第2話 隣人たちの啓蒙、その功罪
【前回までのあらすじ】
「魂」が見える青年セシン・ミルファルトは、自身を招いた「永遠」の体現を目指す魔王、ネルフェニアにその瞳の力を買われてしまい、あわや彼女の槍で眼球を摘出されかけてしまうのであった……。
第2話 隣人たちの啓蒙、その功罪
再び着席する。卓上には、先ほどより1つ茶碗が増えている。不貞腐れた様な顔をした
「改めて君には謝罪しなければならないね、セシン君……僕の従姉妹どのは少々口下手というか、人間とのお喋りが苦手でね」
そうだね?と長い指を組んだまま
「目を貰うのは死んだ後でも良いかなーとか言ってたじゃないか。君がそこまで焦るのも分からなくはないが、せめてきちんとした事情も話した方が良いんじゃないかな?」
そう言い切ると、いつの間にやら用意されていた椀を手に取り、中身にふうと息をかけている。先生は猫舌である。
というか、きちんとした事情とは一体何の話だろうか。永遠になるという本懐を達成するという突拍子も無い話なら聞かされていたが……。懐疑的な目をネルフェニアに向けると、彼女は観念したように両手を上げた。
「……分かった、説明する。ともかくあれだ、最初に
資料というのは、はじめに此奴に手渡された紙の山のことだ。殆どは無断でうちの学会から持ち出されたものだが、探ってみると明らかに人が書いたであろう束があった。ネルフェニアが書いたのだろうか?
「実のところ、
さっきまで俺を殺しにかかる勢いで眼球を取り出そうとしていた奴と同一人物とはにわかに考え難い、仰々しい口調でそう言い放たれる。走り書きだが、何を書いているかは読み取れた。母国と
「『ヒト以外の種族の魂の“人間化”と“劣化”についての報告書』……おい、何だこれ」
「おかしなタイトルだと思ったな?いや、
困り果てた様子の魔王は、首をぶんぶんと横に振ってみせた。とにかく、この題名はおかしい。例えるなら、「人間は逆立ちしたまま臍で茶を沸かすことが出来る」という文章と同じくらい荒唐無稽なことが書いてあるのと同義だった。
——またも同じ解説をする羽目になるが、辛抱強く読み進めてくれれば助かる。本来生物に宿る魂は、一生を終えていくまでに変形していくことは有り得ない。魂の「劣化」という、いわゆる長期間の稼働における摩耗のような現象が起きるというのは、虫の息だった獣人を使ってネルフェニアが証明したばかりだ(この件に関しては、
適切な例えではないが……魂を1枚のクッキーに例えるなら、魂の劣化は時間が経ってクッキーが傷むこと。魂の変化は、クッキーの形が変わっていってしまうことを意味する。焼き上がったクッキーは、外からの干渉が無ければ、
「ネルフェニア……聞きたいことが山ほどあるが、お前から話した方が早いだろ。何が起きてるんだ?お前の国で……」
簡易的な構成の紙束に目を通しつつ、俺は残りの茶をあおる。当の魔王はその人工の腕を緩く組み、「
◇◆◇
「
『』の中はネルフェニアの巧妙な声真似だが、俺の知らない人物のため、取り敢えずスルーしておく。それよりも、怪我というのは何の話だろうか?
