第5話:小さな命とその住処

 水槽の掃除をしなければいけなくなったあたしは、部長達の師事を受けながら自分の手で進めることになった。水槽の中には金魚が数匹入っており、二人から外で作業することを伝えられた。

 なるべく足元を見ないようにしながら海小屋から出ると、近くにあるホースが繋がれた蛇口まで行ったところで、そこにある小さな台の上に水槽が置かれた。


「ほいじゃ始めるで。まずこん中に入っとるんは金魚なんじゃけど、それは分かる?」

「ま、まあ一応それくらいは」

「ホンマは水槽に色々機械付けとるんじゃけど、さっき外しといたけぇ今日は水槽の掃除だけにするけぇね」


 そう言うと志伊良部長は部室から出る時に持ってきていたらしい奇妙な道具を見せてきた。彼女によるとポンプ付きクリーナーと呼ばれているもので、青いポンプ状の部分からホースのようなものがそれぞれ反対側に一本ずつ伸びているという形状をしている。


「これのこっちの部分を水槽に入れてな? ほんで、もう片方をここのグレーチングんとこにやるわけよ」

「あとはシュポシュポ」


 部長がポンプ部分を何度も握ると水槽内の水が吸い上げられていき、蛇口下のグレーチング部分に向けられている反対側の口から水が出ていく。うっかり金魚も吸われるのではないかとも思ったが、そこは慣れているのか金魚の動きを読んで動かしていた。


「な? こうやって最初に水を抜くんよ」 

「なるほど。サイフォンの原理というやつなんですね」

「さ、さいふぉん?」

「昔、学校の授業で習ったんです。管の中が水で満たされてる時だと、水位が高い方から低い方へ水が流れるって」

「ほ、ほうじゃったっけ?」

「はつみみ」

「し、知らないでやってるんです……?」


 どうやら部長も円鱗まりん先輩も自分達がやっている事の原理までは分からずに道具を使っていたようだ。しかしそれでも特に問題無く活動しているのであれば、それはきっと深い愛があるからなのだろう。


「ま、まあええか。ほいでこのクリーナーなんじゃけど、これ砂利の間の掃除も出来るけぇ、そこやってみ?」

「は、はい」


 ポンプ付きクリーナーを受け取ると、水槽に入っている部分の先端を砂利に刺すような形にして吸い上げるように指示された。言われた通りにしてみるとその部分の砂利が少し吸い上げられた。この際に隙間の汚れなども一緒に吸い上げてくれているらしい。


「これ、砂利はどうすれば……?」

「反対のホースんとこをギュってちょっと折ったら落ちるで」


 その通りにすると、本当に砂利だけがその場へと落ちていった。これを繰り返すことで汚れた水と砂利の間のゴミを捨てていくのだそうだ。そして本来は水槽のガラス面の掃除を事前にしておくのだという。


「スポンジとかで表面を拭いていく感じじゃね。それやってから水抜きん続きしようか」

「拭く、ですか」


 今回やることになった水槽に居るのが金魚で良かったと心から思う。自分は海洋恐怖症なのだが、淡水関連であれば辛うじて大丈夫なのだ。もちろん苦手な事には変わらないのだが、これが海水魚の水槽ともなれば、今の自分には耐えられない行為だっただろう。淡水魚であれば、かなり緊張はするが気を失ったりするほどではない。


「あ、り、陸ちゃん。あんまりやり過ぎない範囲がベスト系……」

「お、鰻ちゃん流石じゃねぇ」

「どういうことです?」

「やり過ぎはむしろばっど。そういうこと」

「えーと、つまりじゃね?」


 部長によると、水槽の壁面などには硝化バクテリアが生息しているのだという。硝化バクテリアはフンや食べ残しなどを分解し、水質を綺麗にしてくれる作用があるそうだ。つまり念入りに掃除をし過ぎると、そのバクテリアさえも居なくなってしまうため、水槽内のろ過が上手くいかず、結果的に金魚の体調を悪くしてしまうことがあるのだ。

 飼育係だった瑚登子にとってもこの知識は常識だったようで、この場で知らなかったのは自分だけだった。


「要はやり過ぎん程度にってことじゃね」

「程々にですか」


 あたしはなるべく金魚に触れないように、部長から渡されたスポンジを持って水の中に手を入れた。そのまま簡単にガラス面を拭いていき、部長からその辺りでと言われるまで掃除をしてから、先程のクリーナーを使って続きの水抜きを始めた。

