最終話 砂塵の彼方にあった栄光

 俺、深雪、名古屋の両親、深雪の両親の六人は遠い異国の地に降り立った。

 アラブ首長国連邦のドバイ。ペルシャ湾沿岸の一大経済都市である。ここが砂漠の一角だとはとても思えない近未来な景色が広がっている。

 恐らく生産者の今井さん、そしてビヴロストを紹介してくれた神楽もこの地に来ているはずである。


 結城調教師と厩務員の佐倉さんたちはとっくに現地入りしており、調整に余念がない。

 ビヴロストは極めて順調だと結城先生からメールが入っている。どんな環境にもすぐに順応できるタフさと賢さがこの馬の最大の武器かもしれないと結城先生のメールには書かれていた。



 スターライラの吾妻オーナーお薦めのホテルを取って宿泊したのだが、アウヤンテプイの成田オーナー、オリュンポスの神野オーナー、クプアの鈴鹿オーナー、全員同じホテルだった。そういう事であれば、関係者を集めて壮行会をしようという事になり、イベントホールを借り切って立食パーティーが開催される事になった。


 祝賀会の中で生産者の今井さんに久々に会う事になった。

 だが神楽がいない。神楽はビヴロストの種付けの件で馬産地ではすっかり有名人になってしまい、最近では毎日のようにあっちの小牧場、こっちの小牧場と招かれて種付けの相談を受けているのだそうだ。トウモロコシ一本から相談に乗ってくれるという事で大人気なのだとか。


「えりも岬で飛び降り自殺しようとしてたところを何とか引き留めたのが縁だったんだけどね。あの馬のおかげで、仕事も軌道に乗ったようでほっとしているよ」


 今井さんは衝撃的な事をしれっと口にした。

 神楽が自殺?


「あ、言ったらマズかったかな? 彼女には内緒にしておいてくれよ。彼女ね、アメリカの牧場を追い出されて仕方なく日本に戻ってきたらしいんだよ」


 本人なりに真面目に働いてはいたらしい。実際、他の牧童からも真面目だ、研究熱心だと褒められていたと本人は言っている。だがある時、南米系移民の牧童が牧場にやってくると、突然神楽は解雇されてしまったらしい。

 どうやらその牧童に嘘を撒き散らされて中傷されたらしい。その後別の牧場で働こうとしたのだが、どこの牧場も雇っては貰えなかったのだそうだ。


 失意の中、日本に帰ってきて、海外牧場での経験を活かしてエージェントの仕事をしようとしたのだが、三年活動して実績はゼロ。

貯金もどんどん減って行き、ふらふらとえりも岬に足を運んでしまったのだとか。


「君の馬でもあるんだから、雄姿を見に来たら良いって誘ったんだけどね。大隅牧場さんとは一月も前からの約束だからって。ああ見えて真面目で律儀な娘だからね」


 その後もいくつかの話を今井さんから聞いたのだが、ビヴロストの話を持ち込んで来た時の神楽の身の上話は、その半分ほどが嘘だった。改めて知った事実に何とも言えない気分になってしまった。



◇◇◇



 いよいよドバイワールドカップミーティング当日を迎えた。


 ここまで日本勢は各レースにGI馬を出走させてきた。

 ゴドルフィンマイルにマイルチャンピオンシップの勝ち馬が出走するも惨敗。

 ドバイゴールドカップに昨年の春の天皇賞馬が出走したが三着と惜敗。

 UAEダービーに昨年の全日本2歳優駿の一、二着馬が出走し見事勝利。

 続くアルクォズスプリントにスプリンターズステークス勝ち馬が出走するも惨敗。


 日本で中継の始まるドバイゴールデンシャヒーンにはJBCスプリントの一、二着馬が出走したのだが残念ながら結果は散々。

 ドバイターフは中央競馬のGI馬三頭が出走するという豪華な顔ぶれだったが、ジャパンカップを勝った牝馬の二着が最先着だった。

 ドバイシーマクラシックにも有馬記念勝ち馬を含む中央競馬のGI馬四頭が出走していた。だが、これも昨年のダービー馬の三着が最先着という状況であった。


 ここまで日本馬はわずかUAEダービーの一勝のみというかなり渋い成績で最終のドバイワールドカップを迎えたのである。はっきり言って陣営の空気は重かった。



 昨年、UAEダービーを勝利したアメリカのドクターアニマル。この馬はその後帰国してアメリカのクラシック三冠に挑戦している。ベルモントステークスこそ二着に敗れたものの、堂々の二冠を制し、その後ブリーダーズカップクラシックにも勝利。今回も圧倒的一番人気に支持されている。

