後篇-雲外想天

 親鳥の体は、ふわりと浮かび上がり、雲の上へと押し上げられる。

 刹那、親鳥は目の前に広がった光景に目を見開き、息を呑んだ。



 雲海の奥、真っ赤な太陽から放たれた金色の光が、矢の如く体を貫いた。


 瞬く間に視界いっぱいに広がる、眩い朝陽の輝き。一日の目覚めを華々しく知らせる、力強いこの世界の鼓動。幾重にも連なる雲の波間が、照らされて朱色に染まっていく。

 この朝焼け以上に真っ赤なものを、親鳥は知らなかった。



 言葉を失ったのも束の間、親鳥は気が付く。

 朝焼けに浮かぶ、小さな影がひとつ。ぎこちなく、懸命に翼をはためかせている。


《見つけた……!!》      


 無事だった。生きていたんだ。

 胸を撫で下ろすより先に、親鳥は一心不乱に風を掴み、その影のもとへ飛び寄った。雲を突き破ったときの裂けるような痛みも、まるで嘘であったかのように消え去っていた。


 羽並みが分かるほど近づいたとき、親鳥は腹の底から呼びかけた。


《おい!! 心配したんだぞ! 急に出て行ったりして、怪我は————》


 しかし、父親の言葉を遮るように、息子は大きく一回翼を仰ぐと、落ち着いた口調で語り掛けた。


《……なぁ、父さん。いい眺めだよ、ここは》


 何かを悟ったように、妙に穏やかな口調だった。


 見ると、息子の体はボロボロで、羽根も随分抜けてしまっている。とても、こんなところを平気で飛んでいられる状態じゃない。

 と、親鳥はそのとき初めて、息子が普通に空を飛べていることに気が付いた。


《知らなかった、雲の上がこんなに美しいなんて。飛ぶ前は知らなかったんだ》


 息子の黒い目には、溢れそうなほど黎明れいめいの光が映りこんで輝いている。その瞳は期待に満ちているような、不安に怯えているような、不思議な色に揺らいでいた。

 どうして、飛べるようになったんだ。どうやって、こんな高くまで飛んでこられたんだ。母親である彼女ですら、最期まで強風の中では飛べなかったというのに。問いただしたいことは多々あったが、息子の神妙な面持ちを見ていたら、そんな疑問もすべて後回しにしようと思えてくる。


 不意に、息子は決意に満ちた横顔で呟いた。


《生まれてきた意味は、この翼で――自分自身で掴んでみせる。もう二度と、価値がないだなんて、言ったりしない》


 それは、彼の口から初めて聞いた、生きたいという願いだった。



《————約束する。この美しい朝焼けのそらに》


 風を受けて震える翼に、朱色が一際美しく輝いた。

 息子の言葉に、親鳥は思わず目を瞑る。瞼の裏に映るもう一つの影を想う。


 この世界には、まだ知らない美しい景色がいっぱいあるはずよ。

 いつか、ひとつひとつ噛み締めるように、この翼で飛んで回りたいものね。



《————ああ。この子と一緒に、叶えていこう》


《……なに?》

《いや、いいんだ》


 怪訝な顔をする息子に、優しく首を振った。


《帰ろう。渡りの準備だ》

《…………? うん》


 翼を翻し、ゆっくりと下降を始めた二つの影。

 旅立ちの朝を見送るように、並んで飛んでいく彼らの背中を、朱色の陽光が優しく照らしていた。



<了>

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空の色に翼を 亥之子餅。 @ockeys_monologues

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