三十六、追及
心地良い空気に満たされていた宴が、即座にぴしりと凍り付く。
悲鳴は、麗殊の向かい側から発せられた。
可憐な姫──梅妃が、両手を胸の前でぎゅっと握りながら、見開いた目で卓上を見下ろして叫ぶ。
「わ、わたくしの器に毒が……!」
──毒、ですって……?
麗殊は咄嗟に席を立ち、梅妃の視線を追う。
梅妃の発言を聞いた周囲は「毒!?」
「どういうこと?」と騒然としだす。
朧鳴帝が訝しげな顔をして、「何事だ」と梅妃に声をかける。
梅妃は玉座に顔を向け、卓上の
「この中に毒が混ざっているのです! よく見ていなければ、食べてしまうところでしたわ……!」
梅妃の台詞に広間が一層ざわめいた。
そんな中、彼女の後ろに控えていた侍女が、おずおずと口を開く。
「たしか、この食膳は桃妃様のご担当でしたよね」
おびただしい視線が麗殊は突き刺す。その矢を一身に受けたまま、呆然と向かいの席を見つめる。
「うそ」
毒なんて入っているはずがない。そんなもの知らない。いったい、何がどうなっているのか。
動揺している間に、梅妃は怯えた目でこちらを見て言う。
「まさか、桃妃がわたくしを? そういえば、昔にも同じようなことがあったと聞いたわ……」
昔。つい先程まで追体験していた椿妃の記憶。それが頭の中に鮮明に蘇ってくる。
「まさか桃妃様が……?」
「突然昇格して怪しいと思っていたのよ」
「なんて恐ろしいことを考えるのかしら」
各所から嬪たちの怪しむ声が上がり、麗殊へ向けられる眼差しがますます冷えていく。
「流石、甜の娘ね」
若い声を掻い潜って、嘲笑うような老女の声がやけにはっきりと耳に届いた。反射的にその声の方を見ると、口角を上げてこちらを見据える太皇太后がいた。
年月が経って皺の増えたその顔が、牢の中で見たあの恐ろしい顔と重なる。
──違うわ。やったのは私じゃ、椿妃様じゃない。
麗殊はその場でぐっと拳を握りしめる。皮膚に食い込む爪の圧で、なんとか身を保つ。
「私に確認させてください」
麗殊は心を落ち着かせて、梅妃の席へと歩み寄る。梅妃はひっと小さな悲鳴を上げて、退いた。
それには構わず、床に膝を着いて、卓上の食前を確認する。
──魚の身に異常はないわ。生姜も。
全体的な色にも変わりはない。不審に思いながらも、麗殊は箸を使って細かく見ていく。たれに絡んだ小さな欠片を摘み上げる。
「なに、これ」
麗殊は欠片の正体に気が付き、引き攣った声が漏れる。
たれの色が紛らわしく生姜と見間違いそうになったが、よく見てみれば違う食材だ。球根のような形の、何か。
「
死に至る猛毒。乾燥して薬として使われる場合もあるが、これは減毒されたものではなく強い毒性をそのままにしたもの。僅かでも口にすれば命が危ない。こんな危険なものを入れた覚えはない。
「桃妃、本当に毒が入っているのか?」
朧鳴帝の問いに、麗殊は恐る恐る答える。
「
「では、なぜ毒が?」
「分かりません。何者かが梅妃様を狙って毒を仕込んだとしか」
本当にわけが分からない。儀式によって疲弊した脳は上手く回らず、「どうして」という疑問だけが駆け巡る。
梅妃は侍女に支えられながら、麗殊に問い詰める。
「それなら、その何者かがあなたなのではないの?」
「断じて有り得ません」
「でも、あなたは毒にも詳しかったでしょう! 自分が隠し持っていたからではないの。仲良くなれると思っていたのに……」
掛け軸の毒を突き止めた時のことを言っているのだ。たしかに麗殊は毒に詳しい。しかし、この烏頭のことはまるで知らない。
「主上、桃妃を捕らえますか?」
朧鳴帝の側近の言葉に、麗殊はハッとする。己は今、椿妃と同じ状況に立っている。罪人として見られている。
──皆、私に疑念の眼差しを向けて……。
何か言わなければ。普段ならば冷静に弁明できるのに、動揺して上手く言葉が出ない。
「──お待ちを!」
そのとき、凛とした声が広間全体に響き渡った。
麗殊に向かっていた避難の視線が外れ、皆の注意が声の主──朔に集まる。
「此度の騒動に、桃妃様は関与しておりません。実は、私の配下も尚食局で食膳の監督をしておりましたが、ここに運び込まれるまで、梅妃様の食膳は異常ありませんでした。私が保証いたします」
朔は朧鳴帝に向かって澱みなく述べる。その隣にはいつの間にか蕾が控えており、「私が監視しておりました」と頭を垂れる。
「朔殿……」
彼の声を台詞を聞き、暗く澱んでいた視界が一気に明るくなる。
「では、なぜ毒が入っていたというの!?」
声を上げた梅妃に、朔は片眉を上げて尋ねる。
「あなたがご自身で仕込まれたのでは?」
「わたくしがそのようなことをするわけ──」
「ええ、動機は知りません。しかし、あなたの侍女が袖の中から毒を取り出すのをこの目で見ました」
「そんなの証拠なんてないわ。桃妃の方が怪しいでしょう!」
穏やかに微笑む妃はすっかりなりを潜めて、梅妃は苛立たしげに顔を歪める。
