羽一絡げの如く転がっている、何処にでもいる小娘の筈なのに。どうして? 何故こんな事が起こり得る? 目の前で起きている事が余りにも現実離れしていて、理解出来ない。ポカンと口を開けたまま、得体の知れない物に恐れの感情すら抱いて、ただ眺めている事しか出来なかった。


 彼女の出自に於いても、別段注目すべき処は無かった。早くに両親を亡くし、孤児院でその青春の大部分を過ごした、と云った位。確かに一般的な境遇とは言い難い、しかしそれでも世間には良く転がっている類の話である。ここからどのような経緯を経てかのような人物像が出来上がったのか、人々は想像する事が出来ず困惑するばかりであった。


「そう、そんな考え方も有るのね。」


「そう、それは知らなかったわ。」


 そんな何気無い相槌。しかし、彼女がそう口にした途端、聞いている側は、何故か分からない内に心がグイと惹き寄せられている事に気付くのであった。ああ、この目の前の、この娘は、誰よりも自分の事を理解している。そんな確信が彼らを襲い、気付いた時には抗い様も無くかの少女に魅了されていた。


 どんな人物、どんな話題であっても、始めからその世界に馴染んでいたかの様に振る舞い、如何様にも自身の色を変える。確かに、彼女の飼う四足の爬虫類、カメレオンを彷彿とさせる、まるで自分自身の色など持っていないかの様な馴染み方。それ故に人々は却って彼女の内面を推し量る事が出来ず、其れが却って彼女の謎めいた雰囲気を強め、増々この何の変哲も無い筈の少女に惹き付けられて行く自身を意識せざるを得なかった。


 当の本人である彼女は、そんな周りの反応に関して、特に思う所は無かった。もしかしたら、始めの内は有ったのかも知れない。両親の経営する小さな会社。まだ幼い彼女にとって、それは自分を包み込み護る、世界その物と云った意味合いを持っていた、他に代えの無い特別な場所。


 何の疑いも無く、それが永遠に続く物と信じていた。しかしそれは一夜にして消えた。日に日に瘦せ衰え、弱って行く両親の姿を、何も出来ずにただ見ているだけなのは辛かった。そのまま両親は亡くなり、自分の無力感に苛まれる暇もなく、幼い少女は、剥き出しの獣が牙を剥き出し、大きく口を開けている世界に放り出される事になった。幸いにも、孤児院に引き取られ、その身柄は一先ずの安全を得た訳だが、後になって、両親の会社が無くなった理由を知る事となった。市場原理? 経済競争? その意味する所の半分も理解できなかったが、例えばお金をたくさん持っている人、何だか分からないけど、人よりも偉い人、そんな人達が寄ってたかって両親を貶めたと云う事だけは理解できた。

 そうか、と、少女は其処で初めて腑に落ちた気がした。お金、地位、それを持っている人達は平気なんだ。平気で両親の様な人達を踏みにじって、それでいて、その事を誰も咎めない。だって、それは仕方のない事だから。それが当然と許されているから! どうしたら良い? どうしたら彼等に一泡吹かせられるとまでは行かなくても、何かしら一矢報いる事が出来る? 自分の恨み言一つでも届かせる事が出来る?


 まんじりともせず幾夜を過ごし、しかし己の無力さに圧し潰されそうになり、考える事にさえ疲れ果て、幸せだった頃の夢の中に逃げ込んだその先で、少女は嘗て両親と訪れた動物園の風景を見い出していた。其処には、熱帯の植物の繁茂する檻の中、枝の上、石の上、その場その場で様々に色を変えながら周りに溶け込んでいる蜥蜴の様な生き物の姿があった。


「ほうら、見てごらん。ああやって周りに溶け込んで自分の姿を見えなくしているんだ。」


 説明されて漸くそれらが同じ種類の生き物である事を知った。てっきり別々の生き物とばかり思っていたのだ。”カメレオン”その名前を知ったのはそれが初めての事だった。


 自分もそうしよう。何処に居ても周りに紛れ込んで、其処に居ても誰も疑わない、そんな生き物になってしまおう。私はカメレオン。無力なだけの少女は今日でおしまい。これからは何処にだって入り込んで、えらい人達の中に居ても怪しまれない様”ぎたい”して、そうして近付いた後に、不意に目の前の人の服を掴んで暗い暗い穴の中へと引き摺り込むんだ。両親の落ちて行った処と同じ、深い深い底の無い穴の中へと。


「ねえ、聞いているのかい、君。」


 声を掛けられ、過去の記憶から現実に呼び戻された少女は、うっすらと目を開ける。懐かしい記憶と想い。しかし、其れ等は今となっては何だかとても遠い、まるで誰か、別の誰かの物の様に余所余所しく思えるのだった。一体、どうしてあんなにも思い詰めていたのだろうか、自分でも不思議に感じる位に。

