この素晴らしき惑星
天海女龍太郎
この素晴らしき惑星
娘の性格が突然荒れ始めた。何が原因なのか分からない。気持ちに寄り添おうと、娘の肩を抱きしめて、「どうしたの。何があったの?」と問い掛けても、何も答えようとしない。「一人で悩まず、頼ってもいいのだよ。」とお決まりの文句で助言や励ましをしようとするが、「私に構うな!」と怒鳴り、奇声を上げながら周りに当たり散らすようになった。時に妻や私に暴力を振るうこともあった。
妻は、当初、対外的には何事もないかのように振舞っていたが、やがて、家庭内では、「仮面の家族」と自虐的な嘲笑を浮かべながら酒に溺れるようになり、口を開けば、何もかも私のせいと責め立てた。不愉快は感染するものだ。夫婦間で言い争いが絶えなくなった。険悪な雰囲気が充満し、いつ傷付け合いが始まってもおかしくないような一触即発の状況になった。「仲の良い幸せそうな家族」と呼ばれていたわが家の尋常でない変化はすぐに近所に知れ渡ることとなり、面白おかしく喧伝され、侮辱的な誹謗中傷や不実のうわさ話が横行した。私は、心の中で、皆いなくなればいいのに、この世が終わってしまえばいいのにと思うようになっていた。
私の憂さ晴らしの気まぐれな願望は、すぐに現実のものとなった。
どこかの国の好戦的な君主が、強さを誇示するために、新型の爆弾を地下の実験場で爆発を繰り返すという火遊びを始めたのである。爆弾そのものの威力はさほど強大なものではなかったのだが、何らかの偶然で、地中深くに眠っていた未知の病原体を目覚めさせてしまった。未知とはいうものの、この惑星の誕生と共に生まれた原生菌の一種であり、まるで時限爆弾のように、復活の時を今か今かと地底の岩石の中で待っていたに違いなかった。
病原体は、ミトコンドリアに劇的な変化をもたらすものだった。ほとんど全ての生き物の細胞に存在するミトコンドリアを急激に活性化させ、細胞内でのこれまでの役割を越えて、細胞を破壊し始める。感染すれば、どんどん細胞の壊死を連鎖させ、免疫不全や臓器破壊が瞬く間に進み、遅からず死に至らしめた。また、発症すれば、ミトコンドリアは自らを包む細胞を食い荒らし、骨や肉を破壊させた。みるみるうちに内側からぼろぼろと溶けるように肉体は崩れ去った。
異変に気付いた科学者たちは、恐竜を絶滅させたのもこの細菌のせいだったのに違いないと推測した。1億6000万年もの長い間栄えていた恐竜が6000万年前に突然滅亡したことや、ほとんどは化石燃料化したとしても、生息した期間に比べ、発見された化石の量が極端に少ないことがその証拠だと主張した。そして、これ以上の感染の広がりを防ぐため、病原体と共に発生国そのものの存在を消し去るべく核による攻撃を提案した。国際連合はこの提案を全会一致で承認した。かの国の国民の犠牲を避ける余裕などなかったのである。直ちに世界中から一斉に核兵器を発射し、国中で爆発させたのだが、そもそも細菌は高熱のこもった地下深くで生き長らえてきたものである。熱に弱いどころか、瞬時に狂暴化し、全世界に拡散し、感染が蔓延した。もはやなす術はなかった。動物はもとより、植物さえもどんどん死滅していった。人々は絶望し、感染前に自ら命を絶つ者が後を絶たなかった。地球上から生命は失われ、岩山と海、そして無機質な文明の痕跡だけを残して、無為な時間が流れていった。
それから数日がたった。
ガレージの外は霧雨で白く煙っている。私は軒先で、ソファーに腰掛け、毛布にくるまって震えている娘の体を抱きかかえていた。突然目の前の道路に置かれたブルーシートががさがさと音を立てて形を変える。妻だ。妻の体がシートの下で崩れ落ちているのである。
娘が息も絶え絶えに、小さく声を発する。
「私、死ぬのね。もっと……すればよかった。」
言葉にならない。しかし、問い返しても詮無いことだ。私は、返事をする代わりに、娘をぎゅうっと抱きしめる。
「ありがとう、父さん。」
それが娘の最後の言葉だった。私ははらはらと涙をこぼしながら、しばらくそのままじっとしていた。
悪寒がする。私も感染したに違いなかった。
聴こえるのは雨音だけ。静かだ。周りには誰もいない。自分が人類最後の一人なのかもしれないと思った。静けさに耐えかねて、気紛れに、近くにあったAIスピーカーに、落ち着ける音楽を聴きたいとリクエストしてみる。流れてきたのは、皮肉にもルイアームストロングの「この素晴らしき世界」だった。音に反応したのか、インターネットでつながったそこかしこのデバイスからも、同じ楽曲が流れる。再生可能エネルギー源のお陰で、人の介在が全くなくても、電力はほぼ無限に供給されるのだ。私が死んで、誰も止めることがなくなれば、永遠に音楽を奏で続けるのだろう。誰も聴く者のない音楽が永久に流れ続ける美しき毒の惑星。何も知らない宇宙人がたまたまこの星に立ち寄って、この様子を見たら、一体どう感じるだろう。空想しながら、私は、安堵にも似た気持ちになっていた。なんて素晴らしい惑星だ。
私は、うふふと笑い、それから、音楽を聴きながら、深い深い眠りに落ちていった。
この素晴らしき惑星 天海女龍太郎 @taiyounokage
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