「桃妃様は食膳の仕上げには関わっておりません。それに、毒の出処は調査すればすぐに分かりますよ」
朔が返すと、梅妃が反論する前に朧鳴帝が小さく息を吐き出した。
「梅妃よ。朔はそう言っているが、どういうことだ。朕を騙したのか」
途端に梅妃の顔が青くなり、「そんな、違います!」と訴えかける。
すると、それまで静観していた太皇太后がおもむろに口を開いた。
「朧鳴、己の妃ではなく薬師を信じるのか?」
「正しい方を信じます」
朧鳴帝は間を置かずに言い切り、今度は全体に告げる。
「調査は大医局と司察局に任せる。皆、此度の件は口外せぬように。この場はこれで解散とする」
その一声で、宴は幕を閉じた。
梅妃とその侍女は司察局に連れられ、尚食局に監査が入ることになった。麗殊は駆けつけた司察から毒を所持していないか検査を受け、何も持っていないと分かると開放された。
麗殊は月燈殿の裏に一人で座り込む。立てた膝を腕で覆い、顔を埋める。
帰り際、栖遥や菊妃が心配そうに声をかけてくれたが、「一人にして欲しいの」と言って別れたのだ。
一度に色々なことが起きすぎて、気持ちの整理がつかない。
「……二十二年前の犯人は太皇太后だった。儀式でそれが分かったのはいいけれど……また同じような事が起きるなんて。梅妃様はどうしてそんなことをしたの」
彼女の恨みを買った覚えはない。絵画の事件が起きた時も、優しく接してくれていた。お礼にも来てくれたし。
──そういえば、梅妃様は椿妃様のことを知っていたわ。
先程も"昔"のことを話題にしていたし、以前も椿妃が尼僧になったという話をしていた。祖母が宮中に出仕していたとかで。
「あなたへの嫉妬じゃないのか」
考え込んでいると、頭上から声が降ってくる。顔を上げると、朔が腕を組んで麗殊を見下ろしていた。
「……あなたは、梅妃様が毒を入れる瞬間を本当に見たの?」
「どうして俺を疑ってるんだ。あなたを助けたのに」
「そうじゃなくて」
「正確に言えば、見たのは俺じゃなくて配下だが、信頼できる人物だ。間違いない。それに、あなたはやっていないだろう?」
さも当然かのように言う朔に、胸の内が暖かくなる。
「あなたは私を信じてくれたのね」
「もちろん」
それがどれだけ嬉しいことか。
牢の中にいる椿妃に南敬が「信じます」と言ってくれたとき、本当に心が救われた気がした。
──私も同じ。朔殿に救われた。
麗殊は立ち上がり、朔の目を見て「ありがとう」と告げる。
「どういたしまして。それで、儀式はどうだったんだ」
「それは……また後で話すわ」
「そうか。今から主上に呼ばれてるんだが、あなたも来るか?」
「いえ、主上よりも先に会わなきゃいけない人がいるの」
「ふうん」
朔は意味ありげに目を細めたが、何も言わずにそのまま去っていった。もしかしたら、彼も薄々勘づいているのかもしれない。
麗殊は一人で淑華宮の門の前に立つ。
何度も拒まれたが、今日は何がなんでも太皇太后と話をするつもりだ。
朧鳴帝の発言が椿妃への断罪を決定付けた。けれど、そこに罪はない。全ては太皇太后が仕組んだものだ。椿妃のためにも、彼女に罪を認めてもらわなければならない。
麗殊は翡翠の腕輪を撫で、そして、門を叩く。
しばらくすると門が開き侍女が現れたが、麗殊を認めると苦々しげな顔をした。
「
侍女が宮の中に声をかけると、太皇太后が姿を見せた。
「帰りなさい」
彼女は鋭利な声色で言い放つ。しかし、麗殊は引かない。
「あなたが、槐妃様を殺したのですね」
単刀直入に訊いた麗殊に、太皇太后は僅かに目を見張り、頬を引くつかせた。
深いため息を零し、首を傾げる。
「本当に、あなたもあの女と同じ能力を持ってるのね。過去を見たのでしょう? それで、あなたは私が憎いのかしら。恨んでいるの? そんな些細な過去のために」
「些細な……? 槐妃様が、椿妃様がどれだけ苦しんだと思っているのですか。残された甜氏も、矯氏もどんな想いで……」
汚名を被った甜氏の苦しみ。責任を感じて自害した祖父、大切な人を亡くし、今でもその悲しみを引き摺っている祖母や母の無念。矯の薬師も、朔もそうだ。
それらを麗殊は生まれた時からずっと浴び続け、この身に染み付いている。
麗殊は溢れそうになる感情を堪えて言う。
「お願いです。罪を認めてください」
「そんな昔のこと、もう忘れたわ」
太皇太后は麗殊を煙たがるように吐き捨てる。
「いいえ、忘れるはずがありせん」
「私に罪などない。罪があるのはあの女たち───」
太皇太后は言葉の途中で突然、咳を吐き出し、ぐうっと潰れたような声で呻く。頭を手で抑え、ふらふらとよろめく。
「娘娘!」
少し離れたところで様子を見ていた侍女が悲痛な声を上げ、駆け寄る。
しかし間に合わず、太皇太后はゴンッと鈍い音を立てて、石畳の上に倒れ込んだ。
「なっ……」
麗殊は状況が掴めず、その場に立ち尽くす。
まだ話の途中なのに。まさか、病?
