第9話:偶蹄目
全員でホワイトボード前の円鱗先輩の方を向いて座り、先輩がペンの蓋を開けたところで先生役として喋り出した。
「今日はわたしが先生。みんなは生徒」
「よっ、マリちゃん!」
「教えるのは魚のこと。りくな、すみか、OK?」
「は、はい。お手柔らかに」
「アタシも大丈夫です」
返事を聞いた円鱗先輩はペンを使ってホワイトボードに何か描き始めたが、やがてそれはイルカとクジラの絵になった。どちらも即興で描いたとは思えないほど丁寧に描かれており、円鱗先輩の意外な才能を垣間見た。
両方描き終わったところでこちらを振り向く。
「問題。イルカとクジラ、違いは何?」
「え、違いって……見ての通りだと思いますけど……」
「生物学的な話」
今までそんなことは意識したことがなかった。イルカもクジラも完全に別の生き物なのは一目瞭然であり、生物学的な違いと言われても全てが違うとしか言いようがない気がする。
「水上さん、分かる?」
「……当たり前でしょ。あなた、海が好きでここに入ったんでしょ? こんな事も知らないの?」
「あ、あはは、いやぁその……」
水上さんはあたしの事情は知らないため、不勉強な人間のように見えてしまったのだろう。しかし彼女からすれば当たり前レベルでの知識ということは、この問題は海洋関連が好きな人には常識ということだろう。
念のため瑚登子に顔を向けてみると、引っ付いたまま顔を上げて小さく頷いた。どうやら知らないのは自分だけらしい。
「水上ちゃんは知っとるみたいじゃし、此岸ちゃん答え?」
「えっとぉ……」
必死に頭を巡らせる。
ただでさえ海がダメなのだ。そこに棲んでいる生き物の生態など勉強したことも調べたことすらない。しかしこういった問題ということは、何もかも違うなどという答えではないのだろう。だが、部長も円鱗先輩もあたしが海洋恐怖症で知識も乏しいことは知っている。ということは、そこまで難しい答えでもないはずだ。
「……大きさ、とか?」
「どぅるるるるるるるる……」
「え、何ですか」
「るるるるる……じゃん。正解。おめでとー」
「おおー!」
志伊良部長と円鱗先輩が拍手をする。水上さんは呆れた様子でそれを見ていたが、拍手が終わったところで先輩は解説に入った。
「実はイルカとクジラは同じクジラ
「目って、確か生物の分類をする時の階級みたいなものですっけ?」
「うん。上から界・門・綱・目・科・属・種の順番」
思い返してみれば昔生物の授業でこういった内容をしていた。その時の記憶から推測するに、クジラもイルカもクジラ目という中に分類されているという点では同じということだろう。
「ザトウクジラを詳しく言うとこう。動物界、
「お、おお……すごい長いんですね」
「ま、こうなん全部覚えとる人どうせ
「わたしは覚えてる。どや」
魚と会話出来るという円鱗先輩からすると、本当に覚えているのかもしれないと思ってしまう。少し不思議で幼い感じのする先輩だが、地頭は良さそうに見える。
「続き。クジラとイルカは、大きさで分けられる。どこからどこまでか分かる? すみか」
指定された水上さんは当然といった表情でスラスラ答えた。
「クジラ類の中で大きさが4mより小さいものはイルカ。それより大きいものはクジラだったはずです」
「正解。もっと正確に言うと、ハクジラの仲間の中で4mより小さいのがイルカ」
「基準、結構曖昧なんですね……」
「うん。ほぼ見た目」
「ちなみにじゃけど、ユメゴンドウクジラっちゅうんは、名前はクジラじゃけど体長は3m以下なんよ」
「えぇ……ほんとに曖昧なんですね……」
円鱗先輩はせっかく描いていた綺麗な絵を消してしまうと、新たにクジラの絵を描いた。片方はイルカのような見た目の生物であり、もう片方は自分でも見たことがあるようなクジラの絵だった。
先輩はペンでイルカの方を指す。
「これがユメゴンドウクジラ。ほぼイルカ」
「ていうかイルカじゃないです、これ?」
「そういうもの。そういう世界」
「それで、これ。りくなは分かる?」
円鱗先輩が指したのはクジラの方の絵である。
「えっと……ザトウクジラです?」
「違う。正解はシロナガスクジラ」
「あなた何で海洋研究会入ったの?」