「まあ劣化と同じ原理なんだろうがな。本来変形することのない魂が、何らかの干渉を受けて、人間の魂に似た形に変形することで、肉体の方に影響が出ていると
確かに、ネルフェニアが処分した獣人は魂が劣化しきった結果、身体も満身創痍になっていた。つまるところ、本来の形を魂が保てなくなると、魂の持ち主にもガタが来るという話なのだろう。焼いた後の円形のクッキーを無理やり星型にくり抜こうとすれば、ヒビが入ったり欠けたりすることは必至だ。
「……で、結局俺の目を欲しがるのと、その
何か異常事態が起きているのは確かであるが、ネルフェニアが直接魂を見る瞳を手に入れることには微妙に繋がらない。盗まれたのは癪だが、彼女の手にかかれば
「その指摘は正しいね。ただ、実を言うと僕たちにはそこまで時間が無い。ネルフェニアが改良に打ち込む時間も惜しいほど」
それまで黙っていた
「劣化は言ってしまえば単なる老化現象と同じようなモンだが、変形は違う。あいにくサンプルは無いが……
「それは……襲うのか?人間を」
渋い顔でネルフェニアは頷いた。どうやら、この話は一筋縄ではいかないらしい。そもそも
「もうバレたから白状するが……
ここまで来れば俺の目が必要とされている理由も分かってきた。要はこの人間化現象の調査のためだったのである。
「ふん、まあそういうことだ。凶暴化した連中は町ごとの自警団で手に余る場合もあるだろうし、せめてこの国で発生した分は
「……僕を通じて、魂を見る作業の協力を要請すれば良いと言ったんだがね。この件に乗じて、
そう
「ネルフェニア」
「……」
「もう一度言うが、俺はお前の言う永遠もよく分からないし、そのために目を差し出すことはできない」
そうだな、と脚を組んだままの少女は頷く。白いミニスカートの下からは、特徴的な球体関節が顔を出していた。
「ただ……お前と先生の言う人間化現象の対処のためになるんなら、俺は協力する。盗っ人に学会の仕事を取られっぱなしじゃ癪だ」
息を整えながら、慎重に言葉を選ぶ。自分の意思を表明する。正直成り行きで所属している学会だが、上手く彼女に取り入れば
「ははは!何だ、今代の
勝手に代表ということにされているが、ひとまずそれはスルーするとして。
「いや、放ってはおかない。学会の連中には連絡する……が、人間化現象のことを報告すれば大抵は容認するとは思う……普通だったらタコ殴りだろうが」
「ああそうか。無許可で資料と
それなら僕の方からごめんなさいと言っておくから大丈夫だよ、と発する
「ひとまず、それでいいか?」
「ああ、十分だとも。その目はお前がお払い箱になってから
それまで死ぬなよセシン・ミルファルト、と告げ、ネルフェニアは満足そうに頷いた。どうやら、こちらに拒否権は無さそうである。
◇◆◇
忙しなく鳴り響いていたタイプライターの音が止むと、それを見計らっていたかのように背後のドアからノック音がした。事前に言われていた通り、返事はせずに卓上を軽く爪の先で2回小突くと、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。ネルフェニアの侍従が夕餉を置いて行ってくれたようだ。
ゆっくりと戸を開け、なんとなしに廊下を見渡してから、木製のワゴンを部屋に引き入れた。被せられていた銀製の
「……いただきます」
——この客室はネルフェニアが貸し与えてくれたものだった。長い調査になるだろうからと広めの部屋を当てがってもらえたようで、有難い限りである。
この国は南大陸に位置するため、基本的には温かい気候なのだが、時期によっては夜はひどく冷え込むようだ。味のよく染みたポトフが、異国の慣れない気温差に打ちのめされた身体を労ってくれるような感覚がした。ソテーのソースはコケモモに似ていると思ったが、それよりま少し甘味が強く、柔らかくほぐれた鶏肉と良く合う風味である。