「娘娘、やはり朔殿の治療を受けてください!」
侍女がしゃがみ込み、涙を浮かべて言うが、太皇太后は弱々しく頭を振りかぶる。
憎しみの籠った声で吐息混じりに呟く。
「忌々しい矯の呪術などに、頼るものか……」
もう一度呻き、かくんと顔が揺れた。
侍女が悲鳴を上げ、「誰か太医を!」と宮の中に向かって叫ぶ。
朧鳴帝は、太皇太后がもう長くないと言っていた。
──うそでしょう? このまま死んでしまうの……?
足の力が抜け、麗殊はずるずるとしゃがみ込む。
ずっと追いかけてきた仇が、目の前で倒れた。予想だにしない状況に、頭がおかしくなりそうだ。
「待って、まだ死なないで」
麗殊は生気のない白髪の老女を見つめたまま、脆い呟きを漏らす。
その晩、宮中に太皇太后の崩御が伝達された。
***
茉莉花の匂いが鼻をかすめる。太医の仮宿に植えられていた別の蕾が咲いたのだろう。
「大丈夫、じゃなさそうだな」
向いに立つ朔が言う。
太皇太后が倒れた後、主治医の征椑がやってきた。そして、その場で脈がないことが確認された。
麗殊は茫然自失になりながら、一人で桃晴宮に戻ってきた。いつの間にか数刻が経ち、皆に崩御が知らされた頃、朔が訪れた。梅妃の件はまだ事実確認中だというが、ここには儀式の結果を聞きに来たのだ。
麗殊は、幻食で見た椿妃の記憶をぽつりぽつり話した。感情が昂って拙くなる語りを、朔は静かに聞いていた。
「本当は、母上は太皇太后に殺されたのか」
そう呟く朔を前にして、麗殊の目頭が熱くなる。
「あの人は、罪を認める前に死んでしまったわ。謝罪もなかった。私、どうしたらいいの……椿妃様は報われたの……?」
嗚咽を噛み殺す。泣きたくないのに、涙が止まらない。
朔は微笑みを浮かべて、麗殊に語りかける。
「椿妃はきっと安心してくれる。大切なのは、真実が明らかになることだ。あなたは自分の力で真実を見つけて、それを俺に教えてくれた。……きっと、椿妃だけでなく、俺の母の無念も晴れたことだろう」
「本当に?」
「ああ。それに、太皇太后はきっと極楽にはいけない。あの世で罰が下るさ」
朔はこちらが欲しい言葉で慰めてくれる。この男の本心は分からないけれど、その気遣いに一層たまらなくなる。
──私ばっかり、くよくよしてたらだめね。
麗殊は指先で涙を拭い、「そうね」と頷く。
「この先は主上次第だな」
「ええ。明日の朝、この目で見たこと、聞いたことを全て伝えるわ。そして、主上ともちゃんと話をする」
「了解」
太皇太后が死んだ今、椿妃の汚名を晴らすことができるのは朧鳴帝だけだ。皇帝の一声があれば、全てが覆るのだから。
麗殊が決意を固めていると、朔が纏う空気を変えて切り出してくる。
「それでだ。蹴りがついたあとなんだが……」
「うん?」
勿体ぶるその様子に、麗殊は首を傾げる。
朔は滑らかに麗殊の手を取り、両手で包み込む。そして、琥珀色の眼差しをこちらに向けて言う。
「甜麗殊、俺と一緒になる気はないか?」
「何を言って……」
「後宮を抜ける方法はある。幸いなことに、俺の身分は悪くないから」
後宮を抜ける方法、とは。考えもしなかったことが途端に目の前に現れてくる。ここから離れて、朔と一緒になる。つまり──。
疲弊した脳は限界を迎え、麗殊はぽかんと口を開けて握られた手を見つめる。
「誰かのための人生は終わりだ。一緒にやり直そう。あなたにはここは窮屈だろう。明日、主上と話してからで構わないから、考えておいてくれ」
麗殊は、俯きがちに頷く。
この男は、いつも突拍子もないことを言って驚かせてくる。けれど今回は、それで戸惑うのではなく、胸の高鳴りを感じた。
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