 何度もポンプを握って水抜きをしていると、残り半分まで達したところで瑚登子が小さく声を上げた。


「えっ、何?」

「あ、いやさ……全部抜くのはダメっていうか……」

「おお~、鰻ちゃんホンマに博識じゃねぇ」

「全部抜くんじゃないんです?」

「そう思うかもしれんけど、むしろ全部は良くないんよ」


 部長によると、水を全て入れ替えた場合、pHというものが大きく変化してしまい、そのせいで魚にとって大きなストレスになってしまうのだそうだ。

 pHとは水素イオン濃度指数のことであり、これが急激に変わるとショック症状を起こしてしまうことがあるので、元の飼育水を半分残した状態で新しい水を入れるのだという。


「初心者はやりがち」

「うん。ウチも最初ん頃はやってしもうたけぇね。此岸ちゃんも気ぃ付けてね」

「分かりました。水は半分で入れ替えですね」

「うん。あ、水は先に準備するんよ?」


 部長から渡されたのはバケツであり、これを使って先に水を溜めておき、水槽内の温度に近づけておくのだという。そうすれば水温の急激な変化が起こりにくく、魚へのストレスも少なくて済むそうだ。

 なるべく金魚にストレスを与えないように新しい水を入れていき、元通りの量になったところで水を止めた。


「よし、そんな感じじゃね。ホンマはもっと細かい掃除もあるんじゃけど、一気に全部やったら金魚の体調に関わるけぇ、今日はこの辺にしとこうか」

「少しずつやるんですね」

「ほうで。これを他の水槽でも似た感じにやっとるわけ」

「気になることあったら、コリスちゃんと一緒にその時に教える」

「あ、それなら一つ気になったことが……」


 今回掃除する際に金魚を水槽内に残したままやったことが疑問だった。なんとなく別の水槽やバケツに移してからやるものという認識があり、個人的にもそっちの方が魚に触れる可能性が低くて済むので気になってしまった。


「ええ質問じゃね。今まで話したみたいに、水質の急激な変化は魚にとっちゃストレスになるんよ。じゃけぇ水槽ん中に残したまんまにして、それを最小にするわけじゃね」

「網ですくったら傷つけちゃう。痛い痛いってなるから、そういう意味でもばっど」


 なんとなく魚を移す方がいいと思っていたが、彼女達からするとむしろ良くないらしい。網ですくうだけでも怪我をさせてしまう可能性があるため、そういった危険性やストレスを最小限に抑えるには今のやり方が安定しているのだという。


「う、うちの店でも、そのやり方なんだよね……」

「そうなの瑚登子?」

「やっぱプロの人んとこでもそうなんじゃねぇ」

「ことこ、プロだね」


 魚を移さない理由を知ってあたしが納得したところで、部長達は道具を片付けながら水槽を持って海小屋の部室へと歩き出した。後を追って中へ入ると、水槽によく分からない機械のようなものが取り付けられ、それが終わると新人歓迎会をしようということになった。

 今まで部活というものに入ったことがない自分には、部活の歓迎会というものがどのように開かれるのか想像もつかなかったが、部長が室内にある釣り竿の内の一本を手に取ったところで嫌な予感がした。


「さっ、久しぶりの海洋研究会新入生歓迎会じゃ!」

「いぇーい」

「えっと……その歓迎会っていうのはもしかしてですけど……」

「我が部伝統の釣り大会よ! まあ去年はせんかったんじゃけど……」

「去年は新入生0人。がーん」


 恐らく噂が原因で去年は新入生が入ってこなかったのだろう。やはり先生の反応などから考えると、噂の内容は事実だったのだろう。

 いや問題はそこではない。ここで釣りということは、確実にそこにある海でやるということだ。海洋恐怖症の自分にとって釣りすらも怖い行為で、当然釣り竿など握ったことすらない。

 部長は並んでいる釣り竿から二本新たに持ち出すと、それをこちらに差し出した。


「此岸ちゃんと鰻ちゃんは釣り経験ある? そっから教えた方がええ?」

「私は、あります、けど……陸ちゃん、初めてだと思います……」

「そ、そうですね。今までこういうの勉強というか、知識だけだったもので」

「ほうなんじゃね。じゃったら初体験じゃ!」

「近くの防波堤がすぽっと。やるならそこ。ほんとに」

「場所は分かる?」

「はい。一応地元なので」


 それならば現地で集合しようという話になり、先に釣り竿を持って防波堤に向かうように言われた。どうやら部長達は餌やその他の準備があるらしく、それが終わってから向かうつもりらしい。

 正直常に近くに海が見える状況になってしまうのは怖かったが、瑚登子もまだ付いて来てくれるとのことだったので、これも妹の夢に一歩近づくためと覚悟を決めて、待ち合わせ場所である防波堤へと急ぐことにした。

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