只管に咀嚼を繰り返しながら、数刻前のやりとりを思い返す。俺がネルフェニア達に協力することは決まったものの、事の顛末に加え、資料と秘匿魔術を盗まれたことも包み隠さず学会に伝えなければならない。というか、口ぶり的にも最低でも1週間前くらいには
「……」
気が付いたら食べ終わっていた。誰が作ったものか検討もつかないが、とにかく美味だった。これもあの侍従が作ったものなら、チップの1つでも払うべきなのかもしれない。
立ち上がって着替えと備え付けのバスタオルを手に取り、指示されていたように皿を戻したワゴンを廊下に出しておく。風呂に入っているうちに片付けていてくれるそうだ。
部屋を出て10メートル程歩いた所で、燭台に照らされた曲がり角の先の壁に、細長い影が映った。間髪入れずに
「先生」
「こんばんは」
天井が高い造りの廊下とはいえ、俺より15センチは上背のある先生が突然現れると、なんだか妙な怪異に出会ってしまった気分になる。いや、魔王の従兄弟なのだから別に怪異という表現も間違いではない。
先生は——ウルジアという人物は、この世界において知らぬ人はいない、と行って良いレベルの有名人である。芸能人の類ではなく、彼は医者である。診療科問わず、どの部門であっても患者を診られるという看板を下げていて、個人では遺伝子工学の研究もしている人物だ。こう羅列すると化け物じみたスペックをしているが、先生曰く「人間が10年足らずで医者になれるなら、数千年暇を持て余すより沢山勉強した方が楽に食べていけるからね」ということらしいが、こう書くと、やはり正しく怪異側の存在な気がしてくる。
「ここの食事は口に合ったかな?普段はもっと専門の男の子が作っているんだけど、彼も調査で出払っていてね」
「美味しかったですよ。とにかく人間用の食事で良かった」
そう返せば、先生は愉快そうに手を叩いた。後でシオンに伝えておくよと言われ、調理人の名前を知った。シオンと言うのか、覚えておこう。
「そうだ、伝え忘れがあったんだった。今内線が壊れていてね……お風呂から上がったら
「……分かりました」
濃い隈のある目を閉じながら、先生は緩く口角を上げ、ぽんと俺の肩を叩く。冷たい手だ。そして俺の持っていたネルフェニア直筆の汚……趣のある地図が目に入ったのか、
「お風呂場はここの角を真っ直ぐ行った左側の階段を降りればすぐだよ」
と助言してくれた。ついでだと言って医務室の場所までの道筋を赤ペンで図示される。これで迷うことはないだろう。
「ありがとうございます」
「どういたしまして……あ」
ふっと俺から目線を逸らし、後ろの廊下を見つめた先生に倣って、10メートル後ろの部屋を見た。俺たちの会話以外、一切の足音はしなかったはずだが……確かにドアの前からワゴンは忽然と無くなっていた。
「シオンは照れ屋さんでいけないね」
またも楽しそうに微笑む先生の横で、俺は背筋を冷やすばかりだった……。
先生の図示のおかげで、無事脱衣所には辿り着けた。何でもここ数ヶ月で温泉が湧くようになり、客人には貸し出しているとのことだった。魔王の城に温泉があるというのも変な話ではあるが、興味が無いと言えば嘘になるので、ひとまず今日はこちらを使わせてもらうことにした。
扉を開けると脱衣所……という名前に恥じない、大量のロッカーを備え付けただだっ広い部屋に出た。しかも一つ一つに木製の札の形をした鍵まで備え付けられている。この城には十数人の住人がいると聞いていたが、どう考えてもそれより多い人数の利用を考えて設計されている気がする。いずれ商売でも始める気なんだろうか、ネルフェニアは……。
