第4話:大きな海の小さな居場所

 翌日、お母さんのベッドで朝を迎えたあたしは、自室で横になっている波梛に朝の挨拶をしてから家を出た。

 家の前では瑚登子が既に待っていたようで、容器に入っている小さい魚を揚げたものをポリポリと食べながら立っていた。


「ちっすちっす陸ちゃん」

「おはよう瑚登子」

「昨日大丈夫だった系? 波ちゃんにバレんかった?」

「なんとかね。どうにか誤魔化せたよ」


 瑚登子は昨日のあたしの取り乱し方を見て、さすがに何があったかバレたのではないかと心配していたらしい。彼女にとっては海洋恐怖症に関することは既に当たり前の事とはいえ、目の前であのレベルの気絶をしたのは初めてだったため気になったのだろう。

 最後の一匹を飲み込むと、瑚登子は容器を鞄へとしまった。


「そんなら良かったけどさ、今日からが本番っしょ? そっちは平気?」

「平気……って言ったら嘘になるけど、予習はしておいた」

「予習?」


 昨晩タコとイカの墨の違いについて自分で調べたということを伝える。


「え、マジ? あの陸ちゃんが……?」

「マジのマジ。事前に知っておけば、この話題になってもすぐに答えられると思って」

「そりゃ答えられるだろうけど、別に無理に一人ですることかね?」

「知らないってなったら、目の前で実演しそうでしょあの部長……」

「あー、ね……」


 志伊良部長は実際にタコを使って墨の違いを見せるつもりだったというのは、昨日本人の口から聞いている。あの時はタコしかいなかったが、違いを見せるのなら本物のイカも用意していなければおかしい。つまり生きているイカをあの人は部室なりに持っているはずだ。

 

「それで、悪いんだけど瑚登子。部活、一緒に入ってくれたり、しない?」

「いやぁ~そうしてあげたいけどさぁ、私もお店あるじゃんかさぁ」

「だよね……」


 瑚登子は自分の意思で店の手伝いをしており、最近は厨房で料理や仕込みなどを担当しているらしい。両親からしても彼女が店に出られない時間が増えるというのは、少し困るかもしれない。


「出来そうな範囲でなら知識教えちゃるからさ、ガンバだよ陸ちゃん」

「う、うん。波梛のためにもね」


 そうして瑚登子からの応援を受け、自分は瑚登子と共に学校へと向かった。

 学校に到着してからは昨日と同じように瑚登子が人見知りを発動してしまい、また好奇の目に晒されてしまったが、授業などは問題無く受けることが出来た。

 同じクラスの生徒達もあたしや瑚登子を普通に受け入れてくれたが、やはり瑚登子一人では他の人と話すのは難しいようで、隣に居なければまだ会話が出来ないほど心は開けていない。


「それではこれでホームルームは終わりです。部活の見学希望者は届け出を各部へ提出してくださいね」


 担任の先生からのその言葉を受け、あたしはすぐに彼女の下へと向かい部活への入部希望届を受け取ることにした。見学希望ではなくいきなり入部届ということもあって先生はかなり驚いていたが、どうしても入りたいという旨を伝えたことで納得してもらえた。


「ありがとうございます先生」

「ええ、此岸このぎしさんがいいならいいんだけど……本当にあそこに?」

「はい。どうしても、やりたい事があるので」

「そ、そう。それならいいけど……」


 やはり教師陣の間でも海洋研究会の噂は広まっているようで、そこに入部しようとするだけで心配される程である。しかし昨日の志伊良部長を見た限りでは、とてもそんなに厳しい人には見えない。だが一瞬感じた強固な意志のようなものは確かに彼女のものであり、そこが何か関係しているのかもしれない。

 入部届を手に入れたあたしは瑚登子に声を掛け、教室を出た。すると出た瞬間、聞き覚えのある声に呼び止められた。


「此岸ちゃーん」

「?」


 声がした方に振り向いてみると、そこには志伊良部長が立っていた。相変わらず長い髪を適当に後ろで結んだ髪型をしており、あまりお洒落には頓着が無さそうな人である。

 背中側に隠れる瑚登子は一旦そのままにして会話を続ける。


「どうも、志伊良部長。これ提出しに行こうと思ってて」

「ああ、もう出してくれるんじゃね。ほいじゃったら部室に来たらええよ。そこで書いてもろうてもええし」

「ありがとうございます。瑚登子、一緒に行く?」

「ん、うん……」


 瑚登子は部活に入るつもりが無いというのは朝聞いていたが、それでもこの時間帯の人が多い中で一人で帰るのは彼女には厳しい。それもあって一旦は一緒に部室に移動して、人が少なくなる時間帯まではそこで過ごさせた方が彼女にとっていいだろうと考えての行動だった。


