第8話:“潜る”ということ
放課後になって部室に集まったあたし達は、新たに加わった水上さんと共に顧問の先生がやって来るのを待った。志伊良部長が声を掛けてくれているらしく、とりあえず水上さんの話を聞いてくれる運びになったのだそうだ。
円鱗先輩は相変わらず机の上に水槽を置き、そこを泳いでいるコリスちゃんを見つめながら水上さんへ語り掛けた。
「すみか。怖い顔しちゃダメ。りらっくす」
「……すみません」
「ほら、お茶でも飲み? 自販機で
水上さんは貰ったペットボトルを開け、お茶を一口飲む。
彼女にとっては、潜水士の勉強が出来るかどうかというのは人生に関わる大切な話だ。もしも断られてしまったら、もう二度と彼女は父親と再会することすら叶わなくなるかもしれない。仮にそれが波梛だったらと思うと、恐らく自分も水上さんと同じ判断をするだろう。
志伊良部長のスマホに着信が入る。
「もしもし、先生? うん、もう来とるよ。先生待ち。待っとるよ」
その電話からしばらくすると、顧問の先生が部室へと入って来た。
海洋研究会を担当しているのは、偶然にも自分のクラスの担任と同じ人だった。少しウェーブのかかった長髪をしている人で、大人しくて優しい雰囲気のある人である。
「ごめんなさい。遅れて」
「ウチは別にええよ。それより水上ちゃんと話してあげてくれる?」
水上さんは立ち上がり、頭を下げた。
「1年4組の
「顧問の
夜凪先生によると、この部活が設立された当初から顧問をやっているらしい。そもそも部が生まれたのは志伊良部長が1年生だった頃であり、歴史としてはまだ短いものだという。
水上さんと向かい合うように椅子に座った先生は、本筋へと入り始めた。
「水上さん。
「はい。どうしてもやらなければいけない事があるので」
先生は目を閉じ、机の上に置いている手の指を机を
「水上さん、聞いてるとは思うけど、もうここではそういうのは教えてないのよ」
「部長から聞いてます。昔はあなたが教えてたんですよね?」
「……」
「いやぁ、ついポロッとね?」
先生から呆れた表情を向けられ、志伊良部長はさすがに誤魔化すしかなかった。それだけ先生からすれば、他の人には言われたくない内容なのだろう。
「せな。教えてあげて」
「
「教えてください。どうして、ダメなんですか?」
「海はあなたが思ってるよりもずっと危険な所なの。人間が立ち入っていい場所じゃないわ」
志伊良部長が口を挟む。
「ほいじゃけど先生、船じゃったら出してくれるじゃないの。あれも厳密にゃあ海に入っとる事になるんじゃないの?」
「深海さん、今は静かにしてくれる?」
「ごめんごめん。続きどうぞ」
先生は活動のために船を出してくれたりしているようなのだが、海の中に入るのは危険だという考え方らしい。自分からすると、どっちも同じくらいの危険レベルだと思うのだが、経験者だからこそ分かる違いがあるのかもしれない。
「お願いします。どうしても……やらないといけないんです」
「やらなくても生きていけるわ。潜水士なんて……ならなくても普通に生きられる」
「生きられません。心に後悔抱えたまま、生きていくなんて出来ないです」
水上さんの過去を思うと彼女のその考え方は否定出来ない。家族のためにやっているのは自分と同じだ。もう引き下がることなど出来ないし、そのつもりもないのだろう。
彼女の境遇に似たものを感じたあたしは、水上さんの援護をすることにした。
「先生、水上さん事情があるんです。どうしてもなりたい理由が」
「どんな理由だろうと、危険なものは危険よ」
「危険だからって理由で諦められないです。お父さんを放っておけない」
「お父さん?」
志伊良部長が代わりに水上さんの事情を話し始めた。かつて沈んだ豪華客船の調査に向かった父親が行方不明になり、今は捜索が中止されているせいで父親や同行していた別の潜水士も帰ってきていない。しかも親からも潜水士の勉強は許されていないのだ。
「なぁ先生、事情が事情じゃ。知識くらいは上げてもええんじゃない?」
「……聞きたいんだけど、水上さんはお父さんを仮に助けたとして、その後はどうする気なの? まだ潜る気?」
「いえ、助けたいだけです。それ以外に潜る理由なんてありません」
「……ならやめておきなさい。余計に」
先生は水上さんを説得するためなのか、自身の過去について少し語り始めた。
夜凪先生にはプロの潜水士をしているお姉さんが居たという。その人は国外で活動していた人で、インストラクターもしていたような熟練者だったらしい。しかしそんなプロであるお姉さんは、海の中で亡くなったのだという。
「名前は出さないでおくけど、ダイバーの間で有名なスポットがあったの。姉はそこで調査目的で撮影機材まで持っていって潜ってた」
「どこですか?」
「ネットで記事にもなっとるようなとこよ。ウチからはよう言えん」
「姉の死因は溺死だった。プロのはずの姉が、溺死したのよ」
お姉さんの遺体は回収されたものの、何故プロである彼女がそんなことになってしまったのかは分からなかったらしい。先生曰く、窒素酔いから来る意識の混濁や思考力の低下が関係しているかもしれないそうだが、自分にはよく分からない単語だらけであり、聞いているだけで血の気が引くような怖さだった。
