十二、新居

 朧鳴帝に問いの答えを奏した日の午後、夕立の上がった後に、下嬪宮へ炉辰ろしんと名乗る若い宦官がやってきた。例の、麗殊の冊封が記された勅書を抱えて。

 箏嬪と晏嬪は唖然とした表情を浮かべて、麗殊と炉辰のやり取りを見ていた。

 炉辰は石畳の上で淡々とした様子で勅書を開き、厳かに読み上げる。


「──充媛、甜麗殊を四夫人、桃妃に封じる。よって、今日より下嬪宮から桃晴宮へ移ることを命じる」

「御意、至極光栄に存じます」


 格上げは事前に告げられていたため、麗殊はその場にひれ伏して、平然と受け答えする。

 勅書を巻いて懐に仕舞った炉辰は、その場に膝を着き拱手する。


「桃妃様には、主に私と栖遥すようという侍女がお仕えいたします。精一杯尽くす所存ですので、どうぞよろしくお願い申し上げます」

「……こちらこそ、よろしく頼むわね」


 麗殊は毅然として返すが、その内心、四夫人の位の重さに少々呆気にとられていた。


 ──驚いた、ここまで変わるなんて。

 これまで、充媛として半年間生活してきたが、宦官に跪かれたことは一度たりともない。最低限の敬意は示されるが、それだけである。


「ここでお待ちしておりますので、お荷物などをご準備くださいませ。重いものは後ほど私共が運び出しますので、申し付けください」

「お気遣いありがとう」

 

 麗殊が礼を言うと、炉辰は軽く頭を下げて門の傍に控える。

 衝撃に加えて疲労が残っているのもあり、麗殊は半ば放心状態で、ふらふらと己の房室へと歩き出した。

 そこに、影で密かにこちらをうかがっていた晏嬪と筝嬪が忙しない様子で詰め寄ってくる。


「ちょっと!」

「麗嬪が桃妃ってどういうこと!?」


 驚愕と疑念の混ざった顔を押し付けてくる二人に、麗殊は少し後退って答える。


「昨日、主上の"問い"に答えを出したの」

「竹妃様が亡くなった理由が分かったってこと!?」

「どうやって……!?」

「静かに……! 他言無用ってのを忘れてはだめよ」


 ほとんど叫び声のような声を上げる晏嬪と筝嬪に向かって、麗殊はしっと指を口元にかざす。すると、二人は「「ごめんなさい……」」と項垂れた。半年同じ宮で過ごしてきて分かったが、この二人は感情を素直に出すので好ましい。


「じきに主上からお言葉が下るわ。悪いけれど、私は何も言えないの」


 麗殊は申し訳なさそうにゆるゆると首を横に振る。すると、晏嬪は猫目に、筝嬪は垂れ目に、悔しげな色を乗せてがっくりと肩を落とした。


「な、何よそれ……」

「まさか、雛嬪様じゃなくて、一番下の麗嬪が抜け駆けするなんて……!」

「もうっ、悔しいっ!」


 嘆く二人にもう一度謝り、麗殊は房室に戻って荷物を纏める。といっても大した荷物はなく、数着の襦裙と寝間着に羽織り、簪などの装飾を仕舞った箱と化粧道具くらい。あと、気に入っている鏡台は炉辰に運んでもらおう。

 麗殊は所持品を入宮した時に持ってきた横長の箱に詰めて、外に出る。

 すると、まだ晏嬪と筝嬪が同じところで何事かを話し合っていた。


「麗嬪がいなくなったら、あたしたち下嬪宮に二人きりに戻るってこと?」


 晏嬪が筝嬪に尋ねた。すると、筝嬪は僅かに眉を下げて「そうね」と頷く。


「静かな子だったけれど、いなくなると寂しいわね」


 半年間だが、この宮で過ごすのも悪くなかった。麗殊は後から来た新入りなのにも関わらず、晏嬪と筝嬪は気軽に接してくれた。


「二人とも、ありがとう。楽しかったわ」


 麗殊は二人に近寄って、礼を述べる。


「ふん、あたしも主上の寵愛を得て昇進してやるんだから」

「もう桃妃なんだから、下手に出た方がいいんじゃ……?」

「あっ、忘れてた……」


 晏嬪が麗殊に宣言したかと思えば、筝嬪の心配により二人はまだ話し込んでしまう。相変わらず仲のいい嬪たちだ。


 麗殊は二人に向かって「それじゃあね」と、もう一度小さく別れを告げ、炉辰に駆け寄る。嬪たちの会話をずっと見ていた彼はくすりと笑い、「元気ですね」とだけ言って東へ歩き出した。