「部長、いいですか?」

「ええよ、ええよ。瑚登子ちゃんも一緒に来てええよ」

「あ、う……私、その……入らないん、ですけど……」

「あれ、そうなん?」

「はい。入部はあたしだけの予定なんですけど、やっぱり希望者以外はダメでしょうか?」

「全然ええよ。ほいじゃ案内するけぇ、付いて来てな」


 そう許可を貰えたあたしと瑚登子は、志伊良部長に連れられて部室に向けて歩き出した。

 最初は校内のどこかの部屋を使っているのかと思っていたのだが、あたし達はいつの間にか校舎の外へと出ており、ついには敷地からも出てしまった。


「あ、あの部長……部室、学校の中じゃないんですか?」

「ああ、他の部活はね、そうなんじゃけどね。ウチらのは外なんよ」


 一体どこにあるのだろうかと考えていると、やがて自分達は海辺にある海小屋の前に辿り着いた。聞きたくない波音のせいで足がすくみ、心臓の拍動が速くなっていくのを感じる。

 小屋を支える柱は海の中へと伸びているようで、それもあって海小屋は海の上に建っているような構造になっていた。


「ジャーン! ここがウチら海洋研究会ん部室でーす!」

「あ、そ、そうなんですねハハハ……」

「り、陸ちゃん……」

「……え? なんなん? どしたん?」


 これまでは妹以外の前でも海洋恐怖症のことは隠してきた。事情を知っているのは両親と瑚登子だけであり、波梛はもちろんのこと、それ以外の他人にも知られるわけにはいかない。どこから情報が漏れるか分からない以上、自分は少なくとも両親と瑚登子以外の前では平気な人間でなければならない。


「い、いやぁ……震えが来ちゃって……」

「震え? なんか調子でも悪い?」

「い、いえいえ……武者震いってやつですよ。ね、瑚登子?」

「うんうん……!」


 少し無理がある言い訳かと思ったが、志伊良部長はその言葉を信じてくれた。


「ほいじゃったらええけど」

「それでえっと、活動は中で?」

「ほうよ。ウチ付いて来てな」


 志伊良部長に付いて行き小屋の中へと入ると、中には釣り道具やら水槽やらがそこら中に置かれており、壁には何かの魚の魚拓が飾られている。いかにも海洋研究会の部室といった見た目をしていた。

 そんな部室の中心にある机には小さな黄色い魚が泳いでいる水槽が置かれており、その奥には古びたソファが置いてある。そしてそのソファには一人の生徒が座っていた。


「マリちゃん、もう来とったんじゃね」

「ぶちょー。こんにちは」

「はいこんにちは。あ、ほうじゃ聞いて驚きぃマリちゃん? なんと入部希望者が来たんよ!」

「きぼーしゃ?」


 少女は身を低くし、水槽越しにこちらを見つめている。ボブカットにしている髪型のせいなのか背丈の小ささのせいなのか、少女はかなり幼い雰囲気をまとっていた。しかし部長に対する喋り方などから考えると、実は年上なのかもしれない。


「ささ、今から自己紹介も兼ねて活動ん説明するけぇ、座って座って」

「あ、どうも。瑚登子、隣だよね?」

「うん……」


 志伊良部長によって机の周りに木製の椅子が用意され、ソファに座っていた少女は自ら木の椅子へと移動し、水槽の向きを自分の居る方へと変えた。あたしと瑚登子はソファに座るように促され、部長は向かい合うような形で椅子に腰かけた。


「さて、ほいじゃ二回目じゃけど、ウチは深海みうみ 志伊良しいらじゃ。海洋研究会の部長やっとるよ」


 水槽の少女が小さく拍手をする。


「はいはい、ありがとなマリちゃん。あ、こん子が昨日言うとったもう一人ん部員の子じゃ」

「こんにちは」

「あ、はい。えっとお名前は……?」

「マリン」

「ああ、今んは名前ね。フルネームは楯櫛たてぐし 円鱗まりんっちゅうんよ。二年生じゃ」


 楯櫛さんは再びサッと身を低くし、水槽越しにこちらを見つめる。


「この子、イエローコリスのコリスちゃん。コリスちゃんも、ごあいさつしてる」

「マリちゃんは魚と会話が出来るんよ。じゃけぇホンマよ、ホンマに挨拶しとるはず」

「あ、ははは……そうなんですねー……」

「うそじゃない」

「い、いえ疑ってるとかじゃないですから……」


 志伊良部長がかなりまともな人だったため、まさかもう一人の部員だという人がここまで特殊な人だとは思ってもみなかった。少なくとも自分の周りには居なかったタイプの人だが、魚と会話が出来るというのも事実なのだろうか。