さっさと衣服を脱ぎ、洗体用のタオルを手に取って外に繋がる磨り硝子のドアを開けると、視界が湯気一色に染まった。まだ男女で湯を分けるまで整備は進んでいないようだが、俺しか使わないなら問題はないだろう。湯を溜めるために窪むように掘られた周りには、ぴかぴかに磨かれた石がいくつも置かれている。見よう見まねで作っているのだろうが、風情のある感じに仕上がっている。
更に奥まった所には、恐らく魔術を利用して水を出すシャワーもちゃっかり用意されていた。意外とこういう所は凝る性分なのかもしれないと思いつつ、入り口横の桶を手に取ろうとして、気が付いた。
湯から、何か妙なものが生えている。植物が何かが風に煽られて入ってきたのだろうか。ぴんと立った謎の物体が、湯気の向こうからぼんやり見えた。いや、液体に浸かっている植物がああも真っ直ぐ立っているわけはない。どういうことだろうと目を凝らそうとして、風呂桶を取り落としてしまった。
その音に反応したように、目の前の葦は突然立ち上がった。否、立ち上がったのは、その葦を頭に突き刺している謎の人物だった。……植物に見えていたそれは、頭頂部から生えた髪の毛だったらしい。墨のような長い黒髪と、それに相反する真っ白な睫毛は、ネルフェニアとはまた違った作り物のような独特の雰囲気がある。その上半身は両腕で隠されているが、もう半分は気にしなくて良いのだろうかと思い、無意識に目をやってしまった。不味いと思ったのも束の間、そこには……全く、
とにかく、と聞いていた話と違うが、入浴を邪魔してしまった。謝らねばと口を開くと、眼前の人物は、全霊をかけて甲高い声で叫んだ。
「キャーーーーーーーッッッッッ!!!痴漢、変態、覗き魔です!ネルフェニア様、早く来てくださいーーーーッッ!!!」
「なーんだ、貴方がセシンさんだったんですね!僕ってばうっかりさん♡」
そう言って軽く自らの頭を小突いている。誤解を解くのに、軽く10分は掛かってしまった。全裸で説明をさせられるこちらの身にもなって欲しい。いや、それは相手も同じことか。
「いや〜失礼しました!僕、今日帰ってきたばかりだったので、貴方は明日来るものだと思ってたんですよー。あ、もう身体洗っちゃっていいですよ!」
一通り喋って満足したのか、立ち上がった時と同じ勢いで再び湯に浸かり始めた。取り敢えず、差し示されたシャワーブース(という呼び方で適切かは分からない)に向かう。と言っても温泉そのものとの距離は僅か数メートル程度だった。俺の背後から、楽しげにこちらに語りかけてくる。
「セシンさんは何処出身なんですか?細身ですし西側ですかね?意外と
「ネルフェニア様が人間とお喋りしたがるなんて、とっても珍しいんですよ〜」
……等々。正にマシンガントークと言った所だろうか。こちらはああ、だのうん、だのしか返していないというのに、お喋りが止まる気配が無い。癖の強い奴しかこの城には住んでいないのかもしれない。最後に洗髪を終わらせて振り返ってやると、石の縁に肘をついて、随分と楽しげな様子でこちらを見ている。
「……話に付き合うのは構わないんだが、そろそろお前の名前を教えてくれないか?」
遠慮なく湯に入ってそう問うてみると、真っ赤な瞳を丸くした後、恥ずかしそうに頬を押さえた。
「もしかしてこれって……僕!今、口説かれてる!?すみません、僕、僕と同じかそれ以上の身長の男の人しか恋愛対象じゃなくて……」
「いや、断じて違う」
精一杯の冷静な声音でそう返事をすると、「良かった〜!」と返される。自覚していなかったコンプレックスを刺激された気がするが、まあ変な勘違いをされるよりマシだろう。
「僕は庭師です!ネルフェニア様に仕えてる一介の魔物ですが、仲良くしてくださいね♡」
バチッという音が鳴りそうなウインクに、思わずため息が出た。やはり、
「そんな辛気くさい顔しないで下さい!僕たち、取って食べたりしませんし……貴方、
