第二話 少年の正体
「急いで戻るぞとは言ったが、水遊びして帰ってこいと言った覚えはねえよ、なあ総司」
「はい…」
額に青筋を浮かべた土方は、般若の如き顔で内玄関の入り口を塞ぐように立っている。般若だけではない、土方の背後には昔地獄絵図の屏風に描かれていた鬼が何体か今にも襲い掛かってきそうなほど具体的に見えた。
沖田と、そしてなぜか連れてこられた少年も、屯所としている八木邸の内玄関の敷居を跨がせてもらえることなく、ずぶ濡れのまま一段下がった石畳の上に正座をさせられていた。少年は思いもよらない展開に困惑を隠せない表情だったが、一方沖田は笑っているのか困っているのか泣いているのかなんとも言い難い顔をしていた。
「これには深い事情がありましてえ…」
恐る恐る土方のほうを見上げる。まずい、これは相当おかんむりだ。
「まあまあ土方くん、沖田くんもそう言っていることだしまずは話を聞こうじゃないか。」
土方の肩を叩き、穏やかな顔でそう優しく諭したのは同じく京に残留する土方らの昔馴染みの、山南敬助だ。二人が並ぶとまるで鬼と菩薩と例えて良いだろう。
「山南さんは総司に甘すぎる」
土方は一つ溜息をつくと、今度は沖田ではなく少年のほうをじろりと見た。
齢は大体十五くらいだろうか。沖田より更に線が細いが、体つきを見るによく鍛えているようだった。それでもまだまだ大人とは言えない、少年特有の儚さがにじみ出ていた。何より、鋭くこちらを見据えるその若干目尻がつりあがった藍の瞳が印象的だ。
「で、こっちの坊主はなんだ」
その迫力に物怖じせず、少年は抑揚なく答えた。
「…川に子供がおぼれていて、僕が泳いで助けました。その方は手を貸して手伝ってくださったんです」
土方は少年をしばらく見つめたが、沖田のほうを振り返って
「おい、それは本当か」
と聞いた。沖田が素早く二回力強く頷くと、土方の表情がさらに険しくなった。
「なんでそうと早く言わねえんだ!!」
沖田に向かって一喝。
「だから事情があるって言ったでしょ!!最初から話聞かないトシさんが悪い!」
沖田も負けじと吠える。
やいのやいの言い争いをしている二人をよそに、山南が申し訳なさそうに少年の前へかがんだ。
「巻き込んでしまってすまないね、すぐに火の用意をするから体を温めるといい」
土方とのあまりの温度差に少年が面食らっていると、山南は続けた。
「ところで言葉を聞くに、君もこのあたりの者ではないね。京には何用できたんだい?」
穏やかな山南の口調に、少年は少し安心したようであった。
「…江戸で、京の治安維持と上様の警護のために浪士組を結成すると聞きまして。出立の用意に手間取り、遅れてしまったのですが後を追って上洛しました。すみませんが、浪士組の方々がどこにいらっしゃるかご存じではないですか」
少年の言葉に皆の視線が一斉に集まる。
土方は驚いたあとに、盛大に笑っていった。
「坊主、運がよかったな。ここがその浪士組だ。」
少年は驚いたように口を開け、緊張が解けたのか力が抜けてしまったようだ。
「…やっと着いた…」
「お前、国はどこだ」
土方が問うと、少年は姿勢を正して答えた。
「江戸、市谷です」
その言葉に周囲の視線がまた一斉に少年に集まる。
「…名前は?」
今度は山南が恐る恐る問う。
「橘です。橘飛鳥といいます」
「「たちばな…」」
土方と山南が驚いたように頭を抱えた。
「橘と言えば、市谷に旗本屋敷があるあの橘康正殿のご子息かな」
ここにいる誰のものでもない、力強い声が響く。
内玄関の奥から、体格の良い日に焼けた男が姿を現した。
「出遅れて申し訳ない。私は市谷にある試衛館という道場の四代目宗家、近藤勇と申します。」
橘の生まれと、近藤、沖田が剣術を学んだ試衛館という道場は非常に近い場所にあった。また市谷は旗本屋敷が立ち並んでおり、どこの旗本がどこに屋敷を構えているかは地元の住民であれば誰もが知っているのである。
武家出身の橘に対し、道場の四代目宗家といえど農民出身の近藤。橘と同じ武家出身でも格が全く違う、下級武士の生まれの沖田。この中で一番身分が高いのは、間違いなく橘だった。
「どうかおやめください、私は旗本の生まれと言えど、訳あって父から勘当された身です。もはや武士でもなんでもなく、皆さんと身分の差はありません」
近藤はニカッと笑顔を見せると、豪快に橘の肩を叩いた。
「いやあ、すまないね。この浪士組は身分関係なく志を同じくするものが平等に集まる場だ。お言葉に甘えて、そうさせてもらうよ」
「…試衛館のことは、私も存じ上げております。道場の門下生一同も浪士組に参加し上洛したと聞きおよび、僕も後を追ったのです。それがあなた方だったとは、大変失礼いたしました。」
橘は深々と近藤に頭を下げた。
「といっても、もう浪士組は帰還命令がでて解散しちゃいましたけどね」
付け足した沖田の頭に、土方は拳骨を落とした。
沖田の言葉に、信じられないと橘の顔が青ざめる。
「坊主、それについては後で説明する。とりあえず先にそこの馬鹿と火でもあたっておけ」
土方がそう言いながら沖田のほうを顎でしゃくった。
ぴょん、と勢いよく立ち上がった沖田が、橘に向けて嬉しそうに手を差し伸べる。
「…なんでそんなに嬉しそうなんですか」
戸惑いながら橘は沖田の手を取った。
「なんでって、迷わず子供を助けに行くような良い人が仲間になるってうれしいじゃないですか。」
川で助けた時のように、沖田は橘の手を力いっぱい引っ張り上げた。
「歳はいくつです?」
「…十五です」
それを聞くやいなや沖田はさらに嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ここでは私がこれまで年少者だったので、弟分ができたみたいでうれしいなあ」
沖田が出来心で橘の頭をなでようとすると、橘は物凄い瞬発力でその手を払いのけたのだった。
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