「はい。ほいじゃあ次は二人じゃね」

「あ、はい。今年入ってきました。一年生の此岸このぎし 陸梛りくなです」

「りくな。コリスちゃん、りくなだよ」

「それと隣のこの子が、同じく一年生のうなぎ 瑚登子ことこです。あたしの幼馴染ですね」

「あ……鰻です……ども……」


 瑚登子はめり込んでしまいそうなほど引っ付いてきており、人数が少ないとはいえあまり居心地は良くなさそうだった。とはいえ、志伊良部長も楯櫛先輩も悪い人ではなさそうなので、仲良くなれさえすれば瑚登子でも大丈夫そうではあった。


「自己紹介はこんなとこじゃね。入部は此岸ちゃんだけなんよね?」

「はい。瑚登子はお店の手伝いとかもあって……」

「お店? なんかやっとるん?」

「実家が魚料理のお店なんです。『鰻のぼり』っていうお店、知りませんか?」


 部長はピンと来たらしく、声を上げた。


「ああっ、あれ鰻ちゃんとこの店なんじゃ!?」

「あ……へへ……ま、そ、ですね……」

「行ったことある。おいしい」

「ウチもあるよ。はぇ~世界は狭いもんじゃなぁ。ほいじゃったら、鰻ちゃんもいつでもここ来てええよ?」


 どうやら志伊良部長は瑚登子の実家には小さい頃からよく通っていたらしい。瑚登子は基本的に厨房に居るため知らなかっただけで、常連だったのだ。それもあってか瑚登子に対して親近感が湧いたのかもしれない。


「か、考えときます……」

「あはは……。あ、あたしは入りますので」

「ホンマにありがとな此岸ちゃん。ほいじゃあ入部届出してね」

「はい。今書きますね」


 鞄から入部届を取り出し、記入欄に名前と希望の部活名を書いていく。

 人数が少ない部だが、むしろ集中して色々と聞ける立場なのは良かったかもしれない。あまり詳しくない自分でも、部室の中を見れば海に関する様々な事をしている部なのが一目で分かる。ここであれば、トラウマ克服とまでは行かずとも波梛の夢を叶えるための知識を得ることが出来るだろう。

 書き終えた書類を瑚登子にしがみつかれたまま立って部長へと手渡す。


「これから、よろしくお願いします」

「うん。よろしくなぁ此岸ちゃん」

「りくな。コリスちゃんもよろしくって言ってる」

「は、はい。楯櫛先輩もコリスちゃんもよろしくお願いします」

「まりんでいいよ」

「い、一応先輩なので、じゃあ円鱗先輩で……」

「いぇーい」


 部長は入部届を自身の鞄へと入れると椅子に座り直した。それを見て同じくソファに座り直す。


「さてと、ほいじゃあ初日は何の活動にしようかのぉ」

「ぶちょー」

「ん? どしたマリちゃん」

「水槽の管理がゆーせん。コリスちゃん、そう言ってる」

「あー、確かにほうじゃね。絶対にやらにゃいけん事じゃし」

「えっと、どういうことですか?」


 聞いてみると、ここにある水槽は全て志伊良部長と円鱗先輩が管理しているらしい。たまに顧問の先生もやってくれるそうなのだが、基本的には二人でやるそうだ。


「二人じゃったらすぐよ? 此岸ちゃんもおったらもっとすぐんなる」

「コリスちゃんも、そう言ってる」


 水槽の管理ということは、水を抜いて入れ替えるということだろう。昔、小学生の頃に飼育係をやっていた瑚登子が、メダカの水槽を掃除したりしていたのを見たことがある。海の魚でもそこは同じなはずである。

 つまり、魚を触らなければいけない可能性が極めて高い。


「えっ……と、まずは初めてですし一個だけ教えてもらえません?」

「水槽一個だけっちゅうこと? まあ別にええけど、そんなにしんどうないよ?」

「かんたん。すぐ」

「いええっと……あたし覚えるのに時間かかるもので……」

「ああ、そういうことね。ほいなら仕方ないね。でも安心してええよ。ウチもマリちゃんも慣れとるけぇね!」


 そう言うと志伊良部長と円鱗先輩は立ち上がり、近くに置かれていた少しだけ水が濁り始めている水槽を机へと持ってきた。


「さ、ほいじゃ早速始めるで!」

「は、はい」

「陸ちゃん……わ、私も経験あるからさ。も、もしもの時は頼ってね……」


 ギリギリあたしにだけ聞こえそうな声で申し出てくれた瑚登子に小さく返事を返し、人生初の水槽の掃除に取り掛かることにした。

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