俺がこの先のことを憂うような表情を見せたからか、悲しげな顔をした庭師は勢いよく俺の両手を取ってそう言った。
「良いじゃないですか!ネルフェニア様にたくさん恩を売ってボロ儲けしましょう!絶対楽しいですから!」
良いのか悪いのかイマイチ判別が付かなかったが、庭師は励ましているつもりなのだろう。ボロ儲けはともかく、気持ちは受け取っておくと返事する。
「ふふ……僕たち、同じ雇い主のビジネスパートナーですね!仲良くしましょう、セシンさん」
◇◆◇
温泉で庭師と別れた後は、今度は先生の元へ向かう。今日一日の情報量が多過ぎて正直目が回りそうだったが、先生の呼び出しは無視できなかった。
先生の医務室は城の別棟にある。ネルフェニア達の住んでいる方の棟に出向いたのはこれが3度目だが、別棟自体には何度も足を運んでいるので、迷うことはなかった。向こうの棟とは異なり、壁は焼成レンガではなく白い漆喰のような素材で出来ていて、この空間だけいかにも病院といった風体である。
医務室の扉の横の壁は、長方形の形をしたガラスが嵌め込まれており、その窓から入室の合図をした。
「来てくれたんだね。夜遅くまでご苦労様」
とても魔王の城の中とは思えないほど、天井も床も白で埋め尽くされた、広々とした医務室の中心に先生はいた。よくある回転する丸椅子に座るよう手で示され、大人しく着席する。
「……本当に、君には迷惑ばかり掛けるね。ネルフェニアは、昔から自分が上手くやるからと言って聞かない子でね」
物で溢れ返っている卓上のどこかから包帯を取り出しながら、先生は話し始めた。上手くやる……というのは、多分俺との交渉のことだろう。先生が来なければ、交渉決裂どころか俺の血が流れて終わっていたかもしれない。
「学会については、本当に僕に全て任せてくれて良い。どちらにせよ、報告が先か後かの違いしか無いしね」
「先生が話をつけてくれるのなら、俺に異存は無いです。正直な話、
先生がごめんなさいをしておく、というのは強ち冗談ではない。先にも説明したが、先生の権威は本物だ。学問としては遺伝子工学を担ってはいるが、彼はいざとなれば他の分野にも簡単に着手して手柄を立ててしまうような人だ。そのために、自分が所属していない学会への影響力も強い。元を辿れば、俺の目の特殊能力が判明した時、学会に引き入れてくれたのも先生なのである。
加えて、うちの学会には先生とネルフェニアに血縁関係があるのはバレているので、余計に圧力を掛けられるのだろう。
「そうやって自分を卑下するのはよくないといつも言っているだろう?」
俺を嗜めながら、器用に右目に包帯が巻かれていく。それだけで、なんとなく肩の荷が降りる気がした。布で覆い隠されているだけだが、今の間だけは
「……先生。俺には、あいつの言う永遠が、よく分からないです」
「…………」
「正直、ただの人間と
あの魔王が何になろうとしているのか、俺には全く分からなかった。具体的に永遠とは何かを説明されていないこともそうだし、彼女は確かに生きているのに、人形のような身体をしているのも意味が分からない。分からないという言葉を紡ぐ自分の唇は、ひどく乾ききっていた。
「そうだね。僕も全てを語る口を持っているわけではないけれど、ネルフェニアの望む永遠というのが……不変ということは分かるよ」
「不変ですか?」
「半永久的なものだけどね。あの子の身体が
先生が半永久的、と言った意味は分かる。いつか材料もパーツも道具も尽きてしまえば、メンテナンスは出来なくなってしまう。
「その通りだね。ただ、当面の間はその心配はないし、ネルフェニアは魔術も得意だからね。その辺は自分で何とか出来るんだろう……。でも君が聞きたいのは、そういうことではないだろう?」
大人しく頷いた。体が人形——人工物である意味は、表面上では理解できた。では、そもそも永遠であろうとするのとの意味は?
