三十五、七夕〈下〉

 かちり。

 微かな音が脳内に響くが、憶潜から抜け出さす気配はなく、そのまま視界が切り替わる。

 目を開けると、華やかな宴の場から一転して、冷たい牢の中にいた。格子戸の嵌められた狭い個室だ。その牢の中で、麗殊──椿妃は着の身着のままその床に膝を折っていた。


 格子の向こうに立つ若い司察が眉を下げて、椿妃に語りかける。


『椿妃様、私共は信じております。必ずや罪を晴らしてみせますので、どうかお心を強くお保ちください……!』

『南敬殿……』


 数年前、一度ひどく拒んで、罪まで受けさせてしまったのに。


 ──まだ、私にためにそんな言葉をかけてくれるなんて……。

 椿妃が心を打たれていると、若い司察──南敬の後ろから別の司察が歩いてきて、窘める。


『おい、南敬。過去の罪を忘れたのか。おまえは椿妃様に関わるな』


 その司察は南敬の背を押し、こちらに目を向けることなく、牢屋の外へと出ていった。


 それから、数分も経たずに椿妃の元へ女がやって来た。濃い赤の襦裙で着飾り、金の簪を贅沢にいくつも挿している。

 女──皇后は椿妃を見下ろし、口を開く。


『椿妃、反省したかしら』

『皇后様っ、わたしはやっていないのです! 何かの間違いでは──』


 立ち上がって格子を掴み、縋るようにこえをあげる。

 すると、皇后は満足気に目を細めて「ふっ」と息を吐き出した。


『田舎娘が思い上がりすぎたのよ。あの呪術師の女もそう。邪魔者が二人も消えてくれるなんて、一石二鳥ね』

『まさか、あなたが毒を……?』


 声がかすれ、喉の奥で途切れる。

 皇后は口角を上げたまま、饒舌に語り出す。


『あなたの一族は北の山に住んでいるのよね。ご両親と妹は健在でしょう? あなたが妃となったことで随分と暮らしが豊かになったとか』


 何も言えない。

 己は、この女にはめられたのか。


『皇后様、お許しをっ! 何かの間違いですっ、どうしてこんなことを……!?』


 皇后は、椿妃の悲痛な問いかけには答えず、わざとらしく声色を高くして困ったように言う。


『何を言っているの。皇帝の寵妃を殺して、さらには、わたくしや主上も狙っていたのでしょう? まあ……謀反ではないの。怖いわ』


 ──本気だわ。この人は、本気で私を……。

 喉が焼け付くように乾く。

 皇后が尚膳と通じて、槐妃の食膳に毒を仕込んだのだ。

 最上級の家柄かつ皇后という立場にいるこの女は、己よりも権威が非常に高い。きっと、この罪が晴れることはない。為す術がないのだ。

 皇后は演技めいた語りをやめ、声を低くして囁く。


『分かったかしら。罪を受け入れなければ、さらに重くなるだけよ。あなたと家族はどうなってもいいのね』

『おやめください! 家族は関係ないのです、罰するなら私を……!』

『そう。なら、今夜中にこれを飲みなさい』


 皇后は袖の中から白い小瓶を取りだして、椿妃に手渡す。


『拒むというのなら、妹に責任をとらせるわ。ここの拷問は地獄よりも恐ろしいというけれど、耐えられるかしら』


 椿妃は小瓶の意味をすぐに理解した。


 ──妹を引き合いに出すなんて、ひどいわ……。

 皇后が牢屋から出ていった後、床に頽れる。小瓶が手の中から、床へ軽い音を立てて転がった。


 あれからどれほど経っただろうか。

 失意に沈む中、ぱたぱたと足音が響き、少年──朧鳴が椿妃のいる牢へと近づいてくる。

 椿妃は驚き、格子に駆け寄る。

 すると、朧鳴が小声で話しかけてきた。


『椿妃様!』

『どうやって来たの? こんなところに来たら、怒られるわ』

『若い司察の人が入れてくれんです。ごめんなさい、僕は椿妃様じゃないって言おうとしたのに……。椿妃様のためにも、今は頷きなさいって……』

『そう……あなたは悪くないわ。さあ、はやく帰りなさい』

