後編

 結局眠りに入れたのは夜と朝のはざまの三時だった。

 コーヒーの力が、睡魔を邪魔していたのはわかりきっていた。

 なにせ恋夏がコーヒーの粉をむやみやたらと入れて作ったものを飲み切ったのだ。

 それでも、朝はちゃんと起きてご飯を食べて勉強を始める。受験生として生活リズムは大きく崩したくなかった。

 朝七時に目覚ましアラームで無理やり起きて、リビングへ行くと父さんがテレビを見ながらトーストをもそもそ食べていた。母さんは洗濯にお弁当作りにと忙しそうにあちこち行き来している。

「おはよ」

「おはよう。いつにもまして眠そうだな、春真」

「遅くまで勉強してたからな」

「それで、今日も勉強しに学校へ行くんだろう。冬休みに入ったのに受験生は大変だ」

「学生の本分は勉強だから、ということにしておいて。仕方ないと思わないと続かなくなりそうで……」

 父さんは眉を下げて、

「この冬が総決算だし、仕方ないか。同じく仕事に勤しむものとしては、無理はするなよとだけ言っておこうかな」

 なぐさめるようにそう言うと、トーストの残りを一息に食べ始めた。

 今日は平日なので、父さんはもちろん仕事で、母さんも少し遅れてパートに向かう。

 僕は特別補講があるので冬休み中も登校する必要があった。

 さしあたっての僕の役目は、おそらく爆睡中であろう恋夏を起こしにいくことだ。

 僕が高校三年になって勉強が忙しくなってからは、恋夏は一人で留守番をすることが増えていた。昨年までは、お互いに暇なら二人でテレビの前に座って一緒にゲームをして騒いでいたから、今の恋夏が一人で何をしているのか僕は知らない。

 恋夏が寂しがっている説を、僕は捨てきれていなかった。

 まずは、と僕も食パンをトーストにセットする。

 そこに母さんが洗濯籠を持ってやってきた。

「昨夜はお楽しみでしたね」

「どうした、朝から」

「ごまかさなくてもいいよ。テーブルの上にちょっとだけ残ったコーラが置いてあって、流し台には春真と恋夏の二つ並んだカップがあって、母さんはピンときちゃったんだよね」

 ……痕跡を消し去ることを完全に忘れていた。

 母さんは家族でいち早く起きて台所へ向かうから、こういう邪推をしてくることも考えておくべきだった。

 とはいえ何かがあったかといえば、特別何もなかった。

 それをどう母さんに伝えようかと悩んでいると、

「母さんとしては、仲良くするのは大歓迎よ。自分の子どもたちが将来別々に暮らしていても、困ったときに手を取り合って生きていくという未来は、これ以上ない理想だもの」

 思っていたよりも母さんはからかってこなかった。むしろ、うんうんと頷き、にこにこと微笑んでいた。

「そういうものなんだ」

「それはそうでしょ。父さんも同じ気持ちよ、ねえ」

 父さんはテレビを見ながら歯磨きをしていたので声には出さなかったけれど、笑顔を浮かべ、片手でサムズアップをした。

 母さんは「洗濯機がとまるまで」と、手にしていた洗濯籠を床に下ろした。

「恋夏は、お兄ちゃんのことをいつも心配しているわよ。今年になってから勉強ばかりで大変そうだって。一緒にしたいゲームがたまっていて悲しいって」

「そう、なんだ」

「それで、受験がうまく済めば、来年は大学進学で家を出ていくでしょ。恋夏はたぶん心の中で泣いていると思うな」

 そうだ、と思った。

 夜に二人で話していた通り、恋夏はやはり、僕に大学へ行ってほしくないのだ。

 それなら、どうして最後に僕の受験を応援していったのだろう。

 あれは社交辞令のようなものだったのだろうか。

「ちゃんと恋夏の気持ちを楽にしてあげてね」

 母さんは優しい声でそう言って、音を鳴らし出した洗濯機のほうへと小走りで向かっていった。



 僕はねぼすけの恋夏を起こしに行った。

 部屋の前でドアをノックする。

 もちろん返事はない。

 毎朝のことなので、「入るよ」と一言のあとドアを開けた。

 恋夏はベッドの中でぶ厚い布団に押しつぶされるように眠っていた。寝相が悪いことを気にしているらしく、毎年寒くなると重量のある掛け布団を使っていた。

 僕はベッドに近づき、恋夏の肩のあたりを揺さぶった。

 すやすやと安らかな寝息が聞こえてくるばかりだ。

 恋夏も寝入るのが遅かったはずだから、いつもよりもさらにぐっすり眠り込んでいるのだろう。

 どうしたものかと思案していると、掛け布団の上に一枚の紙が置いてあることに気づいた。

『起こしに来る、お兄ちゃんへ』

 寝坊を見越しての書置きのようだった。


『お兄ちゃんへ。夜はからかってごめんなさい。勉強がんばって、大学合格してね。この一年くらいずっとがんばっているんだから、きっと大丈夫だよ。

 わたしはお兄ちゃんのがんばりを、すぐそばでずっと見てきたから。大丈夫だってわかるよ。

 遠くへ行っても、新生活で友だちができたりカノジョができたりしても、わたしのこと、忘れないでね。気軽に連絡してね。お兄ちゃんと一緒に協力ゲームをする日がすごく楽しみなんだ。

 それだけ。


 勝手にどんどん進んでいくお兄ちゃんを見ていると、不思議なくらい気持ちが沈んでいくの。一生懸命勉強して、模試でいい点を取って、お母さんたちに見せてくるたびに、わたしは心の奥がモヤモヤしてたの。大学へ行ったら、きっと、絶対、わたしを置き去りにして遠い存在になってしまう、みたいで。

 わたしは今も、これからも、一緒にゲームをして馬鹿騒ぎする関係でいたいです。

 ごめんなさい。わたしもお兄ちゃんのこと、大好きです。

 今日は起こさないでください。枕もとにあるスマホのアラームを八時にセットしてあるので、大丈夫です。


 がんばって!!』


 文章の後半は消しゴムの跡で乱れていて、内容に悩んでいたことがよくわかった。

 僕はその書置きをもらうことにして、恋夏の部屋を出た。


 リビングに戻ると、父さんはすでに出かけていて、母さんも仕事に行く支度を済ませていた。

 僕もそろそろ準備を急がないといけない。

 母さんが仕事用のバッグを肩にかけながら近寄ってきた。

「恋夏、起きそうだった?」

「今日はスマホのアラームで起きるからいいってメモがあった」

「ふーん。それが恋夏の答えなんだ」

 なにやら訳知り顔の母さんだったけれど、「それじゃ戸締りよろしくね」と伝えて、玄関へと歩いていった。


 がんばって。

 恋夏の言葉が、僕の背中を押すようだった。

 最短であと二ヶ月。

 それで勉強漬けの日々は終わる。

 制服を着て、防寒具を羽織って、カバンを持って、準備万端の僕は家を出る前に、恋夏の部屋をそっと覗いた。

 目覚ましアラームが朝を告げる前の恋夏は、まだクリスマスの夜にいるのだろうか。

 僕はカバンからルーズリーフを一枚取り出して、一文だけ走り書きするとベッドに乗せた。


『息抜きもしたいし、帰ったら久しぶりに一緒にゲームしようぜ』


 この上ない楽しみができたことがくすぐったいくらい心地よかった。

 僕はカバンをはずませて、思いっきり玄関のドアを開けた。

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