秋霖ピアス
音翔
第1章
第1話 熱帯夜と保険証
初めはこんなことになるなんて、思ってもみなかった。
たぶん、ただの同情と出来心。
じめじめと夏の余韻を引きずる9月。
いつまでも続くセミの鳴き声と、重く暑い空気に苛立ちを感じながら、アパートに帰宅した夜の9時。
ドアの前に座るお前に出会った。
カフェでキーボードを叩く。ときどき動きが止まり、また規則正しい音が鳴る。
曽我なおやは家近くのカフェで、大学の課題に取り組んでいた。
木目を基調とした、落ち着いた内装。
選び込まれた暖色ペンダントライトに、美味しいコーヒーと優しい店主。
夜遅くまで開いている事もあって、課題が行き詰まるとよく利用していた。
腕時計を確認すると時刻は8時45分。
普段より早めではあるが、帰宅後のタスクを考えると、切り上げるには良い頃合いだった。
「陣さん」
「もう帰るのかい?」
深い緑のキャスケットを被った初老の男性が、カウンターに、拭いていたマグカップを置く。
名前は陣内。このカフェの店主で、常に帽子を身につけている。
「今日はコーヒーだけだね」
会計を済ませ、店を出ると、冷房の効いた室内とは打って変わった夏の熱気に襲われる。
異例の熱帯夜。
毎年のように更新される、例年より長く続く、夏の暑さ。
なおやは、うんざりとした目で帰路を歩く。
家とカフェの距離はそこまで遠くは無いが、この暑さ、何より、じっとりとした重い空気のせいで憂鬱になってしまう。
ため息をつきながら歩くこと十数分。なおやが2階に部屋を借りるアパートが見えた。
駅からの距離で選んだ部屋ではあったが、内外装ともに暗い色でまとめられていて、なおやの趣味とよく合い、彼自身、とても気に入り、満足していた。
少ない光の中で階段を上る。
2階につき照明がついたところで、足を止めた。
「………は?」
階段側から3部屋目。曽我なおやが日々生活する203号室。
ドアの前に、誰かが座っていた。
膝を抱え、顔を埋めたそれは、そこに居た。
分かるのは、長袖長ズボンと、この熱帯夜で、ありえない露出度であること。
少し長めのナチュラルマッシュで、耳元でシルバーアクセサリーが光を反射していること。
とても小柄で、明らかに子供であること。
――子供……?
怪訝に思い、顔をしかめる。
今の時代、この時間に子供が外を出歩くことは、不思議なことではない。
しかし、なおやには、この時間に訪ねてくるような人は、ましてや子供に心当たりがなかった。
いつまでも棒立ちになっている訳にはいかない。
なおやが目の前に立つと、子供が顔を上げた。
気だるげに開かれているが、一目でわかる。大きな瞳。吸い込まれるような深淵の黒に、なおやは、息をするのも忘れた。
通った鼻。
薄い唇。
覗いて見える鎖骨が、不健康にも思えるほどに浮き出ている。
「あの………」
先に声を上げたのは子供。立ち上がり、手を、正しくは保険証を差し出した。
目つきの悪い青年の写真が載っている。
そこに記された氏名は曽我なおや。
子供は、なおやが落とした保険証を、本人に手渡すため、ここに座り待っていたのだった。
「っど、も……」
反射的に礼を言い、受け取る。
普段、保険証は財布に入れていた。
たしか今朝、財布にいくら入っているかが気になり、家の前の道路で確認した記憶がある。
その時に落としたのだろうか。と、なおやは考えをめぐらせた。
「では、自分はこれで……」
いたたまれなくなった子供が、低い声で言った。
もう暗い。子供を1人で帰らせるわけにはいかないと思ったが、もうすでに、子供の姿は見えなくなっていた。
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