母の面影をいつか君に。
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
ははのおもかげをいつかきみに
トルカ共和国と我が国であるカトルビア帝国との外交交渉によって結ばれるはずであった戦争回避の条約、カトルビア帝国にとって小国の小言など多少聞き入れることに問題はなく、後世の歴史家でさえも条約はトルカ共和国に有利であったと称するほどのソレをトルカ共和国議会は否決した。
そして、あろうことか国境を接するスートルランド州の一部を割譲という名の返還を声高々に叫び一方的な要求を突き付けてきた。
「我が国の……」
外務大臣のリッペ伯爵は眼前で、一言、一言をしっかりと噛み締めるように言葉を紡いでいるトルカ共和国全権大使のライト女史が放つ言葉に敬意を払い、リッペは直立不動の姿勢で聞き入れていた。
どれほど長い折衝をしたのだろう、どれほど、真摯に向き合い、裏で腹の探り合いをし、互いの政府を説得するという努力を続けてきただろう。
あと少し、あと少しのところだった。
トルカ共和国の前大統領が病に倒れて息を引き取り、後任の大統領が選挙で勝利するまでは……。
「以上であります。回答期限は明日午前0時までとさせて頂きます。その後は…」
唇を固く固く噛み締めたライト女史、その悔しさを眼前して、もう一度手を差し出して隣の交渉のテーブルを進めたいとリッペは考えてしまう。けれど、それはもはや意味をなさない、既に幾度か手を染めてしまったが、トルカ共和国の現大統領は一粒の譲歩さえも示すことを許さなかった。
「貴国に対し宣戦布告を致します」
噛み締めた唇から流れ出ている血を啜ったライト女史は、しっかりとした手つきで正式な外交書簡。いわゆる最後通牒をリッペへと差し出した。しっかりと張り出したお腹に宿る命を思い、彼女の顔以外は見ないようにリッペは心掛けてそれを手にした。じっとりと手汗で湿ったそれはこの先の未来を予感させるように、血濡れたようで酷く気持ちが悪い。
互いの外務官僚は受け取る姿を数枚の写真に収めてゆく。普段の笑顔はない、厳しく険しい顔つきの2人が並ぶだけの写真は部屋の明かりとは対照的に酷く暗い雰囲気を纏った。
今回だけはリッペはマスコミ対して一切の取材を許可しなかった。それは1人の外交官として、1人の子供の母親になる女性として、最後の最後まで戦争を回避すべく国内国外の外交戦争を戦ったライト女史へ贈るリッペの最大限の敬意と気遣いだ。
次に出会う時、それは戦争犯罪人を裁く法廷で間違いかもしれないと思うとやるせない気持ちになる。
「貴国の条件、及び、達せられなかった場合の宣戦布告を了承しました」
リッペ伯爵はその手に受け取ったモノが石板のように重みを増してゆき、その紙面から更に血生臭ささえも感じた。やがて手放したくなるほどの嫌悪感を抱き、思わず触れている手指をできるだけ触れないように、尚且つ落とさない程度に数ミリの間を空けた。
「外務大臣閣下、良いお返事を期待しております。失礼を致します」
「お返事は難しいでしょう。では。」
書類を秘書官に手渡してリッペはライト女史の手をしっかりと握る。そして労うかのように優しく優しく握手を交わした。彼女も同じような握手をしてくれることが嬉しく、そして通例通りの挨拶を終えて別れたのだった。
戦渦に倒れてもう二度と会えないかもしれないと考えが及んだのは、握手より数時間後々の事だった。
両国の状況が悪化の一途を辿り始めたのは、思い返せば先ごろの選挙の結果からだ。
トルカ共和国の選挙自体は旧大統領の思想を受け継ぐ陣営の勝利が確実視されておりカトルビア外務省もそれほど警戒をしてはいなかった。他国の選挙であるので内政干渉は行わないが、精力的な企業誘致や観光キャンペーンを行って、国家間や企業交流を通じて好印象を与えておこうと手を打っていた矢先のこと、投票日が2週間後に迫ったある日より正体不明の投稿がネットに溢れ始めた。
最初はカトルビアを柔らな言葉で敵視や疑問を投げかける投稿だった。