 ドバイはイスラム教の国でギャンブルはご法度であり、オッズは日本だけのオッズである。その日本でのオッズがそれなのである。


 二番人気はマクトゥームチャレンジを勝利した地元のバイドゥハーン。

 前走サウジカップに勝利したアウヤンテプイが三番人気。

 サウジカップ二着のアメリカ馬ユーサーパーが四番人気。


 サウジカップ三着のオリュンポスが五番人気となっている。

 東京大賞典からの直行組ではクプアは六番人気、スターライラが九番人気。

 ビヴロストに至っては十四番人気と非常に厳しい評価が下されてる。



◇◇◇



 ビヴロストに久々に乗る桃ノ木は非常に緊張していた。

 自身も初めての海外での騎乗で、勝手が全然わからない。正直安請け合いだったかもと、少し後悔していた。

 海外経験豊富なオリュンポスの多賀騎手が色々と教えてくれているのだが、どうにも頭に入ってこない。逆に中央のレジェンド騎手である多賀騎手に話しかけられて緊張が増してしまっている。


 結局、その緊張はパドックに来るまで解消はしなかった。

 本番が近づいていると感じ変に意識してしまい、緊張感から徐々に視界が狭くなり、目の前が真っ白になっていく。


 その時だった。

 目の前をビヴロストが通った。


 ビヴロストはわざわざ桃ノ木の方に顔を向け、嬉しそうに嘶いた。

 その懐かしい嘶きに桃ノ木は思わず顔が綻んだ。そこから急速に落ち着きを取り戻し、肩に入っていた変な力がすっと抜けた。


 ビヴロストに騎乗し、本馬場に入場した桃ノ木は、一旦その場で立ち止まった。

 そして首筋を強く撫でた。


「ビヴロスト、一緒に頑張ろうね。見える? あそこに見えるのが私たちの栄光のゴールなんだよ」


 ビヴロストがブルルと唇を鳴らす。桃ノ木はもう一度首筋を強く撫でた。



 メイダン競馬場の観客席にファンファーレが鳴り響き、いよいよ出走の時刻が近づいて来た。正面スタンド前にゲートが設置され、各馬がゲートに収まって行く。一頭の馬がゲート内で暴れて、発走が少しだけ遅れる。

 あまりゲートが好きじゃないビヴロストもしきりに首を振ってイライラ感を醸し出している。桃ノ木はそれを口笛を吹いて落ち着かせる。


 ゲートが開いた。


 先ほど大暴れしていた馬が勢いよく飛び出して行く。最内からドクターアニマルが先頭をうかがい押して行く。ビヴロストもそれに続くように最初から押して行った。直線コースでは横に広がっていた一団が徐々に縦に長く広がって行く。


 一コーナー手前くらいからやっと馬群が落ち着いていく。

 先頭はドクターアニマル。そのすぐ後ろにビヴロスト。そこから少しだけ間を開けてスターライラ、その外にアウヤンテプイ。スターライラのすぐ後ろにオリュンポス。後方集団先頭にユーサーパー、その外にバイドゥハーン、さらに外にクプア。


 ドクターアニマルのすぐ横、少し下がった位置にビヴロストはぴたりと付けて追走。一番人気とブービー人気二頭での逃げという形になっている。


 向こう正面、その状況を嫌ったドクターアニマルはビヴロストを引きはがそうと前に出る。ビヴロストは少し遅れて単独二番手に位置取った。その後ろスターライラとアウヤンテプイは二馬身ほど離れている。オリュンポスとクプアはそこからさらに三馬身ほど離れている。


 その体制で大きな動き無く向こう正面を疾走。

 三コーナー手前くらいから、後方集団が徐々に先頭集団との差を詰めにかかった。ドクターアニマルがスパートを開始し、それに合わせてビヴロストも動いたため、スターライラたちとの差が四馬身ほどに広がってしまう。


 四コーナー手前からドクターアニマルが逃げ切り体勢に入った事でビヴロストは一気に引き離された。ビヴロストを先頭として二番手集団が団子の状態となっている。


 残り四百メートル。

 ドクターアニマルが逃げる。桃ノ木がビヴロストの手綱をしごく。スターライラは手応えが悪い。ビヴロストの外からアウヤンテプイが上がって来る。桃ノ木がそれに馬体を合わせると、ビヴロストは急に気合をみなぎらせた。