『椿妃様、きっとおじい様とおばあ様が出してくれるはずです。ちょっとだけ待っててくださいね!』


 椿妃は悟る。きっと、祖母の企みをこの子は何も知らないのだ。あのときは本当にこちらの身を案じて頷いたのだと。

 椿妃は格子越しに手を伸ばし、朧鳴の頭を撫でる。


『……あなたは優しい子ね。ありがとう』


 朧鳴は嬉しそうにはにかんで、『また来ますからねっ!』と言って外に駆けていった。

 椿妃は彼の後ろ姿が見えなくなっても、しばらく格子の向こうを眺めていた。

 やがて、おもむろに小瓶を手にして蓋を開け、目を瞑り、唇の中へと傾けた──。



 かちり。

 一際大きく頭が揺れて、目を覚ます。今度こそ憶潜が終わり、現実に戻ってきたのだ。


 麗殊は呆然と目の前の鰣魚シーユーを見つめる。

 こんなにも長い記憶を見るのは初めてだった。

 今食べたのは、椿妃が最期に口にした料理であり、冤罪の元となったもの。強い怨念が染み付いていたのだろうか。


 ──辛い、苦しい。

 先程まで、己は椿妃の意識と完全に同化していた。椿妃の感じていた困惑、失意、絶望が自分のことのように思われて、儀式が終わった後もこびり付いている。

 竹妃の時はこんなことなかったのに。死者の魂身の感情にまで繋がれたのは、血の繋がりが濃いからかもしれない。


 ──主上は最初から、全てを知っていたのね……。あなたはどうして頷いてしまったの。いいえ、それは仕方のないことなのだけれど。

 ぽたりと膝元の手に雫が垂れる。無意識に涙が溢れていたことに気が付き、麗殊は手巾で目元を拭う。

 

「あれ」


 いつの間にか、身体を自由に動かせるようになっている。儀式が完全に終了したのだ。

 そんなとき、背後から「桃妃様、大丈夫ですか……?」と控えめな声がかかる。栖遥だ。

 彼女には出会った当初に能力のことは説明したが、今日の麗殊の目的は話していない。ただ「食事中は話しかけないで」とだけ告げていた。麗殊の様子が変わったので、声をかけてきたのだろう。

 右隣からも視線を感じて顔を向けると、菊妃が心配そうにこちらを見つめていた。


「ごめんなさい、大丈夫よ」


 麗殊は二人に聞こえるように告げ、ゆるゆると首を振る。菊妃は「それならいいけどね」と、今度は呆れたように肩を竦ませて、視線を逸らした。


 麗殊は涙を拭った後、両手の中で手巾を強く握り締める。


 ──謎は解けた。南敬の言う通り太皇太后の仕業だったわ。けれど、どうやって蹴りを付ければ……。

 嫉妬。椿妃が死を受け入れたのは、他ならぬ母を守るため。

 許せない、と思う。地位を振りかざし、心優しい椿妃につけ込んで罪を被せ、最期は死に至らせた。槐を殺したのもこの彼女だ。

 甜氏の中で唯一真実を知る者として、彼女に罪を認めさせなければならない。これが使命だ。


 それに、二十二年前の事件の真相は分かったが、まだ他に理解できないことがある。

 それは、朧鳴帝の心情だ。何を考えて、麗殊を後宮へ迎え入れたのか。彼の考えを明らかにするところまで、食解きは終わらない。


 複雑な心境の麗殊を他所に、宴は続く。

 広間の前方では、朧鳴帝は皇后と語らい、太皇太后は静かに青梅酒を口にしている。食膳にはあまり手を付けていないようだ。体調が優れないのか、それともを思い出したのか。


 麗殊が彼女たちの様子を観察していると、再び、背後から小さな声で「桃妃様」と呼びかけられる。

 そこには、先程とは異なりひどく焦った様子の栖遥と、そのさらに後ろに見慣れぬ宦官が立っていた。

 栖遥は膝を立ててこちらへとにじり寄り、低めた声で耳打ちする。


「朔様より"異常あり"との伝言です」

「え──」


 想定外の言葉に、麗殊は顔をしかめる。

 その瞬間。


「きゃあああっ!!」


 甲高い悲鳴が広間全体に響き渡った。

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