第4話

ペタペタと、スリッパの音が二人分、静かな廊下に響きわたる。職員室を通り過ぎ、保健室を通り過ぎたその先に『相談室』と書かれた部屋があった。『外出中』の札をひっくり返し『在室中』に変えた。ふんわりと畳の香りが鼻をかすめる。


「改めまして、相談室担当医の立花 千晴です。千回晴れる。と書いて、ちはるです」


私は、促された席に座りながら真向かいに座ったその人を観察した。首から下げられた名札には『相談室担当医 たちばな ちはる』と書いてある。唇の下のほくろが、なんだか印象的な人だ。少し、緊張している。娘のことで学校に来ることは、久しぶりだった。特に問題もない、大人しい子だったから。


「はじめまして。加賀美 小和と、いいます。小さい和で、こよりといいます」


なんだか流れで、自分の名前を説明してしまった。昔から私は、この名前があまり好きではない。

ふぅと、息を吐く。こんなことを話に来たわけではない。娘のことを、まおのことを、きっとこの人は何かを知っている。


「あの、まおのことであなたは何か知っているんじゃないですか。最近あの子、部屋から出てこなくて、ご飯も食べてないんです。いじめとか、なにか、あったんですよね??」


「落ち着いてください。かがみさん。今のまおさんの状態は、どんなものだと思っていますか?」


私が聞いたのに、全く違うことを聞き返してきたことに少し腹がたったけれど、グッと我慢した。


「甘えじゃないですか。学校に行きたくなくて、勉強したくなくて反抗しているだけでしょう。それか、いじめがあって学校に行けないとか」


相談室担当医は、じーっと私の目を見つめてきた。多分私が落ち着くのを、待っていたんだと思う。1分近く、無言の時間が流れた。


「まおさんの今の状態は、病院へ行くべきものです。学校に行けない、ご飯を食べられない。もう、3週間近くになるんじゃないですか。それは非常に危険な状態です。まおさんの身体にも、それから心にも何かの原因がある。ということなんです」


「心、ですか?」


全く想定していなかった言葉に、驚いた。


「心です。まおさんはとても、とても強い子です。けれど今は、心が悲鳴をあげているんです。日常生活にまで影響が出るほど。危険なんです、とても。だから1度、まおさんを精神科へ連れて行ってはもらえないでしょうか?」


精神科。聞き馴染みのない単語。人生において関わりのないはずの場所。思わず、笑ってしまう。


「精神科?そんなところに連れて行って、どうしろって言うんです?」


次の言葉を放つために息を吸った一瞬で、発言権を奪われた。仕方なく、呼吸に変えて吐き出す。目の前に座る相談室担当医は、真剣な目で真剣な表情をしていた。


「精神科と言うと、行きづらい場所。というようなイメージをされがちですが、普通の病院と何ら変わりありません。内科が身体を治療するように、耳鼻科が耳や鼻を治療するように、精神科は心を治療するところです。ただ、それだけです」


一旦、言葉を切る。いつもの私ならそこで口を開くけれどその時は、次の言葉を待った。待たなければいけないような気がした。


「お母さんに頼みたいことは一つだけです。精神科へ連れて行って、まおさんの心を治療するお手伝いをしてほしいんです。何か困ったことがあれば、私が全面的に協力します」


私はそこでやっと口を開く。ただ、さっきまでの勢いは消えてなんだか落ち着いていた。荒れた感情を落ち着かせるような力がこの人にはあるのかもしれない。


「分かりました。とにかく一度、連れていきます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜明け前、世界 せなみあお @kokona0216

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