 気を遣ってくれたのか、麗殊に与えられたのは竹妃の宮ではなく余っていた桃晴宮という大きな殿舎だった。

 他の四夫人と比べて黄瑞殿からの距離が遠いが、欠点はそれくらいだ。清掃は行き届いているし、花の香りも良い。広大だから気詰まりすることもない。


 栖遥は炉辰よりも一回り歳上で、淑やかで落ち着いた侍女だった。元は、今は亡き皇太后に仕えていたそうだ。

 炉辰と栖遥が麗殊の身の回りの世話を担い、他にも四名の侍女が桃晴宮に関わる雑用を諸々担当してくれるらしい。今まで侍女がいなかった麗殊にとっては突然の大所帯で落ち着かない。しかし、多くの侍従を抱えてこそ高位の妃であるところもあるので、慣れるべきだろう。


「静かね……」


 下嬪宮の自室よりも何倍も広い房室に一人きり。今までのように隣房室の声が聞こえることもない。

 特段することもない麗殊は早々に、天蓋付きの白い寝台の上に横になる。昨日は疲れが勝ってなんの夢も見なかったが、今日は竹妃の夢を見る気がする。


 幻食を行う度に考えることがある。私利私欲のために他人の心を覗く己は、鬼と同じなのではないかと。人は誰しも秘密を抱える存在だ。竹妃の死を暴いて四夫人となった己は、彼女に責められても文句は言えない。


 せめて、梅の香りを漂わせる哀しき姫が、安らかに眠れるように……。

 麗殊は心の中でそっと祈り、瞼を落とした。



 翌朝、黄瑞殿から御書が届いた。勅書ではなく、一方的な報告が書かれた文書だ。それはどうやら麗殊に限るものではなく、九嬪全員に宛てたものらしい。

 そこには、

 先日の問いには麗殊が最も納得できる答えを出したこと。麗殊を充媛じゅうえんから桃妃に格上げし、四夫人に置くこと。竹妃の死は急な病に関するものであったこと。

 など簡潔に連ねられていた。


「やっぱり、私の見解は公表なさらなかったのね」


 竹妃の死の理由を偽装したことは予想通りだった。むしろ、麗殊にとっても有難い。自死を知る者には個別にまた別の報告をしているだろう。

 他の九嬪はこの御書を読んで、"なんて身勝手な……"などと感じているに違いない。まだ朔月まで二日あるというのに、知らぬ間に昇進の機会が消されたのだ。もとより彼女たちは彼の眼中になかったのだと思うと、後ろめたい気持ちもある。

 その罪悪感に加えて、昨夜は予想通り竹妃の夢を見た。切なげな表情で文を綴る竹妃だ。

 そのため、麗殊は言いようのない複雑な気持ちを抱えたまま、桃晴宮で迎える初めての朝を過ごした。


 昨日の曇り空とは異なり、今日は夏らしい青々とした雲が広がっている。木の葉を揺らす風も優しく暖かい。


「まあっ、美味しそう……!」


 麗殊は房室の中央で、卓に並べられた昼餉を前に顔を輝かせる。

 先程、尚食局の宮女が何名もやってきて、恭しい振る舞いで香り高い料理たちを準備してくれた。

 そこに、儀式で使う料理を再現してくれた小柄な宮女もいた。


芙良ふらと申します」


 そう名乗り頭を垂れた宮女──芙良は、やはり尚食局の中でも高位な立場だったようだ。彼女は先日の麗殊の儀式について一切言及することなく、粛々と他の宮女に指示を出して仕事をこなすので、己が口止めするまでもないだろう。

 喪服中のため控えめであるが、それでも充媛時代と比べて品数に差がある。また、少量だった朝餉と比べても昼餉の方が豪華だ。

 特に羊湯ヤンタンは羊肉をたっぷり煮込んでいるため、濃厚なのが見て取れて喉が鳴る。冬に先立ってもう飲むことができるなんて最高だ。


 細かい肉が入った饅頭マントウを頬張っていると、後ろで控えていた栖遥が声をかけてきた。


「桃妃様はとても美味しそうに召し上がられますね」

「だって本当に美味なんだもの。栖遥も一緒に食べない?」

「そんな、恐縮ですわ」

「一緒に食べた方が美味しいのよ」


 麗殊は視線で空いた席を示し、半ば強引に栖遥を座らせる。桃晴宮があまりに広いので、寂しさを感じてしまったのかもしれない。


「こんなに豪胆なお妃様は初めてですわ」


 栖遥は苦笑して、「それじゃあ、失礼します」と椅子に腰掛ける。麗殊が次々に料理を口に運ぶのを見て、栖遥も控えめに食事を摂り、「美味しいです」と微笑んだ。


 食は口だけで行うものではない。こうやって誰かと一緒に食べ、その空気を肌で、目で感じることも、味わいを深めてくれる。

 芙良は「この先ご要望があればお申し付けください」と言ってくれたので、桃妃の位に慣れたら食べたいものをお願いしてみよう。


 麗殊は温かい羊湯ヤンタンをごくりと飲み干し、満足気に頬を緩ませる。

 この数刻後に運ばれてきた夕餉も違わず至高だったことは、言うまでもないだろう。

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