空の色に翼を

亥之子餅。

前篇-暗雲底迷

 一羽の渡り鳥が、懸命に鳴き声を上げた。

 酷い嵐だった。どうどうと風が唸り、大きな雨粒が翼を打ち付ける。だがそれでも、お構いなしに一心に鳴き続けていた。


《おおい!! どこだ!! どこにいる!!》


 その鳥は、姿が見えなくなった息子を探していた。

 あの子は生まれつき体が弱いんだ。こんな暴風に曝されて、無事で帰ってこられる保証などどこにもない。まだ、飛ぶことすら覚束ないというのに。


《父さんだ!! 返事をしてくれ!!》


 ————私だ、これは私のせいだ。

 親鳥は胸に湧き上がる後悔を押さえつけるように、無我夢中で叫び続けた。


 ***

 

 あの子の母親は、どこまでも美しく、心優しい鳥だった。


《この世界には、まだ知らない美しい景色がいっぱいあるはずよ》

《いつか、ひとつひとつ噛み締めるように、この翼で飛んで回りたいものね》


 口癖のように彼女はそう言っていた。


 しかし、群れの仲間たちは彼女のことを良く思ってはいなかった。

 彼女の翼には、同種では珍しい朱色の痣があった。往々にして、変わり者は周りから忌物として避けられるものだ。あいつがいると群れに不幸が起こる――そんな心無い言葉を陰で囁かれるのは日常だった。

 しかし当の彼女は、そんな扱いを気に留める様子もなく、むしろ自身のトレードマークとして私に自慢げに見せびらかしてきた。明るくて強かで、どこまでも前向きな心の持ち主だった。


 この子が何不自由なく生まれてこられるように。卵を産むその直前まで、誰よりも我が子の誕生を心待ちにしていた。


 しかしそんな彼女も、身体の方は貧弱だった。病気をしがちで、飛ぶのも容易ではなく、少し強風の吹いた日には巣から出ることもままならなかった。

 ――——ゆえに、産卵の負荷に体が耐えられなかったのだ。


 どうか、この子を優しくて強い子に――。


 そう言い残して、彼女は私の翼の中で事切れた。卵から孵った我が子の顔を拝むこともできずに。


 おそらく、息子は少なからず母親の死に責任を感じているのだろう。だが、どうしたって彼は実の母の顔を知らない。愛情を知らぬ子は、私の眼を鋭く睨みつける。


《こんなろくに飛べもしない体で……いっそ、生まれてこなければよかったのに!》


 そう叫んで振り払った小さな翼には、母親と同じ朱色の痣が震えている。何の因果か、病弱と同時に遺伝したらしい。しかし、彼女は痣を誇りに思っていたが、息子は同じではなかった。周りから指を差される恥辱に、幼い頃から何度もその体を呪っていた。それゆえ、私はその痣が母親から貰ったものだと、未だに息子には告げられずにいた。

 彼には、何の罪もない。ましてや母親である彼女もそうだ。すべては、この子に何もしてやれない父親失格の私が招いたこと。

 そんな内々の自責に構うはずもなく、残酷にも息子は勢い任せに詰った。



《はっきり言ってくれよ、父さん! 僕に生きている価値なんかないんだろう!》



 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらわめく息子に、私は何も言葉を返せなかった。

 本当はそんなこと、心にも思っていなかったはずだ。否定してほしかっただけだ。だが、無責任に慰めることが、この名ばかりの父親にはできなかった。


 ————沈黙を肯定と受け取った息子は、遂に絶望して巣を出ていった。


 ***


 群れの仲間たちは、そろそろ渡りを始めようとしている。急がないと、旅の出立に間に合わない。それはつまり、息子を見捨てるということだ。


《頼む……戻ってきてくれ……!!》


 黒く唸る風が、無情にも父の願いをかき消して渦巻く。


 いよいよ飛びつかれて、親鳥は木陰に降り立った。朝日が出ても良い頃のはずなのに、あたりは深夜のように暗く、叩きつける雨粒は一寸先の視界をも奪う。

 最悪の想像がいくつも浮かんでは消えて、小さな心臓を握り潰そうとする。


《くそっ……どうしてこんな……》


 あの子が何をしたというのか。ただ人より病弱に生まれてきただけじゃないか。昨夜の言葉も、自棄に走ったのも、すべて彼が背負わされた不条理な運命が故なのだ。彼の本心で招いたことではない。なぜ、世界は彼ばかりにこのような結末を与えるのだ。なぜ、私の周りから大切なものを奪っていくのだ。


 ……違う、恨むべきは私自身だ。この私がどこまでも不甲斐ないばかりに、彼女だけでなくたった一人の息子さえも失ってしまうのか。


《ああ、息子よ。本当は私こそ————》



 半ば諦めかけて、天を仰いだその時だった。



<続>

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