「まあまあ水上ちゃん。此岸ちゃんは知らん事を学びとうて入ったんよ。優しゅうしたって」
「……分かりました」
少しは自分からも質問するべきかと考え、円鱗先輩に尋ねる。
「その、シロナガスクジラはどういう生き物なんですか?」
「ユメゴンドウクジラの逆。一番大きいクジラ」
「10mくらい、ですか?」
「残念。最大で34mのものが確認されてる。びっぐ」
想像しただけで背筋が寒くなるような大きさだった。ただでさえ怖いあの海の中には、そんなとんでもない大きさの生物が暮らしているのだ。もしもそんなものと海の中で遭遇しようものなら、気を失ってしまうかもしれない。もっとも、自分の場合は海に落ちた段階で気絶しそうだが。
しかしそんな恐怖すら感じるシロナガスクジラだが、円鱗先輩によると決して凶暴な生物というわけではないそうだ。
「シロナガスクジラは肉食。でも人間襲ったりはない」
「こんクジラは上顎に鯨ひげっちゅうんを持っとってね。それでオキアミとかを
「漉し取る……
「そうそう。たまーにイワシとかも食べるっぽいんじゃけど、基本的にはオキアミ特化型の食性じゃね」
そう聞いてもやはり、この巨体が海の中を泳いでいると想像すると血の気が引いてしまう。仮に本人にその気が無くても、うっかり巻き込まれて食べられてしまう可能性もあるのではないだろうか。
「でもそれって、人間が巻き込まれたりは……」
「そういう事例はある」
ゾゾゾッと悪寒が走る。
「童話だとピノキオが有名」
「聖書でもそういう話があるっちゅう話じゃね」
「でも安心して、りくな。そもそもクジラは人間食べたくない。だから吐き出す」
円鱗先輩によると、実際に人間がクジラに食べられてしまうという事例はあるらしいのだが、一例では1分もしない内に吐き出されたのだという。
「その時はザトウクジラ。あの子、口は大きいけど喉は意外とちっちゃい」
「人間が通れるほど大きゅうないんよ」
「アタシもその話は聞いたことあります。偶然クジラが食事しようとした時にそこに人間が居ただけで、クジラにその気は無かったって」
その話を聞いて少しは安心したが、それでも運が悪ければ口に入ってしまう事があるという事実にはやはりゾッとした。仮に飲み込まれないとしても、口の中で溺れる可能性だって否定出来ないのだ。クジラには近寄らないのが賢い選択なのかもしれない。
「そうに考えんでも、まず無いけぇ平気じゃって此岸ちゃん」
「クジラは人を食べない。りくなも安心」
「そ、そうなんですね。ははは……そうですよね」
考えすぎるのが悪癖だとは分かっているが、海へのトラウマは嫌でもあたしにそんなことを考えさせてくる。
円鱗先輩のように魚と会話可能な人であれば、そういった事態を避けたり出来るのだろうか。少し気になって質問してみる。
「あの、先輩。いいですか?」
「いいよ」
「クジラって、喋ったりするんですか?」
「うん。クジラもイルカも色んな鳴き声で会話してる。イルカのは分かるけど、クジラのは分かんない」
円鱗先輩によると、イルカは水族館などで出会うことが出来るため、現地で実際の声を聞くことで何を喋っているのかが分かるらしい。しかしクジラとはまだ実際に会ったことが無いため、鳴き声を聞いてもそれがどういう意味なのか、何を示しての鳴き声なのかが不明なため、彼女でも分からないそうだ。つまり、円鱗先輩は魚と会話しているというよりも、その鳴き声を分類して意思を特定しているということだろう。
「あ、そうだったんですね。じゃ、じゃあもしですけど、クジラと会話出来たら食べられないように自分の位置を知らせたり出来るんですかね?」
「イルカと同じなら出来る。でもクジラと喋ったことないから言い切れない」
「クジラなんてそうそう見るもんでもないしねぇ。会うのが大変じゃわ」
「父は会ったことがあるって言ってました。泳いでる時に会ったって」
「ええなぁ。ウチもいつか
円鱗先輩も志伊良部長同様、いつかクジラとも会って会話してみたいと考えているらしい。彼女にとっては水の中の生き物は友達になれる相手なのだろう。