外務省調査部はこれをあまり重要視することはなく、報告書は作成したものの、誰も彼も口にすることもなかった。だが、これを殊の外に問題視したのが国防省中央情報局だ。諜報戦に特化した彼らはスパイ網と冷静な状況分析を行いある結論へと達した。
「カトルビアと覇権を争うシーリ連邦が選挙戦に介入している」
その情報が外務省に伝えられても省内に信じるものは少なかった。歴然とした国力差にそんな暴挙に出るものはいないだろうと甘い判断をしてしまったのだ。
そして2日ほどすると事は起こった。
スートルランド州とトルカ共和国が接する国境付近で軍同士の小競り合いが起きた。互いに発砲をしたとのことであったが、詳細は不明だ。
両国間では外交的な解決のため直ぐに話し合いが持たれていた最中、トルカ共和国内でカトルビア人の若者グループが日曜日のショッピングモールにて無差別な通り魔事件を起こしたのだ。子供を含む数多くの死傷者を出したこの事件はセンセーショナルに報道され、トルカ共和国内のナショナリズムは最高潮に達する。そして逮捕されて拘留された犯人達に面会した大使館員が驚愕の情報を報告を伝えてくる。
「ネットで稼げると言われて応募した。そしたらショッピングモールにいる数人の裏切り者を殺せと言われたんだ。見張もいてやらないと家族皆殺しにするって……、全部聞かれて答えてしまったから、もう、やるしかなかった」
結果、この二つの事件が引き金となり、トルカ共和国はカトルビアと決別する道を歩み、そしてカトルビアがいくら否定したとしても、これはカトルビアに指示された者の犯行だと断定する投稿ばかりが信頼された。
国防省中央情報局が投稿者をスキャニングして調べ上げた結果と、トルカ共和国内において、違法ではあるがその投稿者を拘束し、我が国内で秘密裡に尋問を行ったところ、シーリ連邦の工作員であったことが判明した。
だが、それが分かったところでもう意味などなかった。
一度、沸騰してしまったナショナリズムは止めようがない。
トルカ共和国の選挙は与党の大敗、そして我が国に対して徹底的な調査などを求める新大統領の政権が発足した。彼らの軍備は発足後にシーリ連邦からの支援という名目で格段の向上を見せたものの依然として天と地ほどに開いているのに、新しい指導者は武力による攻撃も辞さないと憚らなかった。
そして今回の災厄な結末へと結びついたと言う訳だ。
「スキッド、率直に言ってくれ、攻めたらどれくらいで落ちる」
参謀指揮司令本部(総司令部相当)本部長の重積を担う旧友のスキッド元帥をリッペは閣僚会議の間に議会内の小部屋へと連れ込んで尋ねてみた。
「大きい戦いは2週間だ。徹底的に陸海空から鉄の雨を降らせて、後に地上戦力で鉄の砂を浴びせる。それだけだ」
「トルカ共和国も我が国に比べれば小さいとはいえ国土は広い、すべてを行うのか?」
「いや、中枢を一撃で叩く。容赦なく叩く。こちらも兵士の損害は少なく済むのがいい、主要5都市を壊滅状態にし、以降は地上戦力と航空戦力による残党狩りだな。陛下は戦争を毛嫌いされているし、戦後の併合も支配も望まれていない、だから、軍はトルカ国内で内戦を望むことにした。それを今回の戦いで作る予定だ」
「内戦……。防衛と称して我が国の国防力維持のためにか?」
「ああ、その通りだ。言い訳もしない。盾と鉾を持つものは倒すに容易くはないが盾だけのものは倒しやすいからな、それに内戦ならいつこちらに飛び火してくるか分かったものではない」
「古い諺を……」
カトルビアの古くからある騎士の諺だ。
利口なものは盾と鉾を持つ、守りやすく攻めやすい、そして、何があっても立っていられるからだ。
愚かなものは盾のみを持つ、その足元を掬えば終わりであると知らずに。
「ここだけの話だが、軍はお前に感謝もしている、そして同情もしているんだ」
「どういうことだ?」
「お前が外交交渉で踏ん張っていてくれた間に国境部隊を強化と増派できた。だが、それは表向きの話だ。お前は最後まで和平に拘っていてくれた。戦争なんて誰しもが嫌さ、家族や恋人や趣味に明け暮れてくらしたいのは軍人だって市民と変わらない。国内で弱腰とバッシングを受けたあの条約草案でさえ軍の殆どは支持をしていたよ」