 もしかしたら、今の自分はもう当時の自分とは違う誰かになってしまったのかも知れない。クルリクルリと目まぐるしく自身の色を変え、何時しかそれが自身の生態とまでなってしまった彼女にとって、自分自身の色と云う物にさして拘りを持たなくなってしまったのだろう。そんな気がする。何時から? 今日の私、昨日の私、明日の私はまた違う私。そんな風に過ごして来て、何時しか大切だった筈の自分を忘れてしまった? いいや、きっと違う。それはきっと始めから、あの日、それまでの自分を止めて違う生き物になると、そう決めたあの時から、きっと自分は、もうあの頃の自分とは違う、何か別の生き物になっていたのだ。


「ごめんね、私はもう貴女の想いを継ぐ事が出来ないみたい。」


 そう彼女は過去の幼くも復讐を誓った自分自身に向けて呟くのだった。その言葉が果たして、伝わるのかどうかは分からないけども。


「聞いているのかい君は? 何時だってそうだ、君は僕の云う事なんて何一つ聞いちゃいないんだ。」


 そこで漸く少女は声を掛ける人物に目を向ける。自分の住む所にまで直接乗り込んで来たこの図々しい青年は、それが彼女に魅せられた者達の間で交わされた不文律、決して彼女の私生活にまでは立ち入らないと云う暗黙の決まり事をあっさり破って、こうして頻りと彼女の気を引こうとやっきになって話し掛けているのであった。それは、若さ故の無鉄砲か、地位も財力も有る親の威光を自分の物と思い込んだが故の愚かさか、そんな極まりなどお構いなし、と云った態度でこうして幾度となく彼女の家を訪れては、長々と自分の相手をさせるのだった。


「聞いてはいるわ、ただ興味がないだけ。」


 皮肉な事にこの対応こそがこの青年の心の奥底で望んでいる返答だったのだ。決して自分の思い通りにならない、何時だって自分の望むがままに振る舞って来た彼の、刺激に飢え、常に結果を求めて止まない、若さ故の早急さが生んだ渇望だった。


「そうだね、君はそう言うだろうね、分かっていたさ、けどこれは予想できなかっただろう?」


 そう言って彼の青年はおもむろにポケットからナイフを取り出し、彼女に向けて見せた。


 その抜身の刃を見ても、不思議と少女の心に何の感慨も起きなかった。心の底まで誰かの色に染まり、演じる事それ自体が自身の本音と化した少女は、最早自身の生き死にすらもどうでも良い事になっていた? それとも……、自分でも気付かなかった、もしかしたらこれこそが彼女の望んでいた事だった?


「あら、そんな物を取り出して一体どうする御積り?」


 口元に微かに笑いすら浮かべて、ただ目の前に敷かれた脚本通りに振る舞う少女。それがどんな結果を生むか分かり切っている筈なのに、躊躇う事無く、予定された結末まで一度も足を止める事無くただひたすらに突き進んで行く。これまでと同じ様に。心一つ動かされる事無く。


「こんな事は望んじゃいなかった。けど仕方ないんだ。君が、君が悪いんだ。こんなにも僕の心を虜にしておいて、一時だって僕の事を見ようともしない、君が!」


 


 時が過ぎ、静寂を取り戻した部屋は、隅々まで血に染まり、恐らく何度も突き刺した結果か、行われた暴虐の後を色濃く残していた。


 項垂れて、膝を着いて荒く息を吐く青年の口から、うわ言の様に取り留めも無く言葉が洩れ零れる。


「違うんだ、そんな積りじゃなかったんだ。ただ、僕は、君に振り向いて欲しくて、ほんの一瞬でも僕の事を見てもらいたかっただけなんだ。」


 犯した自分の罪に怯えた彼は、縺れる足を必死に動かしながら、転げる様に部屋を出て行く。御曹司。権力者である親を持つ彼が公に罪に問われる事は無いだろう。しかし、その権力者達の共有物に手を出した彼が、その後表に出て来る事も又ないだろう。これが上流階級の秩序、自浄作用と云う物。決して表に出る事も無く、一部の者達の間のみで共有される、これはそんな出来事の一つとしてひっそりと秘密裏に処理されるのだろう。


 最早その瞳に光を写さない少女の顔は、しかし不思議と穏やかだった。その安らぎに満ちている様にさえ思われる表情は、かつて、遠い昔に浮かべていた年相応のあどけない、心からの笑顔である様に思われたのだった。


 自身の流した血に沈み、さながらインクの様に鮮やかな真紅に染まる彼女の上に、一体何時からケージから出ていたのか、一匹のカメレオンが這い登り、其処に落ち着くと、さも満足気と云った様子でじっと目を閉じた。


 見る間にその身体は、周囲の色に染まって行く。さながらインクを零した後の様な、赤い赤い、それはそれは鮮やかな、眩暈すら起こしそうな位に眩い鮮烈な色。


 それは、既に人としての生き方を止めてしまった少女の、最後に残された人としての矜持、その場から動かず、目を閉じたまま満ち足りた様子すら覚える、一匹のカメレオンの姿。それこそが彼女の最後に望んだ姿だったのかも知れない。





                             終

 

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カメレオン 色街アゲハ @iromatiageha

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