その時、ふと疑問が湧いた。円鱗先輩はクジラやイルカ以外にも鳴き声があるかのように語っていた。魚に全く詳しくない自分でも、魚が鳴き声など上げないと知っているのだが、彼女には何が聞こえているのだろうか。
「あれ、ちょっといいですか円鱗先輩」
「いいよ」
「イルカとかクジラは分かるんですけど、魚って鳴くんです?」
「うん。鳴く。こみゅにけーしょん」
彼女によると、魚の中には鳴き声を上げるものもいるそうだ。それ以外の一見鳴いてなさそうな魚も、歯を擦り合わせて音を出したり体を動かすことでやり取りをしているのだという。中には浮袋の収縮で音を出す魚もいるらしいが、本当なのだろうか。
「コリスちゃんも、体揺らして喋ってる。でもコリスちゃんにはわたしの言葉聞こえてるか分からない。しょぼん」
「え? 先輩の方からは意思疎通出来てないんです?」
「簡単には出来てる。でももっと色々お話したい。わたしの夢」
「魚でも人間に懐くのも
「照れる」
そこまで話したところで、円鱗先輩による授業は終了となった。水上さんを説得する際に意外と時間が掛かっていたようで、外を見てみるともう日が暮れ始めていた。
海小屋を出てから先輩や先生達と別れたあたしは、ようやく内弁慶モードに戻った瑚登子と帰路に就いた。
「どう陸ちゃん? 勉強になった?」
「うん。今まで調べたりもしなかったけど、内容は結構面白かったよ」
「お、そんじゃ海にも~?」
「まだ行けない」
「そりゃそっか」
見慣れた景色の中歩いていると、海が見えるのはともかくとして安心する。隣に居るのも一緒に過ごし慣れた幼馴染ということもあり、クジラへの恐怖心も薄れてきた。彼らが海で生きることを選んでくれたことは感謝するべきだろう。
「でも意外だったなぁ。クジラに食べられたそのまま……って思ってた」
「陸ちゃんは怖がりだなぁ。ま、気持ちは分かんないでもないけどさ」
「円鱗先輩の話聞いて安心したよ。ピノキオのあの話って、ありえないんだもんね」
「あ、うん。まあ、ね」
何かを誤魔化すように視線を逸らした瑚登子を見て、嫌な予感がしてしまう。
「え……ありえるの?」
「いやっ。いやいやそんなわけないじゃん陸ちゃん! ないない!」
瑚登子はあたしを気遣って隠してくれているのは分かる。だが、そんな反応をされてしまうと、逆に気になってしまう。自分の中で勘違いがあるまま、知らなくてはいけない事を放置しているのはそっちの方が怖い。それが海に関する事であれば尚更だ。
「瑚登子」
「ごめんごめん。何でもないってば……」
「お願い、教えて瑚登子。ここまで言われて謎って、そっちの方が怖いじゃん!」
「いややめといた方がいいって……」
「幽霊の正体が枯れ尾花だって分かってた方が気持ち的に楽なんだって!」
「意味分かんないよ、その理屈!?」
あたしの必死な様子を見て諦めてくれたのか、瑚登子は渋々と言った様子で答えた。
「思ったんだよ、あの話聞いてる時」
「な、何を?」
「クジラの中にはさ、マッコウクジラっていうのがいるんだよ」
「まさか……」
「実際に人を食べたって証拠は無いんだけど、あれなら不可能じゃないんじゃないかって」
瑚登子によると、マッコウクジラはダイオウイカなどを捕食するらしいのだが、丸飲みという方法で捕食することもあるのだという。もしダイオウイカも丸飲みにすると仮定した場合、人間を丸飲みにするくらい容易いのではないかとの事だった。
「ほんとのとこどうなのか分かんないけど、ありえるかもってだけ」
「嘘でしょ……」
「いやあくまで仮定の話ってやつだから!」
「そ、そうだよね。証拠が無いなら確定じゃないし……」
「そーそー。だからあんま考えなくても——」
膝が震え出す。聞かないと怖いと思っていたが、聞いたら聞いたで怖い。どっちに進んでも地獄なのは分かっていたが、せめて聞けて良かったと思うべきなのだろうか。
「ごめん瑚登子……ちょっと、やすっ……休んでいい?」
「だから隠してたのに! もう~!」
すぐには歩けそうにないあたしは、瑚登子に肩を貸してもらいながら帰り道の途中にある、自動販売機横のベンチに連れて行ってもらうことにした。
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