 残り三百メートル。

 ドクターアニマルをビヴロストとアウヤンテプイがグングン追い詰めていく。オリュンポスが下がってきたスターライラに前を塞がれ仕掛けが遅れる。大外一気にバイドゥハーンとクプアが上がって来る。


 残り二百メートル。

 逃げるドクターアニマルをビヴロストとアウヤンテプイが捕まえた。

 三頭並んで壮絶に叩き合う。さらに外からはバイドゥハーンとクプアが猛然と追い上げて来る。


 残り百メートル。

 ついにビヴロストが先頭に躍り出た。ドクターアニマルが一杯になった。アウヤンテプイが必死に追いすがる。

 徐々にビヴロストの手応えが弱くなっていく。


「もう少しだから、お願い!」


 桃ノ木がビヴロストの手綱を必死にしごく。

 だが外から上がってきたバイドゥハーンとクプアがビヴロストを捕らえた。

 四頭が並ぶようにゴール板を駆け抜けた。



 巨大な画面にゴール映像が再度再生された。

 早くもメイダン競馬場では、一着にクプアを表示している。そして四着にアウヤンテプイが表示されている。問題は二着と三着。


 三度目のゴール前映像が流れた時だった。二着にビヴロストを表示した。

 クプアに差されはしたが、かろうじてバイドゥハーンの追撃は凌ぎ切ったのだった。

 桃ノ木はその場でゴーグルを外し、あふれ出る涙を何度も何度も袖で拭った。



 深雪が大泣きしながら大喜びで俺に抱き着いている。

 父も母も、深雪の両親も感極まっている。結城先生が今井さんと喜びを分かち合っている。まるで全員勝ったかのような喜びようである。

 俺たちの隣では鈴鹿オーナーたちクプアの陣営が大喜びしている。

 遠い異国の地で日本人の一団が感動で大騒ぎしているのを、世界の報道がカメラのレンズを通して映し出したのだった。



◇◇◇



 翌日のスポーツ新聞は、日本馬ワンツーの写真がデカデカと掲載されていた。記事の内容も地方所属の馬が世界の二着になったと大騒ぎであった。勝ったクプアよりも大きな扱いの新聞もあるほどであった。


『かつて交流元年と言われた年に中央のクラシックに果敢に挑戦したライデンリーダー、その曾孫が遠い異国の地であわやの二着と大健闘』


 デカデカとそう書かれていた。



 ドバイから帰国したビヴロストは契約書に従い名古屋競馬場に売却された。ドバイワールドカップの二着馬が売却というニュースは、世界の競馬関係者に大きな衝撃を与える事になった。

 購入資金を回収しようとビヴロストは帰国後、かしわ記念、帝王賞に出走。どちらも二着に終わった。ところが帝王賞後に屈腱炎を発症し、わずか中央転厩二戦で引退する事になったのだった。


 名古屋競馬場が約束してくれた通り、ビヴロストは北海道早来にある巨大牧場で繋養される事になった。初年度の種付け相手はエピファネイアであった。



 ビヴロストのおかげでかなりの賞金をいただく事ができたのだが、その多くは今井稔牧場に使ってもらう事にした。ビヴロストの母、プリズムの飼育費や厩舎の改築に使ってもらっている。今井さんは生産者賞で十分潤ったからと言って受取りを拒んだのだが、娘のビヴロストが母親に孝行をするんだと思って欲しいと言って受け取ってもらった。


 今井さんの話によるとドバイから帰ったら感謝の置手紙を残して神楽はいなくなっていたらしい。あっちの小牧場、こっちの小牧場とせわしなく渡り歩いていると風の便りで聞いたそうだ。



 ビヴロストを売却した俺はすっかり馬主熱が冷めていた。深雪はそうではないらしく、また馬を買って走らせようとせがんできてはいる。だが、良い思い出のまま留めておこうと言っているのだ。


 そんなある日の事だった。ずっと音信普通だった神楽からメールが入った。


”久しぶり! 元気してた? ねえねえ、まだ馬主資格って持ってる? 一頭買って欲しい馬がいるんだよね。友作の好きそうな馬だよ? アローキャリーって馬の孫なんだけどね、深雪ちゃんと検討してもらえないかな?”



「砂塵の彼方にある栄光」―完―

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【完結】砂塵の彼方にある栄光 敷知遠江守 @Fuchi_Ensyu

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