「120年前の
少し長くなるけれど、と付け足して、先生はその目で見てきたことを語った。
120年前、南の大陸にあるこの国——正式名称をヘテロクロミアという——には、今でいうネルフェニアのような王、つまり統治者が居なかったと言う。居ない、というよりは何らかの事情で国を去ったのだと先生は言った。そのためか、当時は国ではなく多くの種族が住む共同体的な地域という認識をされていた。
一方その頃、西の大陸に位置する国ヨトンが、旧世界(かつて地上に存在したとされる、高等文明を持っていた世界のことで、オカルト扱いされることも多々ある)の遺物である「科学」と魔術を引き合わせたことで、大国にのし上がっていた。
ヨトンは資源が豊富で統治者のいないこの国を狙い、人間の命を加工した兵器で侵略しようとした。戦争に耐え得る指導者もおらず、戦う力を持った魔王もいなかったヘテロクロミアは、危うく敗れ去る所だった。そこに彗星の如く現れたのがネルフェニアだった、というわけだ。俺が彼女への手土産として持ってきた、饅頭の入った紙袋に書かれていた物語は伝説でも御伽話でもなく、史実なのだと先生は淡々と告げた。
「結論から先に言ってしまうとね、ネルフェニアは国を置いて去った先代が許せなかったんだ。あの子は先代以上にヘテロクロミアという国を愛していたから」
「……」
「それに、あの子に永遠たらんとすることを強いたのもまた、先代の魔王だった。ただ、僕たちも未だに先代がどういった意味で永遠の存在を目指せと言ったのか、分かりかねている」
永遠になれと命じられたのが、最低でも120年前の話であるというのなら、ネルフェニアは人間からすれば途方もない時間を答えのない問答のために費やしたのだろうか。それは、余りに。
「答えを持っている先代もこの地を去ってしまった後、ネルフェニアは自分が不変の存在になって統治をすれば、戦争で起きたような惨事はもうやって来ないと信じていて……それが、先代の言う永遠ではないかと考えたんだ」
……そのための永遠の身体、永遠の魂とネルフェニアは考えているのだ。正直、話のスケールがデカすぎてついて行けていない所もあるが、理には適っているのかもしれない。事実、そのヨトンとの戦争以来この国は戦争を起こしていないし、内紛も勃発していないと聞く。それは彼女が魔王として、統治者として優れている証だろう。
「まあ、だからと言ってあんなに君の目を欲しがるとは思わなかったんだけどね。さっきも言ったけど、人間なんて100年かそこらで死んでしまうし」
包帯を巻き終わったのだろう。先生にポンと肩を叩かれ、俺は顔を上げた。
「——僕はね、君に危害が及ぶようなことはあってはいけないと1番に思っている。ただ、それでも君があの子を理解しようとしてくれているのは嬉しい」
優しい子だと、頭を雑に撫でられた。もうこっちは26歳の立派な大人なのだが、先生くらい長生きな種族からすれば俺なんて赤ん坊に見えているのかもしれない。
「なら、最後にもう一つだけ」
「何かな?」
ネルフェニアについて大体のことは分かったつもりだ。どうしても、今聞いておかなければいけない気がした質問を喉の奥から絞り出す。
「先生とネルフェニアが、従兄弟ということについて」
「ああ、それは……僕の母が先代の魔王の妹だからだね。当たり前だけど、ネルフェニアは人形で、誰とも血縁関係が無いから、あくまで書類上の関係さ」
となると、ネルフェニアは一応、先代の魔王(性別は定かでは無いが)の娘というポジションに収まっているということになる。中々複雑そうな話である。何かヒントを得られればと思ったが、この情報だけでは厳しそうだ。かといって、これ以上話をしていたら真夜中になってしまう。
「……わかりました。ありがとうございます、先生」
「なんだか、何かに納得行ってなさそうな顔だね」
図星である。
「まあ、君自身の目で確かめてみた方が良いこともあるだろう。明日、ネルフェニアが君に街での調査を頼むと言っていたから、一先ず明日に向けて休みなさい」
先生は立ち上がり、何やら部屋の奥の資料の片付けを始めてしまった。もう話は終わった、という合図である。
「はい、先生。……おやすみなさい」
「うん、おやすみ…………ああそうだ、その調査にはお喋りな助っ人もつけると言っていたよ、仲良くなれるといいね」
俺の去り際に、背後から先生は確かにそう言い放った。パタンとドアが閉まり、俺は暗い廊下に立ち尽くしている。お喋りという部分で、脳裏に入浴時の記憶が蘇った。いや。流石に……考えるのはよそう。何にせよ、どんな助っ人であろうと調査をこなさねばならないことだけは、確定しているのだから。
続く
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