「そうか……」
「他言無用だがな、将兵を無駄に死なせたくもない、復興は関わればシーリ連邦が関与を強めてくる可能性もある、なら内戦の泥沼にしてしまうのが一番だ」
「なるほど、こちらも割を食うが、向こうも割を食うわけだ」
「ああ、おっと話はここまでだ」
互いの副官が主人を呼びに来たので2人は窓の外にみえる景色を見ながら懐かしい話をしていたかのように誤魔化したのだった。
「リッペ伯爵」
書類を首相府へ送る外務大臣ケースへと収納し、移送に関わる各種手続きをしていた秘書官が受話器を差し出してきた。
「ん?」
「軍より、いえ、スキッド元帥より、連絡が来ております」
「ああ、ありがとう」
受け取った受話器を耳に当てる、聞こえてくるのは騒々しいも倍にもした喧騒の中から発せられる声だ。空気を搾り出すかのようなジェット戦闘機の飛び立つ音を察するにファイティングセイラーの異名を持つスキッド元帥らしく艦上の人なのだろう。
陸地と海から当たり前の戦術だ。トルカ共和国の首都は海に近い。
「これ見よがしだな」
「ああ、開戦と同時に徹底的に敵艦隊を叩き、目の前で戦意を喪失させてから、集中的に首都を叩く」
「そうか、犠牲者数は?」
「一応は主要施設のみだ、新開発の地下共鳴振動弾を使用するから、被害は広範囲になるだろうがね」
「できるだけ少なく頼む、こちらも対応に苦慮する事態だけは避けたい」
「ああ、遂行上において考慮はする」
そこでスキッド元帥は咳払いをした。
深い、深い、喉の詰まりを取り払うかのような咳払いだった。
「駄目だったか……」
呟くほどに小さな独り言のような声、されど喧騒でもよく聞こえる。
「ああ、駄目だった……」
同じく呟くほどに小さな独り言のような声、されど相手には聞こえる。
「忙しいところすまなかったな、無理はするなよ」
「なんだ、ご武運をとは言わないのか?」
「馬鹿かよ、お前が死ぬようなことがあったら災厄な結末の一歩前じゃないか」
「それもそうだな、じゃ」
電話は切れる、途切れたことを伝えるツー・ツーという音が耳にむなしくリッペの耳に響くいた。
視線を窓に映すと帝都の素晴らしい夜景が広がっていた。とても綺麗なものだ。わが国自慢の夜景だ。そこに生きるすべての人々の生活が光となって表れており、トルカ共和国でもそれは今まさに営まれている。彼の国には外交交渉で何度か赴いたことがあり、首都の明るさは帝都と大差ないほどであったことを思い出させた。
ときより選挙という制度が嫌になる。
リッペは上院議員で貴族議員の出身であるから選挙経験はない。
外務大臣の椅子はその分野に長く携わっていたが故に腰を据えているようなものだ。閣僚15人の内、上院議員の閣僚枠は5人、上院議員と貴族階級は首相にはなれないことが法律により明文化されている。
マスコミよりも便利なツールが情報を拡散するスピードを早め、そして短絡的な思考をまき散らし、個人的な見解をまき散らす、立候補者自身の言葉が届かなくなるほどに歪むことさえある。
そして今回のトルカ共和国の一件。
凝り固まった選挙制度の思考から、そろそろ、変化すべき頃合いだろう。
この国は大丈夫だとも言い切れない。
上院は最後の牙城であり、理性の院だ。歴史と現在と未来に照らし合わせて、下院から上がってくるものを精査して付帯意見を付けて差し戻すこともある。差し戻された法は下院で修正され、最終的に上下両院の合同議会で採決を取る。下院の議員数は多く民意は反映されやすい。
だが、間違いは起こることはあるのだ、人間が作った制度なのだから。
「ちくしょうめ」
秘書官が用意してくれた珈琲を飲みながら、口汚く罵る言葉を紡ぎ、リッペはしばらくぼんやりと窓から見える景色を眺め続けていた。
トルカ共和国は一カ月後に無条件降伏する。
国土の大半が焦土となり復興は進んでいない。カトルビアは国際連盟による治安維持と復興を提案し国連軍が派遣されているが、カトルビア軍の思惑通り、5年が過ぎた今も国家間の対立により復興は進まず内戦状態に移行した。トルカ共和国との国境沿いにはカトルビア軍が常時警戒のために特別予算を組まれて配置されている。