「りくな、平気?」
「いけんかったら外出とり? 無理に聞くもんでもないけぇ」
「い、いえっ……大丈夫です」
「ヤバかったら言いなね陸ちゃん……?」
どんなに技術や知識も持っている人だろうと、少しでも判断を誤ってしまえば簡単に死に至る。それが海という場所であり、そういった経験があるからこそ、教え子であるあたし達には教えたくないのだという。下手に知識がある状態が最も危険であり、逆に何も知らない方が何も出来ないためかえって安全だと考えているようだ。
先生の考え方にも一理ある。実際に普通の勉強でも、多少分かってきた段階が一番油断しやすくて危険であり、逆に何も分かっていない時の方が率先して調べようとする。少なくとも小さい頃の自分はそのタイプだった。
「私は海洋研究会の顧問として、あなた達の命を預かる責任があるわ。だから下手な事は教えられない」
「同じ轍は踏みません」
「水上さんがどう思ってようと、起こる時は起こるの。事故ってそういうものよ」
「やってみないと分からないじゃないですか」
「あなたみたいなタイプは高確率で起こる。あなたからは、失礼だけど慢心が見えるもの」
水上さんは何か言い返そうとしたが、反論することは出来なかった。
「……とにかく、他の活動はいいけど潜水だけは絶対に教えられないわ。少なくとも水上さんには」
「ちょい待ち先生」
「何?」
「さっきの言い方って、要は水上さんが同じ事になるかもしれんっちゅう可能性があるけぇ言っとるんでしょ?」
「そうよ。深海さんも分からないわけじゃないでしょ?」
「そりゃね? じゃけど逆に言やぁ、教えるに足る人間になりゃあ、OKっちゅう事でもあるんよね?」
志伊良部長も今の水上さんを見ていると、潜水士としての知識を与えるのは良くないと考えているらしい。彼女は今盲目的な状態であり、あまりに視野が狭くなっている。だがその状況が治り、視野が広まった状態になれば教えても大丈夫な人と言えるのではないかと部長は考えているようだ。
「じゃけぇ、こうせん? しばらくウチらと別の活動しながら知識深めて、それで教えてもええっちゅう子になったら教えるんは?」
「深海さん、教えるに足るとかそういう話じゃ——」
「よう頭使ってや先生。抑え付けるとどうなるかっちゅうんは、先生も見とらんわけじゃないじゃろ?」
その時の部長の発言には、妙な重みがあった。まるで彼女と先生が過去に共通の何かを体験しているような様子である。海洋研究会が恐れられるようになった過去と関係しているのだろうか。
「夢っちゅうんは、そうに簡単には捨てられんもんよ。それにな、ウチには分かるんよ」
志伊良部長の目が水上さんに向く。
「こん子はほっといたら、自分一人で知識だけつけて海ぃ潜る子じゃ。そうなったら、それこそホンマに死んでしまうと思う」
「聞きかじりの知識は危険。コリスちゃんも言ってる」
確かに水上さんはそういう事をしてしまいそうな危うさがある。自分も少し似たところがあると自負しているからこそ、そう感じる。自分には瑚登子が居てくれて、アドバイスをくれる事も多い。だが水上さんはどうだろうか。
「すぐに教えんでもええと思う。じゃけど、チャンスだけは上げてもええんじゃないかな先生」
「ダイバーの勉強だけ出来ないの、あんふぇあ。海洋研究会は海のことなら、何でもうぇるかむがモットー」
先生は自身の苦い過去もあって返事に困っていたが、やがて折れてくれたのか溜息をついて口を開いた。
「……分かったわ。ただし、今すぐには教えられない。あなたが教えても大丈夫だって思えるような子になったら、その時に教える。それでいい?」
「……ありがとうございます」
水上さんは大きく頭を下げた。
「良かったのぉ水上ちゃん。安心してええよ。先生は約束は絶対守るタイプじゃけぇね」
「はい。それで、アタシは今日から何をすれば?」
「今日は座学の時間。先生役はわたし。どや」
どうやらこれまではフィールドワークなどをすることが多かったらしいのだが、新入生である自分達が入って来たことで、これからはおさらいも兼ねて座学もしていく方針になったらしい。
幸いにも座学は自分が一番得意としている勉強法なので、海に直接出向くよりは気持ち的にかなり楽である。
「先生、せっかくじゃし先生も聞いてく?」
「そうね。水上さんや此岸さんがどれくらい知ってるのかも顧問として知っておきたいしね」
「ほいじゃったら椅子動かすわ。マリちゃん、準備しとってええよ」
「らじゃ」
ピリッと緊張していた空気が少し和らぎ、円鱗先輩の勉強会の準備が進められていく。部室内にあった棚の裏から脚の付いていないホワイトボードが引っ張り出され、反対側にあった棚に立てかけるようにして配置される。
椅子の位置の入れ替えも完了し、全ての準備が整ったところで、太いペンを持った円鱗先輩による勉強会が幕を開けた。
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