トルカ共和国は過去の栄光を取り戻すことは困難な状況と言わざるを得ないだろう。
ライト女史は開戦のおりに政権派に拘束され、公衆の面前で家族全員が銃殺処刑されたことが報告書となってリッペの元へと届けられる。書面を読みながらリッペはふと彼女を想い涙した。必死に両国の穏やかな道を探り続け、最後の最後に思いとは違う災厄の結末を口にせざるを得なかった哀れな外交官。素敵な微笑みと知性溢れる才覚を持ち合わせた彼女、失ったものの大きさにリッペは天に向かって冥福を祈った。
それから数日後のことだった。
ライト女史の産んだばかりの乳児が劣悪な環境下で実は生きていることを外務省情報部と国防軍中央情報局は掴んだ。外務省情報部はこの知らせを直ぐにリッペに伝え、彼の驚愕とその後の喜びようは伝えた職員さえも驚くほどのものであった。
その場より直ちにリッペはスキッド元帥に電話をかける、だがそれは外務大臣としてではなく、法律はあっても形骸化していた宮廷伯爵位の軍命令権を用いて、その乳児を救出保護するよう部隊派遣を要請したのだ。宮廷伯爵位の軍命令権の行使、この予算は全て命令者が支払うべきものと定められており巨額の支払いになるにも関わらず、リッペは躊躇うことなくスキッドに伝えた。
無論、スキッド元帥はこれを直ぐに承諾、命令を受けた海軍特殊部隊は苛烈な任務を遂行した。突入と銃撃戦を行いながら、子供用保護ポッドに入る乳幼児の携え、時にオムツを変え、時にミルクを飲ませ、時にあやし寝かしつけての、とても困難な救出作戦を遂行し秘密成功裡にカトルビアへと帰還を果たす。
現在リッペ伯爵家でリッペ伯爵とその夫人の周りを楽しそうに元気よく走り回っている養子縁組をした子供の姿に、リッペは時より在りし日のライトの姿を重ねることがある、5歳児とは思えぬほどの諦めの悪さ、良い意味でも悪い意味でも、泣き喚くではなく、粘り強く対話する姿にはリッペ本人や執事、教育係でさえも閉口してしまうほどの利口さも持ち合わせている。
きっと彼女は母のように強く育つだろう。
母と同じくらい素敵な女性になることは間違いない。
いつか話さねばならない、この子の母のことを。
芯が強く決して諦めることなく粘り強く交渉した姿を、そして最後の瞬間まで毅然としていたであろう姿を、語り聞かせなければならない。
伯爵家の当主執務の間、執事長しか入室を許されていないその部屋の端には数多くの記念写真が掛けられているが、その中の数枚は念入りに掃除するようにと伯爵から厳しく申し付けられていた。
笑い、悩み、苦しみ、怒り、喜怒哀楽を写した至って平凡でとりとめのないもの、そしてカトルビアに赴任した際、二人で撮影した初めての会談での和かなもの。
平凡でとりとめのない写真は海軍特殊部隊の髭面で厳しく粗野な隊長が救出作戦時に、部屋に散らばっていたモノを全てかき集めポケットへ突っ込んで持ち帰ってきたものである。
「母親の顔を知らぬは可愛そうでした。父親なんて知らなくても、母は知っておくべきですからね、ガサツに持ち帰ってしまったことを悔やんでなりません、そして健やかに育つことを願っております」
それは出産直後に撮影された一枚の上に添えられていた。
ライト女史の満遍の笑みを浮かべ生まれたばかりの赤子を抱いている写真と共にインクが滲み震えた字で書き記された手紙であった。
数十年後、爵位を先代から譲り受け継承したリッペ伯爵は、類稀なる粘り強い交渉によって、外務省と共にシーリ連邦と友好条約を締結した。そして荒れ果てたトルカ共和国の立て直しにも奔走し、この道筋を見事につけて見せた。
世界からピースメーカーとの渾名されるほどの交渉の辣腕家として名を馳せ、今も世界各地の紛争地を駆け回っている。
母の面影をいつか君に。 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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